第5話 国家の体制
だが、彼らが実際に文明に触れるとどうだろう?
確かに最初は、彼らが奴隷にされることを嫌がっていたのだが、嫌だと思っている理由は、まわりが見ているのと若干違っているようだ。
普通に、
「奴隷にされるのは嫌だ」
というのは、自由を奪われ、自分たちが利用されることに対して情けないという思いからではないかと思うのが、外部から見た人の考えではないかと思うのだが、実際にはそうではない。
彼らは、自由を奪われることに対して別に嫌だと思っているわけではない。むしろ、縛られることで、自分たちが何かを判断しないで済むことに、気楽さすら覚えているくらいであった。
「では、何が嫌だと思っているのか?」
ということを聞かれると。
「自由になることで、他人とかかわらなければいけないことが嫌だった」
というものなのだ。
彼らの原始的な世界では、他人という意識はない。それでも何とかなってきたのは、こちらの世界でいう、
「本能」
というものが、生まれつき備わっていて、遺伝子がそれを助けているのだろう。
もちろん、彼らに、本能や遺伝子なる言葉を言っても意味が分かるはずもない。しかし、「自由を得ることによって、今まで持っていた本能が薄れてくるのではないか?」
と考えることが怖かったのだ。
実際には、そうではないかも知れない。しかし、そう思い込んでしまった自分が怖いのだった。
文明というのは。そんな本能を打ち消すものなのかも知れない。運命の代わりに、集団で生きることを覚える。人とかかわることで、お互いに生きていこうという絆が生まれるのだが、それとほぼ同じくらいのタイミングでであろうか、まわりとかかわることで、反発してしまう思いが沸いてきて。それが、相手に対しての疑心暗鬼であったり、猜疑心となってしまうのだった。
それが、嫉妬になったり、競争心として湧き上がってくる。そのどれもが、元は同じ感覚からではないかと思うのだが、それだけに、この気持ちから逃れることができなくなってしまうような気がするのだ。
というのも、その闘争心が、相手を侵略するというものに変わってしまうと、次第に人間観で、上下関係が生まれてきて。まわりを従えたいという思いが生まれてくる。それが征服欲だというものだと分かると、それ以外の欲も感じるようになるのだった。
ここまでくれば、
「人間は欲というものと切っても切り離せない関係なんだ」
と思うようになる。
しかし、この欲を持っているのが人間であり、欲があるから、人間関係をよくもできるし、あるいは、悪化させてしまうことになるのだろう。
だが、この欲はなければいけないものなので、もし、それが悪い方に展開することになったとすれば、この欲が、
「悪」
というものに変わってしまうのではないだろうか。
悪というものを悪いことだとして、絶対に認められないというのは、
「勧善懲悪」
という形で言われている。
奴隷となった連中には、その勧善懲悪という意識がなかった。
その時は、
「人間の欲というものによって自分たちが奴隷にされたのだから、自分たちを騙した連中は悪い人間で、懲らしめられなければならない立場なのだ」
と考えていたが、
「自分たちも奴隷にされることで、生きながらえる力を与えられるのではないか」
という前向きな気持ちもあることで、勧善懲悪とは違った感覚になっているのではないだろうか。
「懲らしめる」
という考えも、そもそも悪である。
それを正義として考えること自体、無理のあることではないのだろうか。
確かに、自分たちの土地にいると、毎日を生きるのが大変である。下手をすると、明日食べ物があるか、保証はないのだ。完全な自給自足で、弱肉強食の世界。他の土地にいれば、
「人間が一番の高等動物なので、食料が手に入らないなどとうことはない」
という意識が漂っている。
もちろん、文明社会においても、地域によっては、飢えや病に苦しんでいう地域もあるし、今は満たされている国も、昔はまったく文明とは程遠い国もあり、天候不良によっての不作や飢饉によって、道にのたれ死んでいる人がたくさんいたりすることもあったのだろう。
だが、この未開の島では、まったく文明というものから隔絶されていて、そのおかげで戦争というものともある程度無縁であった。
世界大戦の頃は。このあたりは、日米の激戦区だったはずなのだが、当時の戦争における地理的優位性は、この島にはなかった。そのおかげで、戦略的に攻め込まれることもなく、逆に未開のままに過ぎ去っていったのだ。
ただ、日本軍は、この島に兵力を温存し、来たる決戦において、出撃命令が下されることになっていた。
しかし、来たる決戦は来なかった。それ以前に、本島の方に、米軍が奇襲してきて、上陸を許してしまった時点で、実質的な戦争は終わってしまったのだった。そのため、別動隊は忘れ去られ、彼らは命令を忠実に守り、この島にとどまっていたが、一人、また二人と、島の自然に太刀打ちできずに死んでいった。
横田少尉だけは、何とか生き残り、運よく、原住民と心を通わせて、今まで生き延びることができたのだった。
今回、横田少尉が帰国して、一時のブームもあっという間に去ってしまうと、残ったのは、相変わらずの原住民の生活だったのだ。
彼らは、ここで暮らすことが、運命であり、それ以外は考えられないと思っていた。だから最初は、他の土地に強制的に連れていかれるのは、本当は不本意だった。
しかし、彼らには、
「運命には逆らえない」
という宿命があったのだ。
運命によって、他の土地に連れていかれたわけで、そこで待っていたのは、強制労働だった。
最初は、
「どうして、俺たちがこんなことをしなければいけないんだ?」
という素朴な疑問だった。
家に入って、家事をさせられたり、農作業のようなことである。頭を使ったり、今までの経験値を生かして、自然と読んだりもしないで済む。彼らにとっては、毎日が生きるか死ぬかという状態だったので、
「生きるためにがどうすればいいか?」
ということを真剣に考え、考えが間違っていれば、食べ物はなくなり、次の日には、死んでいるという状態だということは本能で分かっている。
それを思うと、こんな生きるということに対して、別に関係のないようなことをどうしてしなければいけないのかが不思議だったのだ。
要するに、
「戦争中に、まわりの人はどんどン戦って死んでいっているのに、自分だけが、戦争にもいかず、家事をしているような感じだった。彼らとすれば、そんなことをしている自分が情けないくらい」
だったのである。
しかし、家事をしているだけで、ちゃんと食べ物も与えてくれる。自分たちも文明人と同じものを食べさせてくれるのだ。しかも、衣類も住まいも提供してくれる。自分で探してきたり、奪い取ったりしなくてもいいのだ。
「至れり尽くせりではないか」
と感じることで、
「自分はこんなに楽をしてもいいのだろうか?」
と思うようになり、さらに、
「まさか、こっちの方が本当なのではないか?」
と感がることで、今までの生活が何であったのか、そして、今のこの生活が、こんなに楽でいいのかという、まわりが見る目と、まったき逆の意識を持っていたのだ。
それだけ、彼らの意識は、現代の文明人とは、かけ離れたものだったに違いない。
彼らには、夢のようなものというのはあるのだろうか? 毎日をその日暮らしでやり過ごし、当然、継続的な生活ができているわけでもない。そこに、夢や目標などないだろう。あるとすれば、
「生きていくということをいかに継続させられるか?」
ということに限られるのではないだろうか?
文明人の方からすると、この国の奴隷制度は少し変わっていたのだ。元々奴隷制度などというものを利用していたわけでもなく、
「お手伝いさん」
であったり、
「ハウスキーパー的な職業」
というのも、この島には存在しなかった。
それらの制度は、国全体が豊かで、個人個人がそれ相応の豊かな生活をしていることでできるものだった。
一部の特権階級の人たちがそのような贅沢な生活ができたとしても、必ず、底辺から不満が起こり、クーデターのようなものが発生していたかも知れない。
それが、
「あってはならない時代」
というものを作るのであって、下手をすれば、国家の滅亡を意味するものとなったであろう。
「下剋上のような世界」
を、上層部は恐れたのだった。
それなのに、
「奴隷制度などを推奨するというのは、一体どういうことなのか?」
と考えさせられる。
だが、ここには、国家の思惑があった。
この奴隷というのは、そもそも、普通の奴隷制度のように、自分たちの都合だけで、勝手に奴隷を迫害することは許されなかった。
もっとも、そんなことをしようものなら、あまりにも育った環境の違う連中を初めて相手するのだから、何があっても、命の保証はないと言われていた。
それでも、奴隷制度のようなものをどうして国家が推し進めるのか、庶民には分からない。
彼らを受け入れることにしたのは、他でもない、島の政府であった。
急進的に諸外国に追いつこうとしていることで、かたや、先進国の文明を受け入れてきたのだが、そこで補うべき、人足をいかに補充するかというジレンマから、
「未開人を、うまく飼いならして、人海戦術のための要員に育てる」
ということを目標に、この奴隷制度のようなものが生まれた。
この奴隷制度は国家からの押し付けであり、うまく国家運営ができるようにするのが一番の目的ということで、まるでモニターのようなものだtt。
そのために、奴隷を雇ってくれた家庭には、奴隷の使用料は、すべて国家持ちであり、警備員も、一家庭に一人つけるという、大盤振る舞いだった。
それでも最初は、
「あんな、どこの馬の骨とも分からない民族を家に入れるのは、恐怖以外の何物でもない」
ということで、誰からもモニターになってくれる家庭が現れなかったが、国家の最終手段として、
「この制度が軌道に乗らなければ、国民にS徴兵制をしくことを、閣議に提案する」
ということが発表され、議会の中で賛成派が増えていき、
「閣議決定も時間の問題だ」
と、マスゴミなどで、煽られたせいで、さすがにここに至って、国民も渋々従うしかなかったのだ。
「まさか政府がここまで強引なことをするなんて」
と、国民も政府の本気度に、恐れを感じていた。
そんなこんなで、政府の考えが、この期に及んで、いよいよ奴隷制度の足場を固めることになった。
実際の目的達成までには、何段階もステップを踏まなければいけない。今のところは、諸段階であるが、実は一番の味噌が諸段階であった。諸段階を乗り切れば、半分近くは目的に近づいたことにあるだろう。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉があるが、まさにその反対である。
この奴隷制度がうまくいくか行かないかは、
「それぞれの立場でいかに、相手の考えがどこまで分かるか?」
ということに掛かっていると言っても過言ではないだろう。
お互いに、奴隷と使う側がお互いに分かっていないと、それぞれが探り合いになる。
元々、奴隷というのは、それぞれに、立場が分かっていることから、支配する方は、安心して、支配される方は、諦めの境地でしたがっていたのだが、この場合は、最初から人間関係を作らないといけないところから始まる。
そもそも、支配する側に、
「支配している」
という意識もなければ安心感もない。
むしろ、相手が逆らってこないかという恐怖が先に来ているのだ。だから、必要以上に気を遣っているのだし、しかも、国家が強制的とはいえ与えた相手なので、傷つけるわけにもいかない。
「人間性が嫌だと言って、返品やチェンジができるわけではない。政府から無料の上に、協力金までもらっているのだから、文句もいえない」
まるで、迷惑料と手間賃を、
「かかることを前提にして、もらっているようなものだ」
と言ってもいいだろう。
最初は、さすがに恐ろしかった。今まで見たこともない視線を浴びせてくるし、腰の低さは、気を遣っているからではなく、明らかに低い姿勢から、どんな攻撃を受けても、対応できるようにしている、レスラーのようではないか。
さらに目力も恐ろしい。いつ襲い掛かってくるのか分からないその雰囲気に、恐怖が募ってきて、どうすることのできないでいる。
奴隷の側には、そんな支配者側の事情が分かるはずもない。ただ、
「どうして、俺たちはここにいるんだ?」
という思いだけで、何かをさせられるということには、違和感がなかったのだ。
そもそも、自分たちの島では、たえず動いていないと、いつどこから、何に襲撃されるか分からない。まるで、背中に目があるかのように見えるということをいう人がいるが、まさにそんな感じであろう。
まるで、魔法使いか、忍者のようなその迫力は、別に修行で身についたものではない。普通に生活をしてきて身についたものであり、ただ、文明人の祖先も同じだったはずなのだ。
「一体、どこから違えてしまったのだろうか?」
と考える。
文明を得た人間も、ずっと未開の地で過ごしてきた人間のどこに差があるというのだろうか?
それを考えると、一つの考えが浮かんできた。ただ、それはあまりにも奇抜な発想であるが、それを裏付けるものも残っていることで、どう解釈すればいいのかを考えてしまうのだった。
その奇抜な考えというのは、
「宇宙人飛来説」
である、
「宇宙人飛来」
などというと、ばかげていると思われるだろうが、
「文明は自分たちが開発したのであれば、すべてに行き届くはずだが、そうではなく、しかも全世界に、違った形で文明が生まれている」
ということを考えれば、日本が開国した時のように、江戸幕府にはフランスが、そして薩摩長州には、イギリスが、という、これらは、外国の諸事情によって、味方をする勢力が違ったことで、戦争になったともいえるだろう。
古代の、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河と言われる、
「世界四大文明」
も、まったく違った形の文明である。
それがなぜ起こったのかということを考えると、そこで宇宙人が、幕末のように、それぞれの諸事情によって、支配体制を保つために与えた文明だとすれば、分からなくもない。
そして宇宙人という説の中で、その信憑性を語るには、ピラミッドなどのように、まったく違う文明でも、似通った、嫌、
「似て非なるもの」
というものも存在していることが、
「宇宙人飛来」
ということの証明ではないだろうか?
それを思うと、実に不思議なものだといえるであろう。
そういう意味で、支配者たちにも奴隷の側にも相手を、
「まるで宇宙人のようだ」
と思ったのかも知れない。
そんな支配者と奴隷の関係であったが、最初に近寄ってきたのは、奴隷の方であった。
普通であれば、文明人の方が思考能力は強いはずなので、相手を気遣うということにかけては、経験豊富ということもあり、有利だろうと思っていたが、実際に歩み寄ってきたのは、奴隷たちの方であった。
そもそも、彼らはこちらの世界に自ら飛び込んだわけではなく、強制連行だったのだから、
「何をされるか、させられるか分かったものではない」
というのが、当然の考えであろう、
彼らには本能的に、そんな状態になると、諦めの境地が芽生えてくる。いわゆる、
「諦めというスイッチが存在していて、それをオンにするだけ」
ということなのだ。
しかし、実際には、そんなスイッチを押すことで諦めの境地に入っていたのだが、
「どこかが違う」
と考えた。
この諦めのスイッチを押した時が、一番目力が強くなる時で、それを文明人として分からなかったことが、相手にマウントを取らせることになったのだろう。
奴隷たちが感じたのは、前述のような、
「こんなに楽でいいのか?」
という思いであった。
その思いがあることで、
「この人たちは、俺たちが思っているほど悪い人ではないのかも知れない」
と思うことで、文明人に対して、一定の敬意を表するようになり、それが、文明人に、
「自分たちがマウントを取られた」
という意識に結びついたのだ。
文明人というのは、マウントを取られると、その瞬間、立場関係が確定したと思い込むようだ。
本当はこれからのはずなのに、早々にマウントを取られたと相手が思うのだから、支配者と奴隷という表向きの関係ではあるが、実際には、まったく逆のマウントになっているということで、それぞれに、プラスマイナスがイーブンになったことで、お互いがうまい関係になってきたのだろう。
ほとんどの家庭で、同じような思いに、ほぼ同時期になったというのは、奇跡だと言っていいだろう。
しかし、この奇跡が起こらなければ、二つの関係性がうまくいくということはなかったかも知れない。
そういう意味で、
「ありえないほど、限りなくゼロに近い確率が成立したことで、政府の思いのままになったといえるのは、皮肉なことであろうか?」
実際には、政府の思いのままになるというのは、ここの国民にとっては、決していいことではない。
政府が嫌いだというわけではないが、応援したくなるほどの政府でもない。どちらかというと、自分たちの生活を最低限保証してくれればそれでよかったのに、今回はうまくいったからと言って、やつらの製作には賛成できない。
そもそも、今回は、偶然、いや、国民性の問題が解決できたことで、奇跡が起こったのだから、政府の手柄でも何でもない。むしろ、可能性がゼロに近かったものを国民に押し付けたというのは、明らかに罪だったのだ。
うまくいったからよかったものの、政府と国民が一触即発になっていた可能性は、かなりの確率であったはずなのだ。
それを思うと、うまくいったことが、
「国民の手柄だと、政府に認めさせたいくらいだ。まさか、無料と協力金だけという、金で解決されてしまっていいのだろうか?」
と考えてしまい、
「失敗するのも困るが、成功によって、政府の手柄になってしまうのは、実に癪なことである」
と考えてしまう。
ただ、それ以降、国民が政府に対して信用しなくなったのは事実で、この状態が今後どのような歴史を作っていくのか、それが問題なのではないだろうか?
そんな国民と奴隷との関係は、政府に対しての不満をよそに、どんどん近づいていくのだった。
そのうちに、奴隷と支配者の関係が、国家が考えている思惑とは完全に違ってきていた。
国家の考えていることとしては、
「国民の中に入れることで、未開人の中に、文明人に対しては、支配階級の支配する側としての人間たちが存在する」
ということを思い知らせて、自分たちが支配され、こき使われるということへの感覚をマヒさせようというのが一番の狙いだった。
そうすることで、奴隷としてではなく、人足として働く中で、ほぼただ同然に働かせることが半永久に続くことで、今の投資も完全に回収できるという考えから生まれてきたのだった。
最初は、政府の考えが嵌ったのだ。
なぜなら、彼らは国民に支配されることで、自分たちが今までやってきたとこよりも、楽だということに気づいたからだ。
ただ、これはあくまでも、偶然の産物であって、
「ケガの功名だ」
と言ってもいいだろう。
しかし、その気持ちが永久的に続くものではなく、どちらかというと、
「ただの通過点」
でしかなかったのだ。
それが、政府にとっての誤算であった。
奴隷と支配者との間に、交流が生まれ、本来であれば、奴隷制度は一時期のものであり、いずれは政府に奴隷を、
「返還」
しなければいけないということであったが、支配者連中が、そのことに抗議を寄せてきた。
国家とすれば、
「だったら、奴隷を有料にして、協力金の一部を返還させることにするが、それでもいいのか?」
ということになった。
国民は、
「それでもいい」
というではないか。
相手を奴隷としてではなく、対等な相手として見るのであれば、ハウスキーパーを雇っているのと同じことであり、それに対価が伴い野茂当たり前だ。
今までの協力金と、無料だったことで浮いた資金で、これから彼らを養っていったとしても、これから受ける奉仕に比べれば、何でもないことだった。
しかも、完全に情が移ってしまっている。友達ともいえる相手をみすみす政府に返還するというのは、それこそ、人道に反することであった。
国民の、反対運動も辞さずという態度に、政府も強硬な態度はとらなかった。
そこで、政府は今回の関係を、モニターと考え、その効果を検証してみることにした。
専門家が割り出した結論は、実際の事実経過と、そんなに変わるところはなかった。そうなると、まだこちらに連れてきていない連中を洗脳することは難しくはない。出稼ぎ労働者のような形で扱うのであれば、別に何ら、問題はない。
彼らもこちらに来ることで、毎日の生活を、明日の食事の心配をすることもないので、安心であった。
そういう意味では、
「奴隷として連れてきたことは、政策としては失敗であったが、それをモニターとして切り替えて考えたことで、うまく行ったんだ」
ということを理解できたことは、彼らを使うという意味だけでなく、これからの政府の方針を考える際の、指標になるだろうと考えるようになった。
そういう意味で、この政府の政策は、曲がりなりにも成功したと言ってもいいだろう。
国連も、表から見ている分には、この国の政策は、これからの未開人の国に対しての、
「モデルケース」
として、マニュアル化することを推進していた。
この国から、アドバイザーとして招いて、教授を受けたが、実際には、
「棚から牡丹餅」
的なことでうまくいったことなので、マニュアルがどこまで通用するかということは、ハッキリとはしていないだろう。
そんな政府と国連の考えをよそに、国家の中での未開人が、次第に勢力を持つようになってきて、そのうちに、市民権を得るまでになるのに、そんなに時間はかからなかった。国民は一つだという考えが、国民の中に浸透していたからである。
そんな国家の元々の思惑とは違っていたが、結果としてうまくいったことを、
「事なきを得た」
というのだろう。
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