第2話 国際的委任独立国家

「ニワトリが先か、タマゴが先か?」

 という発想を思いついた時、同時に別の発想が頭に浮かんできたような気がする。

 それは、、

「人間は、生まれてくることを選べない」

 ということである。

 この発想は逆に、

「死ぬことも選べない」

 ということであるということに繋がってくるのだった。

 確かに人間は、

「いつ、誰から生まれるか?」

 ということを選ぶことはできない。

 金持ちの家に生まれれば、金持ちの子供として育ち、貧乏な家に生まれれば、貧乏な子供として育つというのは、当たり前のことである。

 特に昔は、身分制度などというものがあり、士農工商などは、

「武士に生まれれば、死ぬまで武士、農民に生まれれば、死ぬまで農民」

 という、いわゆる、職業選択の自由というものが、存在しないということになるのだ。

 ただ、これは、支配される方からすれば理不尽なことであるが、支配階級からすれば、至極当然な政策である。

 なぜなら、封建制度というのは、上下関係で社会が成り立っているわけで、支配されるものたちが生産したものから年後を取り立て、それが、支配階級の、給与となるわけだ。

 その見返りに、支配階級は、支配される連中の土地を保証し、本来であれば、安心して農民であれば、田畑を耕し、コメを生産することができる環境を保証するものであった。

 政治体制というのは、うまくいっている時が、それが正義となるもので、いくさがあった時など、石高によって、兵士を供出し、支配階級による指揮によって行動し、自分たちで自分たちの土地を守るということをしていたのだ。

 ただ、問題は外敵であり、いくさに勝っても、領土が得られない環境であったりすれば、この封建制度というのは、根本から崩壊する。

 また、気象変化などによって、日照りが続いたり、豪雨に見舞われたりして不作となれば。それは予期せぬ出来事として、年貢が免除されればいいが、そんなことはない。支配階級は、それでも年貢を収めさせるようにして、農民を縛るのだ。

 それでも支配階級が食べていけないほどになれば、農家も悲惨なことになり、

「土地を捨てて、逃げ出す」

 という者もたくさん出てくるだろう。

 そうなると、本末転倒というもので、

「農民がいないのだから、土地があっても、天候は良好であっても、農作物はできるわけがない」

 ということになるだろう。

 そういう意味で、幕府や藩の支配階級とすれば、

「農民を土地に縛り付けておかなければならない」

 ということから、職業選択の自由というものを奪うしかないのだった。

 だから、

「士農工商」

 という身分制度は、いわゆる奴隷制度というものとは、最初から考え方が違っていて、そういう意味で、身分制度というものの存在は、

「理由は一つではない」

 と言えるのではないだろうか。

 それを考えると、勉強もしていなければ、身分制度と奴隷制度を単純に同じようなものだと一絡げにして考えて、本当の意味を見失ってしまうことになるだろう。

 だから、

「歴史の勉強」

 というのは、必要なことだといえるのではないだろうか。

「過去に学ぶことで、これから先の自分がいかに判断していくか?」

 ということを学ぶ学問を、歴史というのだ。

 これが、前章での、

「禅問答」

 に繋がってきているのかも知れない。

 それを思うと、禅問答というものを勉強するのも、歴史を勉強するのも、同じところに到達するのではないだろうか。もし、そこに宗教が存在しているとするならば、それこそが宗教の存在意義なのかも知れない。


 ある時、ある国で、急に株価が上昇したことがあった。株価というのは、信用があれば、買いに走り、市場に数が少なくなり、株価が上がる、しかも、誰かが買い占めに走ったということは、

「株価が上がることを見越しての買い占め」

 ということであり、そこには、その株を発行する企業が、絶対の信用を示さなければ生まれないものである。

 この時、株価上昇に対して、全体的に株価が上昇したわけではなく、一つの企業が数日の間に、急に株価が下落したことで始まった。

 何が原因なのか、その時は分からなかったが、その会社の株価が数日間下落を始め、

「このままでは、この会社は潰れてしまう」

 というのは目に見えていた。

 ただ、これくらいのことは株価市場では、別に珍しいことではない。却って、目に見えないところで毎日のように出ては消えていっていることだった。

「いつの間にか、倒産していた」

 などというのはよくあることで、それが、広範囲における株価への影響を及ぼすようになって、投資家や経済専門家が騒ぎ出すことで、社会問題になるのだろう。

 そんなことは分かり切っていることなので、この現象の最中には誰も何も言わなかった。逆に騒ぎ立てる理由があるわけではないので、騒ぐ理由もないし、騒いだとしても、そこは、

「オオカミ少年」

 で終わってしまうということだろう。

 ただ、実際には、

「何か変だ」

 と思っている人もいるにはいた。

 しかし、

「オオカミ少年」

 になることを恐れたのか、オオカミ少年になることで、経済がガタガタになってしまうことを恐れたのか、何も言えなかったのだ。

 本当であれば、その会社の業績から言って、株価は上昇することはあっても、下落することはない。しかも、ここまで一気に下落するのは、おかしいということである。

 怪しいと感じた人がそこで感じたのは、

「裏で糸を引いている何かがあるんだ」

 ということであった。

 それが何なのか分からない。分からない以上、下手に騒ぎ立てられないし、

「騒ぎ立てることで、相手の思うつぼになってしまったら、どうしよう?」

 という思いがあったのだ。

 彼の考えは半分当たっていて、本来であれば、誰かひとりくらいは怪しんでほしいとおもっていたのだった。

 だが、それは伏線としての考えであって、本筋は、

「誰にも分からないところで、株価が動いている」

 と、いう状態にするのがベストだったのだ。

 誰かが気づくとすれば、絶妙のタイミングでなければいけない。

 そのことを誰が分かるというのだろう? 株価の専門家の人たち、誰ひとりとして、おかしな状況に気づかなかったというのも、実におかしなもので、裏で操っていた連中が、かなり以前から入園に組み立てた計画に違いなかった。

「株価なんて、いくらでもどうにでもなるというものさ」

 と考えていたのかどうかまでは分からないが、少なくとも、

「今回の計画は、もしどこかで露呈したとしても、最初に株価が下落した時点で、もう取り返しがつかないんだ」

 と考えていた。

 それが影のフィクサーであり、本当のプロだといってもいいのだろう。

 株価が上昇したことで、政府の任期は上昇した。最近また政府が倒れそうになっていたので、この上昇で何とか延命できたといってもいいかも知れない。

 そもそも、この政府は、定期的に政府の倒壊を示す支持率ラインぎりぎりまで行くので、ほとんどの人は、

「またか」

 という程度で、心配も何もしていない。

 ただ、それでも、オオカミ少年のような感覚に陥ることで、

「油断はできない」

 と考える専門家もいた。

 この専門家は、心配性ではあるが、あまりまわりから嫌われることはない。

「こういう人が一人でもいてくれる方が、皆油断しきってしまった時の抑えになる」

 という、ストッパーのような役目を負っていたのだ。

 だが、最近では、この人がいるおかげで、却って危ないかも知れない。この人自身がオオカミ少年になりかねないとは言えないからだ。

 だが、今回は、最初に抑えとしての機能を果たしていたが、途中から、

「今回は大丈夫だ」

 と言って、今までとは違った反応をしたのだ。

「いつも慎重な、あの人が、今回は太鼓判を押すなんて」

 と、投資家は皆、不安に感じていた。

 それまでは、慎重派がいても、お構いなしに、株価は上がり続けたが、今回は、ストッパーである専門家が、逆の意味でのストッパーになり、株価の上昇が、早い段階で横ばいになったのだった。

 今回の状況を見て、毎朝の経済討論番組で、専門家が語るのだが、いつもは、ありきたりのセリフを言って、それが、株価の安定に一役買うという、いつもの、

「お約束番組」

 であったが、

「今回の株価は、いつもの政府への信頼感に左右されたものではないですね」

 という専門家がいたことで、少しいつもと、話の内容が違った。

 朝の情報番組の中に一コーナーなので、いくらでも、時間配分の変更ができるということで、いつもなら、十五分くらいで終わるところを、三十分に拡大して、討論することになったのだ。

 少々の株価変動に動きがあっても、時間を変更することはないのだが、今回時間の変更に踏み切ったプロデューサーは、専門家の先生の顔色を見て、ただごとではないと判断したのだった。

 この判断は正しかったのだ。夕方になる頃には、経済界は波乱に満ちていて、夕方の番組では、経済専門家が、どのチャンネルをひねっても、出てくるというありさまだった。

 専門家には、何が問題なのかということは分かっていたが、それは現象の結果として、

「これでは危ない」

 という結果が出ているからであって、なぜそんなことになったあのかということは、まったく分からなかった。

「それが分かるくらいなら、こんなに騒ぎはしない」

 と専門家は思っていた。

 今回の事例は、

「問題が起こっても、解決までにはすぐに向かうのだが、原因が分からない」

 というものであった。

「今回は、事なきを得たが、問題が少しでも違った形に推移していたら、どんな結果をもたらしたか、誰にも想像がつかないだろう」

 というようなことだったのだ。

 だから、ニュースで専門家が騒いでいるわりには、投資家の人たちには、よく分かっていなかった。

「何をそこまで騒いでいるんだろう?」

 と思うのであって、専門家は、自分たちの目で見ていることと、投資家の目線で見ていることが違っていることで、投資家には、

「どうせ分からないだろう」

 と感じたが、投資家には専門家のような広い視野で見ることはできず、あくまでも、自分しか見ていない狭い視野の連中には分からないことだった。

 専門家も経済界が混乱しなければ、投資家がどうなろうが関係ないと思っているのだろうが、経済界の混乱は、専門家の責任になることで、投資家を見捨てることはできなかった。

 それを思うと、専門家にとって、投資家は、嫌いな存在でしかなかったのだ。

「なんで、あんな自分のことしか考えない連中まで、俺たちが救ってやらなければならないんだ?」

 と思っていた。

 最近の投資家は、自分たちのやり方を独自に開発し、他人を蹴落とすまでの捜査ができるまでになった。

 しかし、それを頻繁にやってしまうと、経済の動向が不安定になり、下手をすれば、収拾がつかなくなってしまうので、そのような迷惑行為を取り締まる法律は成立していたが、投資家の方でも、そんな法の抜け道を考えるところまでいっていた。実際に、投資家専用のコンサルタント業もあり、彼らは金がある分、そんなコンサルタントを雇い、少々の法律違反も辞さないくらいの行動をとるようなっていた。

 政治家が、裏で暗躍をするというのは、どこの国にもあることだが、この国においては、経済界までも、裏で暗躍をするのが、当たり前のようになっていて、そこに専門的なフィクサーがいることで、成立していた。

 しかし、この国は、国家の力としては、かなり弱いものだった。裏で暗躍していたとしても、投資家の力というのは、国家運営における資金面では必要不可欠な存在だった。

 かつての帝国主義の時代において、経済界を財閥が握っていたのと同じような感じである。

 あの頃は、財閥という限られた巨大な企業グループが政治に介入したりしていたが、この国では、個人の投資家が、フィクサーを雇って、それぞれで勝手に暗躍する。政治家でも金のある人は、そのうちの有力な投資家と組んで、政治に介入しているのだ。

 専門家も、そのあたりは分かっているが、彼らを規制すると、とたんに政治が滞ってしまう。完全に、彼らは必要悪であり、簡単に、規制することはできないのだ。

 政治家の中に。今までまったく目立つことはなく、そのわりに、徐々に陰で力をつけてきた人がいた。

 彼が目立たなかったのは、年齢的にもまだ四十代前半という、完全に若手だということで、誰もその男を意識もしていなかったのだ。

 特に政治家というのは、勤続年数よりも何よりも、

「年齢が上の者が上である」

 という、完全な年功序列だったのだ。

 ここまでハッキリとした年功序列は世界でも珍しいくらいだった。これこそ民族性であり、学校でも、一般の会社でも、すべてが、年齢によって、上下が決まっていたのだ。

 そんな社会なので、表向きの体制としては、民主主義を歌っているが、実際には国家にあまり自由はない、どちらかというと、封建的なところがあり、そのために、どうしても、中央集権を取ることができない政府にも問題はあるのだ。

 封建制に近くなるのは、政府にそれほど力がないからだが、それは政府自体が機能しているわけではなく、個人個人が強いために、意見の一致場ないために、どうしても政府は弱体だった。

 それでも、政府が転覆しないのは、政府のまわりの地方でも、

「何かあったら、政府のせいにできる」

 ということで、政府を潰してまで、地方の力が強くなるということを望んでいないからだった。

 この国は、比較的自由だった。それは自由にしておかないと、政府の力がないので、抑えることもできず、抑えてしまうと、他から攻められた時、ひとたまりもないという情けなさだったのだ。

「こんな、弱小な国なのに、よく独立国家として成り立っていけるよな」

 と他の国の人はそう思っていることだろう。

 しかし、この国には、他の国にはない。それでいて、なくてはならない資源が存在したのだ。

 下手に侵略したとしても、今度は侵略したところが狙われて、不安定な状況になり、一歩間違えると、火薬庫になりかねない。

 そのため、弱い政府であっても、国家としての体制があり、何かあった時は、国際連合が軍を率いて助けにいくという態勢が世界の常識になっていたのだ。

 バックに国連があるだけに、この国の政府は弱い方がいい。国連に睨まれる形での国家運営など、これまでの歴史にはなかったことだった。

「国連の傀儡国家?」

 とまで言われたが、国際法上では、この国は独立国家である。

 国連としても、傀儡国家というよりも、独立国家としての体裁の方がありがたい、傀儡国家でもなく、完全な独立国家でもない国だが、近いといえば、

「国際的委任統治国家としてではあるが、表向きには、独立国家」

 という態勢であろう。

 厳密にいえば、それも若干違っているのだが、それはそれで悪いことではないようだ。

 この国が成立したのは、第二次世界大戦が終了し、その後、アジアやアフリカにおいて、独立国家がたくさんできた時期があったが、その混乱に乗じてできた国の一つだった、

 元々は一つの国が欧州の帝国主義国家の植民地になっていたが、独立した際に、独立の混乱から、クーデターが起こり、元々の国が独立したはいいが、軍事主義国家と、封建国家の二つの国に分裂した。

 最初は、軍事主義国家の方が、国家統一を目論み、いきなり封建国家に侵攻したが、それを国連が避難したことで、軍事主義国家は、一気に悪者になってしまった。

 彼らも意地があるからか、侵攻をやめることなく、国境に軍事力を集中させ、強引に国家の統一を図ったのだが、国連の方にも意地があり、多国籍軍を組織し、一気に介入したのだ。

 国連に介入されてしまっては、軍事国家もどうすることもできず、結果、撤退することになった。

 信仰された封建主義国家は、混乱してしまったが、この国の単独統治を申し出る国はいなかった。

 なぜなら、軍事主義国家に気を遣って、統治を言い出せないのだ。軍事主義国家と国交がある国がほとんどで、武器を買ってくれ、経済的にも兵器輸出国がなくなることは困ることであった。

 さらに、下手に統治をおこなって、こちらが侵略されるというのは、本末転倒だったからだ。

「そんなところに介入するなど、冗談ではない」

 という国家はほとんどだったのだ。

 結果、国連という組織の中で、

「統治部」

 というものがあるとすれば、その組織が、国連安全保障委員会という組織から、委任される形での、不規則で直接的ではあるが、委任統治のような歪な体制を、

「国際的委任統治の体制」

 というのであった。

 実質上の統治は、国連の機関なので、国連加盟国はもちろんのこと、加盟していない国でも、

「国連に歯向かう」

 ということになり、まるで、

「錦の御旗を敵にする、朝敵」

 ということで、賊軍になるようなものだった。

 つまりは、

「世界全体を敵にまわしてしまう」

 ということであり、たかが小国一国のために、自国の運命と荒廃を委ねるわけにはいかないのだった。

 したがって、国連機関の実質、独占統治による自由主義国家という触れ込みで、独立したのだった。

 だが、いつまでも、国連が介入するというわけにもいかず、委任統治ということは、必ず、統治なしの独立国家としての体制を整えなければならず、何とかやっと最近、名実ともに、独立国家の体裁が整ってきたのだった。

「我々、独立国家として成立はしたが、まだまだ小国なので、国連の支援を願いたい」

 ということで、政府の成立、そして落ち着くまでということで、独立してから、二年という期限付きで、国連が介入し、軍事面でも、国連軍が駐留していたのだ。

 その間、この国は、何をとっても弱小の国であったが、経済面では、少し持ち直しているようだった。

 元々は鎖国をしていた国だったので、開国をすることで、海外の文化が入ってきた。

 この国には資源が存在することも、国連の調査で分かったので、この国の産業として大切な輸出資源となった。

 ただ、そのことを統治中の国連にも漏れてしまったことで、独立の条件として、その資源の最大の輸出先を国連と定めたのだ。

 その資源が次第に重宝されることが研究によって分かってきたので、この国との国交を結ぼうとする国が多くなってきた。

 この機に乗じて、国家が発展するわけではなく、国内の資本家が設けることになったのは、前述のとおりであり、国家としてうまく煽てて、自国への資源輸入ルートを確保するという状態になったのだ。

 それぞれの国は、国家の一投資家と手を結ぶといういびつな恰好になったことで、投資家が次第に財閥化していき、しかも、諸外国の思惑がバックについていることで、この国は、

「いつクーデターが起こってもおかしくない」

 と言われるようになっていた。

 バックの諸外国からの戦争になった時の援助ルートはできあがっていたので、あとは、いつ火が付くかということだった。

 国際法上としては、絶対に戦闘行為を行う場合に、いわゆる、

「宣戦布告」

 というものをしなければいけないという決まりはなかった。

 宣戦布告というものは、自国民に対しての宣言である、

「詔」

 というものと、国際社会に対して行う対外的な意味合いとがある。

 詔というと、日本の場合には、

「天祐を保全し、万世一系の皇祖をふめる、大日本帝国天皇は、忠実勇武なる汝、有衆に示す」

 というところから始まる。

 つまりは、簡単にいえば、万世一系の系譜のある大日本帝国の主権者である天皇が、忠実かつ勇武である臣民に対して、命令するということになるのだ。

 その後は、国際法に背くことないようにしながら、陸上海上において、死力を尽くして、戦えということであり、その際に、あらゆる手段を用いても構わないという内容である。

 その後に、戦争を起こす経緯を説明、つまりは、戦争理念というものである。

 これが、詔であり、主権者である天皇が決めた宣戦であるということになるのだ。

 諸外国に対しての、宣戦というのは、文字通り、

「自国は、○○国を敵として戦う」

 ということを、全世界に知らしめるということである。

 これは重要な意味を持つものであって、宣戦布告がなされると、第三国と呼ばれる国は、速やかにその体制を示さなければいけない。

「A国に味方する、あるいは、B国に味方する。あるいは、中立の立場を貫く」

 ということである。

 第三国が中立してしまうと、片方の国に、軍需物資を供与することが難しくなり、もし、中立を宣言した国が、自国の命運を担っているのであれば、宣戦布告をしてしまうと、自分の首を絞めてしまうということになるだろう。

 そのことが分かっていると、

「宣戦布告をしてしまうと、自国が不利になってしまう」

 ということで、わざと宣戦を布告しないまま、戦闘状態に入ったことになる。

 国際法上では、その場合は戦争と言わず、事変であったり、事件として片付けられることになる、

 戦争であれば、世界規模の大戦となり、事変であれば、あくまでも、地域紛争という事態にすぎなくなってしまうのだ。

 だから、この国は、独立後に戦争というものを起こしたことはないことになっているが、実際には紛争や事変などは結構あったりした。

 戦争といってもいいくらいの事態にまで陥ったのだが、あくまでも代理戦争的な要素があったので、大っぴらに戦争にしてしまうと、混乱に乗じて、自国が滅亡してしまう可能性が高かった。

 それを考えると、

「戦争にしてしまい、事を大きくすることは、自国の滅亡を意味することになってしまう」

 ということで、避けなければならないことであった。

 ただ、この国の軍備は、さすがに元々の分裂した軍事国家には劣るだろうが、軍は弱いわけではない。何しろ元々は軍事国家の一部だったからだ、

 しかし、弱いというのは、指揮官などの官僚を、皆隣国の軍事国家に取られてしまったので、軍に強さはあっても、統率能力がなく、結果的に、国家を担うだけの軍隊を作り上げることはできなかったのだ。

「下手をすれば、あっという間に攻め込まれて、首都は陥落させられるに違いない」

 と言われていた。

「だから、我々は国家主義ではなく、自由主義として、自分たちで各々強くなり、後で、有事には軍隊として結成されればいい」

 と考えていたのだが、

「それが、クーデターを起こした国なのか?」

 と考えたが、しょせんは、自分勝手な国民が、自己保身のためだけに動いているといっても過言ではないだろう。

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