「軍人の魂」と、「知恵ある悪魔」

森本 晃次

第1話 禅問答

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年一月時点のものです。


「禅問答」

 という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 基本的には、仏教、特に禅宗と呼ばれるもの擁護になります。

 師から弟子に向けて問われる謎かけと呼んでいいのではないだろうか?

 言葉にすると、

「筋の通らない話や、意味が分からないやり取り」

 ということになるだろう。

 だが、これも、宗教における、師匠と弟子の問答だと思えば、その意味も分からなくもない。そして、その会話となる問題を、禅問答においては、

「公案」

 と呼ばれる。

「公案というのは、

「修行のために弟子が師匠から与えられる問題」

 というものである。

 それらの問題は筋が通っているものでも、簡単に答えが出るものでもない。回答の仕方や、何を聞いているのかということすら分からない問題もたくさんある。だからこれらを別の言葉でいえば、

「無理難題」

 と言ってもいいであろう、

 つまり、

「禅問答」

 という言葉を、

「無理難題」

 と言い換えてもいいのではないだろうか。

 しかし、無理難題であっても、答えが絶対に出ないとは言えない。辻褄さえ合っていれば、それが絶対に事実である必要はない。つまり、そこでの禅問答における辻褄合わせが、正解であり、真実になるといってもいいのではないだろうか。

 これはある意味言い換えれば、釈迦の教えをいかに把握しているかということを問答によって問いただすという意味で。一種の面接試験と言ってもいいだろう。これが、一次試験になるのか、それとも最終面接になるのかということは、仏教徒でも、禅宗門下生でもない人間には分からないだろう。

 これらの禅問答にはテキストのようなものがあり、資料として、

「景徳伝灯録」

 というものが存在しているという。

 仏教には、キリスト教における聖書や、イスラム教におけるコーランのような聖典というものがあるわけではない。

 そういう意味で禅問答というのは、ある程度、今でいうテンプレートのようなものもあり、理解不能なものもあるのではないだろうか?

 一度、かなり昔の特撮番組を見たことがあったが、そこで、

「禅問答のようね」

 という言葉を聞いたことがあった。

 その話としては、宇宙から飛来した物体が、地球上のエネルギーを食べて、どんどん大きくなるという話であったが、その時に、さらに巨大なエネルギーによって、その怪物の駆除を考えた博士がいたが、博士がいうには、

その怪物は恒星のエネルギーを食べる怪物なのではないか」

 という。

 したがって、本来の太陽というエネルギーを見つけた怪物に対して、博士が、

「怪物が太陽を食うのか、太陽が怪物を食うのか?」

 というと、

「まるで禅問答みたい」

 というセリフがあったのだ。

 そして、最後のナレーションも印象的だったが、

「明日朝起きて空を見上げれば、そこに光っているのは、その怪物かも知れません」

 という言葉を聞いて、ドキッとしたものだった。

 これこそ、

「禅問答だ」

 と言えるのではないだろうか。

 禅問答というものは、算数における、

「一足す一は二」

 というような、公式のような考え方ではない。

 問題に対して、的外れに思うようなことでも、正解とされることもある。 たとえば、

「人間の肉体は、いつかは滅んでしまいます。それでは、永遠に滅んでしまうことのない、(仏教の教えの)不生不滅とは、どんなものでしょうか?」

 と聞かれた和尚様が、

「山の花が満開で錦のように美しく、谷の水が藍のように澄みきって美しい」

 と答えたとされています。

 つまりは、肉体が滅んでしまうということは自然の摂理として、逃れることのできない不変のことであり、逃れることはできないが、ただ、その中に唯一つの答えがあるとすれば、

「すべてはありのままに起こる」

 あるいは、

「ありのままにしか起こらない」

 ということを、目の前に写っていることをたとえとして示しているということである。

 また、仏教では、人間の思い込みを極端に嫌うとされている。つまり、至高で凝り固まると本質を見失いということであり、

「常識という言葉で作られた思い込みは、思った以上にたくさんあって、その常識の中で生きていると、常識を打ち破るような考えを嫌う。それが一般的な、社会人の常識と呼ばれるもので、それこそ、その人の思い込みなのではないか? と言えるのではないだろうか?」

 と考えてもいいのではないだろうか?

 昭和の時代に、

「オヤジ」

 と言われるものは、そんな考え方が多く、特に、

「根性もの」

 と呼ばれるものが、正しいとされた時代があった。

 特に、アニメなどで多かった、

「スポーツ根性もの」

 などがそうであろう。

 それらのものは、昔は美徳であったが、今は笑いものにされてしまう。特に、

「親が目指していたプロスポーツの世界を、親が成し遂げられなかったからと言って、親が子供を特訓し、強引にその道に入れ、そこでの苦労を美徳として映し出す」

 というのが、

「スポーツ根性アニメ」

 と呼ばれるものであった。

 今そんなことをやったら、

「パワハラだ」

 とか、

「幼児虐待」

 ということになり、社会的な悪となってしまう。

 何よりも親が自分の都合で子供の人生を決めてしまうなどという展開は、道徳的にも人道的にも許されるものではない。こんな理不尽なものが、マンガの世界とはいえ、許されたというのは、どういうことなのだろうか?

 当時はそれが、

「一般的な常識」

 とされたということなのだろうか?

 そもそも、昔のスポーツのトレーニングなどで、常識とされていたことが、今では、

「あってはならないこと」

 として、伝説のようになっているのが、

「その証拠だ」

 と言えるのではないだろうか。

 それは気象の変化であったり、人間の構造的な変化など、様々な理由が考えられるのではないかと思われるが、たとえば、昔であれば、

「練習中に、水など飲んではいけない」

 と言われていた。

 理由は、

「バテるからだ」

 ということであったが、今はまったく逆で、

「水分補給はしないといけない」

 ということで、練習中に水やミネラルウォーターなどは携帯しておくことが必須になっていたのだ。

 それは、昭和の頃にはあまり言われていなかった、

「熱中症」

 なる症状が起こるようになってからであろう。

 昭和の頃には、

「日射病」

 というものがあったが、これは似て非なるものであり、根本的に違うものだ。

 ただ、広義の意味での熱中症というのは、日射病というのも含むという意味でがあるということを、意識しておいていただきたい。

 高温の場所で起こる、熱による障害を総称して、広義の意味での熱中症と言います。そして、その熱中症の中で、直射日光などに当たって、体温をコントロールできなくなるのを、日射病といい、締め切った部屋や車の中など、急激に温度が上がる場所で起こるものを、熱射病というが、最近は、日射病よりも、熱射病の方が大きな問題になることが多いので、総じて、熱射病のことを熱中症と呼ばれることになったというのが、簡単な説明となるであろうか。

 この熱射病は、子供などのように身体が小さいわりに、水分の出入りが大きく、そして、腎機能が未熟なために、体温のコントロールができずに、熱射病になるというメカニズムである。

 この熱射病を予防するには、一番の方法は、水分補給なのだ。そしてこの水分補給も、一時に一気にたくさんの水を飲むわけではなく、適量を数回に分けて飲む形が一番いいとされています、

 つまり、スポーツなどで、水分が消耗していけば、当然、その分の水分補給が必要になるということだ。

 以前、病院で熱中症の人が救急車で運ばれてきた人がいたが、運び込まれた時、だいぶ意識は戻ってきているようで、その人の話では、

「医者から、熱中症だって言われたんですよ。運動中に意識を失ったらしくて救急車で運ばれたんですが、どうも身体がけいれんを起こしたらしくて、今も半分は身体がマヒしているんですが、なるべく身体に対して意識を持っていないと、油断していると、またけいれんを起こしかねないと言われました。足が攣ったりもするかも知れないので、気を付けてくださいという感じですね」

 と言っていた。

 熱中症などの知識のない人間は、

「意識が戻れば、もう大丈夫だろう?」

 と思うのではないかと感じるが、どうもそうではないようだ。

 適度に水分を取って、身体の緊張をほぐすまでは、治ったと言えないのだろう。だから、退院することはなく、そのまま病院で一晩点滴などの治療を受けているということだったのだ。

 その人から話を聞いた時、熱中症の怖さが何となくであるが分かった気がした。

「病気というのは、表に出ている反応だけで判断すると、大変なことになる」

 と聞いたことがあるが、その通りだ。

「風邪をひいて発熱した」

 という時もそうである。

「熱が出るというのは、身体の中に入ってきた風邪の毒素に対して、身体の中の撃退機能が毒素と戦うことで熱が出るのだから、熱が上がっている時に、無理に冷やすのではなく、逆に温めて、熱が上がり切るまで冷やさないようにする。その時は汗が出ないので、体温が上がりきれば、今度は、その時に毒素を一気に放出しようとするので、一気に発汗するという。下着を何枚も着替えながら。その時になって、体温を下げるようにするのだという。その時、身体が治ってきている証拠なのだから」

 ということであった。

 理屈に合っていることであった。確かに汗を掻き始めると、それまでのきつさがウソのように楽になってくる。熱がまだあっても、上り始めとは、まったく違った症状なのである。それを思うと、熱中症の時も、自分で勝手な判断をせずに、医者のような専門家のいうことを聞くのが一番だと思うようになっていた。

 もっとも、自分で勉強していればすぐに判断がつく。本屋に行けば、そんな身体の本は山ほど売っている。今ならネットで調べるというのが、一番手っ取り早いことであろう。

 そんなことを考えていると、

「昔の常識が今の非常識」

 と、呼ばれることも多いということだ。

 そこには、切っても切り離せないものがある。それが、科学の発展というものではないだろうか。

 例えば、昔の常識が変わってきているものをと、学問の中での歴史などが特にそうではないかと思える。

 それは、いろいろな発掘や発見から、歴史や、考古学の観点で、

「昔から言われていたことが、実は違った」

 と立証される発見が増えてきたということである。

 特に過去に遡れば遡るほど、起点が違っているということであり、そこから広がる世界は、末広がりではないだろうか。

 そうなってくると、違っている可能性はどんどん増えてきて、それこそねずみ算的に増えるのではないかと言ってもいいだろう。

 それが元々の考古学ではないだろうか。新たな発見だけではなく、これまでの常識が非常識になりかねないという意味での発想も出てくるというものである。

 古代であれば、今と昔での一番の違いは、

「昔の一万円札の肖像画の人物は、聖徳太子ではなかった」

 ということである。

 厳密にいえば、聖徳太子という名前を付けられる人はもっと後の時代の人間ではないかということから、元々の名前であった。

「厩戸皇子」

 と呼ぶのを一般的なものとするようになったという。

 また古代において、もうひとつ大きく変わったものとして、以前の教科書には、

「大和朝廷」

 と書かれていたものが、今では、

「ヤマト王権」

 と呼ばれているという事実である。

 これは、以前、

「大和時代」

 と呼ばれていた時代を今は、

「古墳時代」

 と呼ぶ。

 つまりは、大和時代というのは、天皇の勢力が及ぶ範囲の時代ということになり、飛鳥時代と比較して、

「大和朝廷が成立していない時代に、大和時代というのはおかしい」

 ということになり、大和時代を古墳時代と呼ぶようになったのだという。

 大和朝廷も、ヤマト王権も、そのあたりに微妙に影響してくることから、大和朝廷も存在はしているが、

「今まで大和朝廷とされてきたものは、ヤマト王権ではないか?」

 と言われるようになり、違和感を払拭させる形になったのだった。

 それ以降の時代でも、一番有名なのが、

「いいくにつくろう鎌倉幕府」

 という語呂合わせで勉強してきた、いわゆる、

「鎌倉幕府の成立年が、違っている」

 という発想だ。

 なるほど、今まで言われていた都市は、頼朝が征夷大将軍に任じられた年だからという理屈であったが、今は、

「義経追悼のために、全国に、守護地頭を置いたことによって、全国に勢力範囲が確立したという意味での年に繰り上がった」

 というのが、現在主張されている年である。

 これはあくまでも、

「史実には間違いはないが、起こったことへの解釈年が違う」

 というものである。

 そういうパターンの歴史認識を変えるという面で、面白いともいえるだろう。

 だが、もっと歴史で面白いのは、

「いろいろな肖像画があるが、実際に言われている人を描いたものではない」

 というのが、有名な人にもたくさん出てきたということであろうか。

 例えば、前述の鎌倉幕府創設者といわれる、源頼朝であるが、実はもっと後期の人物で、足利尊氏の弟の、足利義直ではないかという説があり、有名な神護寺に祭られている絵を、

「伝源頼朝像」

 というのだという。

 さらに、室町幕府の創始者である、足利尊氏の像として有名な、あの騎馬武者姿も、実は尊氏ではなく、部下の、高師直ではないかという説もあったりする。

 後は、これも本人の一番有名な絵をして残っている武田信玄のあの太った絵も、時代考証に遭わないと言われている。

 最近(と言っても、だいぶ昔だが)、西郷隆盛の絵も、別人だと言われているくらいである。

 このように、昔からまるで、

「神話」

 のように言われてきた、伝説であったり、逸話や肖像画なども、最近では違う解釈が持たれている。

 もちろん、それは、発掘調査の技術も進み、たくさんの歴史的に重要なものが発掘されたことから裏付けられることで証明されているものもあるだろうが、肝心の人間の考えが変わらないと難しいことである。

 昔から言われている伝説や信仰を覆すということは、相当に難しいことであり、反対勢力もかなりある。

 それだけに、

「最初から疑ってかかる」

 という感覚がなければ、ここまでかつての神話を覆すのは難しいであろう。

 禅問答」

 というのは、そういう意味でも、大切なものではないのだろうか。

 一つの固定観念や思い込みがどれほど、科学の発展を妨げるかということを、宗教でいう、

「悟り」

 というものに裏付けられるというのは、何と皮肉なことであろうか。

 しかも、

「固定観念を打ち破る」

 という発想が新しい時代を作ったり、過去のものを覆すことになるというのは、歴史が証明していることである。

 中世における、

「ガリレオ=ガリレイ」

 という人物によって、考えられ、死んでから証明された、

「地動説」

 宇宙の仕組みを分かっていない人たちから考えて、空ではなく地球の方が動いているなどという話、下手に宗教が絡んでくると、

「邪教ではないか?」

 と言われかねない。

 だからこそ、迫害を受けながらでも、ガリレオは、

「それでも地球が回っている」

 と言って、一人頑張ったのだ。

 ひょっとすると、仏教の世界でも、表に出てこなかっただけで、禅問答の中に、この、

「地動説」

 のようなものが埋もれていたのかも知れない。

 当然、そんなことを大っぴらに書き残すことができなかったので、禅問答の中の深いところに含まれているかも知れないと思うのは、無理もないことではないdろうか。

 同じ中世の予言者に、

「ノストラダムス」

 という人物がいて、彼が予言した内容が、ほとんど当たっているということで、中M九を浴びた。彼は、自分の予言を四行詩というものの中に、一見それとは分からないように残していて、解釈によって、ほとんど当たっているとされたのだ。

 そのこともあって、世紀末に、

「地球絶滅説」

 というのが、全世界で信じられ、各地に残っている世界崩壊説のようなものよりもさらに説得力のあるものだったのだ。

 さすがに、解釈した人たちの解釈では当たっていなかったことになるが、

「歴史は答えを出していない」

 とは、限らない。

 継続中の予言ということであろうか。

「いっつぃ、恐怖の大王って何なのだろうか?」

 と考えてしまう。

 ただ、これは元々、外国語で書かれたもの(フランス語?)を日本語訳にしたものだ。ひょっとすると、元はフランス語で、それを今度は英語に訳したものを、さらに日本語訳したものかも知れない。和訳するために、何度も途中で訳しているとすれば、少し解釈も変わってくるのではないだろうか。

 そういう意味でも、そもそも、外国語を訳しているのに、

「四行詩」

 というのも、いかなるものなのだろうか?

 そうやって考えると、どこまで信憑性があるのか分からない。一生懸命に読んだ時期もあったが、最初こそ、

「ノストラダムスの大予言を探求しよう」

 と思っていたが、何冊も読んでいくうちに、単純に、

「世界史の勉強」

 ということになってしまったいたのだった。

「禅問答」

 という意味では、

「意味不明で、解釈に困るような質問に、理屈抜きで答える」

 ということにかけて、

「ノストラダムスの大予言」

 解釈というのは、まるで、この禅問答のようではないかと考える人も少なくないかも知れない。

 それを思うと、

「自分にも、何か禅問答というのができるのではないだろうか?」

 と考えるのだった。

 そこで、一つ思いついたのが、

「ニワトリが先か、タマゴが先か?」

 という理論である、

 これは、一種のパラドックスのようなもので、これに対しての回答は、たびん、ないのではないかと思われる。

 ニワトリと答えたとしても。タマゴと答えたとしても、それに対しての質問は決まっているからである、

 決まっているというよりも、どんな質問をしても、言葉が違うだけで、ニュアンスは同じだというのか、ニワトリと答えたとしても、タマゴと答えたとしても、、

「じゃあ、その答えたものは、どうやってできあがったの?」

 という質問をされるだろう、

「ニワトリ」

 と答えれば、

「じゃあ、どうして、ニワトリは存在しているの?」

 と聞かれるだろうし、

「タマゴ」

 と答えると、

「じゃあ、タマゴは何から生まれたの?」

 と聞かれるに決まっている。

 そもそも、この質問は、

「二者択一」

 の問題である。

「〇か×か?」

 というのと同じであり、答え自体は決まっていることだ。

 二者択一の問題というのは、考えてみれば、成否の問題と言ってもよく。答えたことが正解と同じであれば、正であり、間違っていれば、誤なのだ。

 この場合、正答がないとするならば、どちらも正しい、あるいはどちらも間違っているということであり、二者択一の問題としては、成立していないことになる。

 だが、それはありえないことだ。限定的な質問に答えが存在しないのであれば、やはり質問の仕方が間違っている。この問題が果たしてそうなのかどうか分からないが、禅問答だと考えれば、別の答えが出てくるようで、そこに倫理や宗教が入ってくることで禅問答になるのだとすれば、逆に、

「禅問答に対して、回答を求めること自体が、矛盾しているのではないか?」

 と考えられるだろう。

 そこに答えを求めるのが禅宗という宗教であり、そこには、れっきとした考えや理由がそんざいしているのだろう。

 だから、禅問答というのが、存在しているのかも知れない。

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