第29話 桜混じりの風の中

 教室から窓を眺める。ぬるい風が吹いている。そんな風が運んでいるのは桜の花びらだった。

 もうこんな季節になったのかと涼真は感慨深く思う。時の流れはもっと緩慢で、いつだって風が運んでくるのは退屈だったはずだ。

 時間の感覚が変わった要因にはきっと翠の存在があるんだろう。翠に出会うまでの退屈な日々なんて記憶の片隅にも残らないが、それでも翠との日々は一つ一つが鮮明に記憶に残っている。記憶に残らない日々こそ時間間隔が早くなりそうなものだが、鮮烈な日々は時間の感覚すらも狂わせるのかもしれない。

 教師の声が耳を通り抜けていく中、退屈な時間が過ぎていくのを待った。

 授業が終わり、あとは帰るのみだ。

 これは終わりではなく、始まりだった。帰宅することで涼真の一日は始まるのだと言っても過言ではない。

 ……いや、過言かもしれない。

 とにかくいつもの昇降口に向かう。

 今日はどちらが早く着いているのか。下駄箱から靴を取り出し、履き、そのまま歩き出す。

 背中を軽く引っ張られる。

 こんなことをするのは涼真の知っている中で一人だけしかいない。

 なにをするんだと軽く抗議してやろうと振り向く。

 だけどそこにいたのは、涼真の想像していた人物ではなかった。

「やっぱり、涼真じゃん」

 振り向いた先にいた人物は、翠と同じようにマスクをしている。しかし黒ではなく、一般的な白いやつだ。目元は上向きにくるりとなっているまつ毛とじっとりとした目つきが特徴的だった。声質は本来高く澄んでいる声を無理やり低くしたような声で、髪は内側に少しカール気味のくせ毛を無理やり直毛にしたような感じだった。

「だ、誰?」

 思ったことをそのまま言った。

 自分のことを涼真と呼ぶような親しい人物は、この学校にはまずいない。

「覚えてない? そう……ふうん。じゃあ」

 彼女はあくまでもそっけない態度でその場を去っていく。

「え? まっ」

 待って、と言ってどうするつもりなのか。涼真は中途半端に伸ばした手をそのまま下ろした。

 また背中を引っ張られた。

「待った?」

 振り向いた先にいたのは、翠だった。

「さっきの誰?」

「いや、誰だろ」

「? なにそれ。人違い?」

 だけど彼女は、確かに涼真の名前を呼んだ。人違いではないのだろう。だけど涼真は彼女のことを知らない。まあ、わからないことをこれ以上考えてもしょうがない。

 外に出ればぬるい風が頬を撫でた。

 風が運んできたのは桜の花びらだけでなく、新しい出会いも運んできたのかもしれない。

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