第26話② 翠の家に上がる話

「……救急箱が高い位置にあるから取れないし、涼真くん上がっていってよ。お礼もしたいし」


「……え?」


 翠が涼真に家に上がったことはあるが、その逆は今までなかった。そもそも涼真は翠のマンションを知っているだけで何階に住んでいるのかもついさっき知ったのだ。


 上がっていく理由がお礼だけなら遠慮できるが、足を痛めた翠では取れない位置に救急箱があるという理由では翠の申し出を断れない。こういうところは上手いな、と思う。


「お、お邪魔します」


「どうぞー」


 翠が片脚でぴょんぴょんと移動して涼真を先導する。


 キッチンの上にある棚に救急箱があった。足を怪我していなくても翠には取りづらいだろうなという高さだった。


 その後、リビングにあったビーズクッションに翠が座る。そして翠は自分の足をこちらに突きつけてくる。その姿はまるで女王様が跪けと無言で圧力しているようだった。なんだ、足でも舐めろというのか。


「湿布貼って」


 湿布か。


 涼真は言われるままに湿布を貼ってあげる。翠の肌の白さやきめ細やかさに意識が持っていかれようとしたところを、なんとか理性で抑え込んだ。その様子を面白そうに眺めている視線に気づく。よくよく考えたら湿布ぐらい自分で貼れるのではないかと思い直す。


 まさか、お礼ってこれのことか?


「ありがとう。じゃあお礼しなきゃね」


 これじゃなかった。


「なんかよくわからないけど高い紅茶の茶葉と、クッキーがあったはず。出してくるね」


 翠が片脚で跳ねていく。


「いや、俺も手伝うよ。なんか不安だし」


「ありがと」


 キッチンに行き、よくわからないが高そうな缶に入っている茶葉を翠がティーポットに入れていく。


「どれぐらいの量がいいんだろ」


 聞かれてもまったくわからない。そもそも紅茶だと聞いてティーバックを想像してた。


「クッキー、どこだったかな」


 不安定な体勢で翠がキッチンを動き回る。見ていてハラハラしてくる。小さな子供を見守る親の気持ちに近いのかもしれない。しかし翠はもう立派な高校生だ。さすがに無茶な動きはしないだろう。


 と、そんな涼真の気持ちとは逆に翠はその場でバランスを崩す。


「あ」


 とっさのことに涼真は思考している暇もない。ただ、翠を助けなければならない。そんな思いが体を動かし、翠が衝撃を受けないように涼真は身を屈めて翠と床の間に滑り込む。


 体に衝撃があったが、怪我のあるような強いものではない。


 よかったとまずそれだけを思った。そして体にのしかかる重さと温かさが心地よい。


「ごめんね涼真くん」


 そんな声がすぐ目の前から発せられる。顔が近い。しかも涼真はとっさに翠の身体に腕を回して抱きしめるような形になっている。


「ちょっとはしゃいでたみたい。あと、腕。……どうする? このままにしておく?」


「ご、ごめん」


 涼真はぱっと腕を離す。


「本当に、ありがとうね」


 翠はそう言って体を離して立ち上がった。


 その後は妙に言葉数が少なかったような気がする。


 帰り道、紅茶の香りが鼻に残っていた。この香りを嗅ぐごとにきっと翠の温もりを思い出すのだろう。

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