第2話 黒猫が通る
吾輩は猫ではない。涼真である。
隣に歩いている彼女も猫じゃない。碧川翠である。涼真の腕に、にゃあと言いながら猫パンチを繰り出してくる。それでも彼女は猫ではない。
ただ何の気まぐれか、翠は帰る際に涼真を誘う。そして帰宅を共にする。彼女にどのような意図があるのかわからないが、これが本当に気まぐれだとすると彼女の気質は猫に近いのかもしれない。
そして彼女の下手な猫の鳴きまねに釣られたのかはわからないが、一匹の猫が目の前を通り過ぎた。真っ黒い猫だった。
「そういえば目の前を黒猫が横切るのは不吉の予兆らしいね」
「聞いたことあるねそれ。じゃあ私たちこれから不幸になるの?」
「そうかも。まあ、俺みたいなやつはいつだって不幸だから関係ないけどね」
彼女は、それは困るなあと眉間にしわを寄せて考え始める。こんなもの悩んでもしょうがないと思うが、彼女にとっては重大なことなのかもしれない。
しばらく唸っていると、彼女はパっと目を開いた。なにかを思いついたらしい。
「発想の逆転だよ」
「逆転?」
「そう。黒猫が目の前を横切って不幸になるなら、逆に黒猫の目の前を私たちが横切ればいいんだよ。そうすれば私たちには幸福が訪れるって理屈」
「屁理屈じゃない?」
「そうと決まればさっきの猫を探し出して、ドヤ顔で猫の目の前を横切ろう」
「なんでドヤ顔?」
「してやったり……ってね」
どゆこと?
こうして帰宅の時間は、黒猫を探す時間に変わったのである。
▽▽▽
「おーい猫さんやー出ておいでー」
家の塀と塀の細い隙間に向かって、翠はひょっこりと顔を覗かせている。次は公園の茂みに向かって、次は高い木の上に向かって、次は魚屋さんの周囲に向かって、次は川に反射する自分の顔に向かって、至る所で声をかけていく。
「声を出したら逃げていくのでは?」
そんな遅すぎる指摘に、翠は右の頬を膨らませて無言で抗議した。
「そもそも野良猫なんて探しても見つかるものじゃないって」
涼真の続く指摘に、翠は眉間にしわを寄せて考える素振りをする。
「なるほど。そういこうことか。発想の逆転だね」
「え、どういうこと?」
「探すから見つからない。つまり、探さなければ見つかるってことだね」
…………いやどゆこと?
五秒ぐらい考えたけどわからなかった。
「最初に黒猫を見た時に、私たちは黒猫を探していなかった。猫は気まぐれでしょ? つまり自分に興味のない人間の前にこそ現れるってこと」
「そう、なるかな?」
「普通に歩いてたら、きっとあっちから顔を出すよ」
異様にポジティブだ。そんな彼女のことを、涼真は眩しく感じる。
涼真は物事をネガティブに捉えがちだ。人の厚意には裏があると考え、幸福の後には必ず不幸があると考え、不幸の後にも不幸が待ち構えていると考えてしまう。翠は自分とは真逆の存在であるように思う。
だけど、そんな彼女が黒猫の噂を信じて、自分に降りかかる不幸を気にするような性質だろうか。わずかに疑問が残る。
「ねえ」
だから聞いてみる。
「ん?」
「別に黒猫の噂なんて迷信だよ。それなのにどうしてそんなにこだわるのさ」
「んー?」
翠は、答えを焦らすように間を置いた。
もしかしたら黒猫になにか特別な想いがあるのかもしれない。だって涼真は、彼女のことをよく知らない。どうして一緒に帰ってくれるのかさえわかっていないのだ。彼女の想いなんて、わかるはずもない。
「それはさ、君にも幸せを届けてあげたいなって」
もしかしたら彼女は、俺みたいなやつはいつだって不幸だという涼真の言葉を受けて、その言葉を覆してやろうと黒猫をもう一度見つけようと躍起になってくれているのか。彼女は自分のためではなく、涼真のために黒猫を探している。
いや、そんなわけない。
そうやって、否定しようとする自分が嫌になった。
今はただ素直になってみてもいいのではないか。
「あ」
翠が指をさす。
「黒猫!」
塀の上で丸くなって寝ている黒猫がいる。
「ほら、早く前を横切らないと」
二人で、謎に小走りになって黒猫の前を通りすぎる。
「いいことあるといいね」
翠がとびっきりの笑顔を向ける。
涼真にとっての幸運は黒猫に出会ったことではない。
きっと——
「そうだね」
涼真は、翠につられて少しだけ笑顔になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます