第6話 閑静な住宅街での殺人事件

 隣の夫婦が、ちょうど騒音について相談に来たのは、弁論大会にて不本意な成績を収めてしまったことで、それを確かめたいという思いから、放送部に自分の映像を見せてもらったちょうど、その頃だったのだ。

 そのことで、音は光に興味を持った漱石が、

「モスキート音」

 というものを知っていたというのも、無理もないことだった。

 タイミングがちょうどいいということだろうか。それにしても、隣の奥さんも物分かりがいいというのが分かったのも、いいことだと思った。

 ただ、モスキート音というのが、どこでどのように発生するのかということまでは、なかなか証明されていないようで、特にこの閑静な住宅街で聞こえているとすれば、それは一体どういうことになるというのだろうか?

 基本的には、自然現象とはあまり考えられないということだった。

 有名なところでは、モスキート音のような、高周波発生装置というものを実際に設置しているところがあるという。

 それはもちろん、

「この音が、年齢によって聞こえる人、聞こえない人と、それぞれ違ってくる」

 という特徴を最大に生かしたということであろう。

 つまり、モスキート音というのは、ある一定の高周波であるため、年齢が高くなるにつれて、その音が聞こえにくくなるという効果があるのだ。

 そのため、ファストフードの店や、コンビニなど、二十四時間営業の場所などの駐車場に設置されていることが多い。

 一つは、今の世の中、昔と違い、受動喫煙というものが厳しくなっていて、次第にタバコが吸える場所がどんどんなくなってきている。

 それは、もちろんいいことなのだが、そのこともあって、しょうがないので、コンビニの入り口のすぐ近くに灰皿を置いている店もあったりする。しかも最近の受動喫煙は、

「ほぼ、室内でタバコが吸える場所はなくなってしまった」

 ということもあり、喫煙者のほとんどは、キチンとマナーを守ったりしているのに、一部の輩が、無法地帯と化しているところもあったりする。

 コンビニなどが灰皿を設置しているのは、

「もし、灰皿を設置していなくても、一部の無法者たちは、灰皿があろうがなかろうが、関係なく、今までのように、タムロして、タバコを吸うことだろう、。その時のタバコは、道にポイ捨てにされるだけで、下手をすれば火事になってしまう可能性もある。やつらは、そんなことを考えもせずに、自分さえよければいいという連中ばかりなので、まだ灰皿を置いているだけ、火事になる可能性が下がる分、いいだろう」

 とでも考えているのだろう。

 政府のバカさ加減がよく分かるというものだ。

 法律は、作ればいいというものである。

 法律を作り、罰則を設けたのであれば、それをちゃんと取り締まるだけの、環境を整えてから法整備をしなければいけないのに、

「法律を作ったんだから、守られるだろう」

 というような、実にバカげた、

「お花畑的発想」

 が、本当に通用すると思っているんだったら、本当におめでたいといえるのではないだろうか。

 コンビニやファストフード、さらには一部の駅などでは、そんな無法者のタムロに業を煮やしているのは、

「やつらによる、営業妨害に繋がるからだ」

 ということで、

「無法者たちの撃退方法はないものか?」

 ということで登場するのが、この、

「モスキート音、発生装置」

 というものである。

 つまりは、モスキート音が若者だけに聞こえる異音だという特徴を使って、

「何か気持ち悪い音がする」

 ということで、うまい具合に、若者を撃退することができるというものだ。

 ただ、無法者は若者ばかりとは限らない。年配の連中の無法者をいかに撃退するかということも、問題ではないだろうか。

 何はともあれ、音の現象としての、モスキート音を利用しての、嫌な相手への撃退方法というのは、実にうまくできているものである。

 漱石は、コウモリの話と、この間の弁論大会でのふがいない自分の理由に、声の特性を分かっていなかったことと、マジックミラーのような光の特性を感じたことで、音や光に興味を持ち始めた。

 最近では特に音について気になることを調べたりしていたのだ。

 今回の声が、実際に発している自分と、それを客観的に聞こえる声とがここまで違ってしまうとは思ってもみなかった。

 そもそも、自分の声というのは、自分の姿と同じで、鏡や録音などの何かの媒体を使わなければ、その真実を見たり聞いたりはできないということが分かっただけでも進歩な気がした。

 だが、ここまで自分の声が違っていたと感じたのは、正直びっくりを通り越している。それだけ感覚というものが曖昧なのか、それとも、幅が広いので、捉えることが難しいのか、それを考えると、音というものの効果には、もっといろいろと興味深いものがあるというのを知りたいと思ったのだ。

 最近、気になっているのが、

「ドップラー効果」

 というものであった。

 これは、一つの例として、

「救急車のサイレンの音が、向かってくる時と、自分の前を通り越してからとでは、その音に違いがある」

 ということを証明するものである。

 救急車のサイレンがこちらに向かってくる時は、音が高いのに、通り過ぎると、とたんに音が低くなる。この現象は、波によるものだと考えれば、分かるのではないだろうか。

 目に見えない空気中の波というと、音波や電磁波などであり、この救急車のサイレンの場合は、音波によるものである。

 つまり、

「救急車がこちらに向かってくる時、救急車から発散されるサイレンという音波が、発信源を元に広がっていて、こちらに向かって来ようとしている方向とを考えると、そこにはアゲンストの風のように、音波が密になっているのだ。逆に去って行こうとしているのは、音波を追いかける形になるので、その音波の感覚が広くなり、過疎化している状態なのだ」

 ということである。

 音とというものは、音波が密になると、高周波音になり、逆に過疎になると、低周波になるのだ、それが、音となって現れると、

「近づいてくる音は高く感じ、遠ざかっていく音は低く感じる」

 ということになるのだ。

 これを利用したのが、コウモリの超音波による、反射を使った、

「目の代わりになる」

 というものであり、さらには、野球などでの、球速の測定器として使われる、

「スピードガン」

 というものに利用されたりしている。

 このドップラー効果というものは、音だけに限ったものではない。

「光のドップラー効果」

 というものが存在したり、何と、原子炉の安定性というものに、このドップラー効果というものが関係しているということだ。

 ドップラー効果を使用したものは、たくさんあり、スピードガンはもちろん、医療用の超音波検査装置などというものにも応用されている。そういう意味で、ドップラー効果というものが、人間の生活に、深くかかわっているということの証明でもあるだろう。

 そういう意味では、警察がスピード違反を取り締まることにも一役買っていることだろう。

 音が関係している機械には、結構治安を守る警察で利用されているのも、多いということではないだろうか。

 コンビニやファストフードなどにおいての、モスキート音発生装置も、防犯という治安をよくするために使われてるわけなので、それは当然、世の中の役に立っているということで、本当に重宝しているのである。

「異音がする」

 と言って隣の夫婦が来てから、二週間ほど経った深夜のこと、都心部では、

「眠らない街」

 などという渋谷があったりするのだろうが、さすがに閑静な住宅街と呼ばれるこのあたりでは、深夜の午前二時、いわゆる、

「草木も眠る丑三つ時」

 と呼ばれる時間は、シーンと静まりあえっていた。

 信号機があるところも、ほとんどが点滅信号になっていて、聞こえるのは、犬の遠吠えくらいであろうか。

 都心部ではなかなか飼うことのできないペットを飼っている家も多いようで、犬の遠吠えのような声は時々聞こえてくる。

 一匹が吠えると、それに共鳴したかのように、他の犬も吠え出すのが普通なのだろうが、このあたりの閑静な住宅街は、犬も忖度をするのか、それほど連鎖反応が起こるだけではなかった。

 ただ、その日は、一匹だけ少し普段と違った声を発する犬がいて、その飼い主は、気になって、なかなか眠れないでいた。

 ほかならぬ、犬のアムロと、飼い主である漱石だったのだ。

 漱石は、元々夜更かしだった。受験勉強もそろそろ始めなければいけないということで、勉強時間も夜少しずつ増やしていくことで、慣れさせようという意図の元、夜更かしは勉強を少しして、少しテレビを見たりなどして休憩し、それを何クールも繰り返していくことで、身体を徐々に受験勉強に慣れさせようと思っていた。

 いきなりの受験勉強で、夜型にしようものなら、無理がくるのは分かっていた。最初から無理をしていると思って無理をするのと、徐々に身体を鳴らしてから入るのとでは精神的にも肉体的にも全然違っている。無理をしているかどうかの違いが結構大きかったりするのであった。

 そういう意味で、午前二時というのは、漱石にとっては、

「まだまだ序の口というものだ」

 という感覚で、そういえば、前に沖縄から転入してきた転校生がいたが、彼が言っていたことを思い出していた。

「沖縄というところは、結構変わっているところでね。沖縄時間というのがあるらしいんだよ」

 というではないか。

「沖縄時間って、それは何なんだい?」

 と誰かが聞くと、

「僕たちにとっては、普通のことだったので、逆にこっちの様子が、ヤマト時間という感覚なんだけどね」

 と前置きをしていたが、我々にとって沖縄が別世界だと思っている以上に、沖縄の人間がさらにこちらを意識しているというのは、

「ヤマト」

 という言葉で分かるというものだ。

 彼らは、本土のことを、ヤマトと呼んでいる。ヤマトというのは、もちろん、宇宙戦艦のことではなく、

「ヤマト民族」

 のことである。

 きっと、ずっと古代から、琉球というのは、

「独立国家」

 という意識があったに違いない。

 確かにあれだけ遠いのだから、外国と言ってもいいだろうし、大東亜戦争での日本における、最初のいわゆる日本国としての直接的な戦闘の場所だったのだ。

 しかも、沖縄というところは、土地柄、米軍における戦略的に重要拠点となることで、米軍基地の問題が、今でも続いているという深刻な問題を抱えた土地だったのだ。

 そんなところからやってきたのだから、皆興味津々だといってもいいだろう。

 彼は前置きの後に、

「沖縄時間というのは、沖縄が、とても暑くて、昼間はほとんど活動できないので、自然と皆が夜型になることで、待ち合わせをしても、時間通りに来るためしがなかったり、夜遅くまで開いている喫茶店があったり、待ち合わせの時間にルーズな人間ばかりだという意識から、そういうことをすべてひっくるめて、

「沖縄時間」

 というようになったという。

 沖縄時間を強くいうのは、やはり、独立国家という誇りを感じた彼らに対しての、敬意を表しているのか、それとも、皮肉を込めてなのか、たぶんどちらも言えることであろうが、本土の人間が感じている沖縄だからなのだろう。

 沖縄時間だと、本土では、夜九時くらいには閉まってしまう準喫茶が、当たり前に深夜の二時、三時くらいまで開いているのが普通だったりする。

 要するに、沖縄というところは、沖縄時間を利用する人と、利用しない人がそれぞれいるので、昔から、まるで東京のような、

「眠らない街」

 といってもいいのではないだろうか。

 だが、ここは本土であり、都心部のような眠らない街ではないので、午前二時というと、本当に街全体が、寒さすら覚えるほどのしじまの街と言ってもいいくらいであった。

 そんな夜中の閑静な住宅街に、犬の遠吠えが聞こえるのは、当たり前といってもいいのかも知れない。

 だが、実際にはそんな静まり返った夜のしじまにおいて、犬が遠吠えをしたその時、

「何か変だ」

 と言って、おかしな状況になっているのを。漱石は気づいていた。

「何が変なのか、分からなかったが、少ししただけで分かったのは、最近、この時間までいつも起きていて、いつものように、アムロの声を聴いていたからだ」

 と言えるのではないだろうか。

 ただそれでも、しっかりと意識していなければ分かるはずのことでもないようで、その違いに気づいた時、

「何か起こっているのかも知れないな」

 とも感じたのだった。

 そのおかしな感じというのは、アムロの遠吠えに合わせて、一匹も反応を示さなかったことである。

 聞いていると、いつもアムロは自分から遠吠えをすると、他の犬が反応して、同じように遠吠えをする。反応している犬はいつも同じ犬ではないのだが、最初の遠吠えは、ほとんどがアムロの声だった。

「アムロのやつ、皆に何か号令でもかけているのだろうか?」

 と感じていたが、この日だけは、他の犬が反応しなかったのはどうしてであろうか?

「ほとんどの犬が眠っていた?」

 あるいは、

「ほとんどの犬がその遠吠えを聞こえなかった?」

 というのは、この日のアムロの遠吠えが普段と違い、人間にぴったりと嵌る音ではあるが、他の犬には聞こえないものだったとすれば、それはまるでモスキート音のようなものではないかということである。

 ただ、このどちらも考えにくいことではないか。もう少し可能性があるとすれば、アムロが今まで他の犬を扇動するかのようなことを言っていたにも関わらず、今回はまわりを巻き込むような声ではなかったということになるのだろうか?」

 と思うのだった。

 だが、勉強している状態で、自分自身が少しハイな気分になっていることなので、わざわざ表まで出ていくという心境にはなれんかった。

 疲れてはいるが、勉強をしている。それだけ、まだこれが予行演習なのだという心境になっているのが、面白い感情であった。

「あの時、もう少し気にしていればよかったのかも知れないな」

 と感じたのは、次の午前中のことで、その日は休日だったということもあり、昼前くらいまで寝ていた漱石だったが、何やらサイレンが聞こえてきたのを感じ、

「近所で、パトカーのサイレンのような音が聞こえる」

 と感じた。

 自分に関係のあることであれば、気になるのも仕方がないが、

「気が付けば、気になっていた」

 ということであり、その日は、パトカーだけではなく、人の足音やヒソヒソ声まで聞こえているようで、逆に、

「よくこの状態でも寝ようと試みたのだった」

 ということである。

 だが、一旦気を抜いてしまうと、襲ってくる睡魔は尋常ではなく、瞼の重さに耐えられるわけでもないはずなのに、気を抜いた瞬間、槍でつつかれることは分かっていた。

 だが、救急車の音だと思っていたが、うちの前にとまったのは、一台のパトカーだった。

 普段なら、同じサイレンでも、警察と病院の救急車とでは、まったく違った音だと思っていたのだが、単独で聞いた時、どっちがどっちだったのかということを、自分でもよく分かっていなかったようだった。

 だが、気にはなったが、

「勘違いだったら、どうしよう?」

 という思いがあり、誰にも言えなかった。誰かに少しでも話をしていれば、違ったのではないかと思うと、気分的に治まらなかった。

 しばらく鬱状態に漱石が陥ってしまったのも仕方のないことで、しかも、その原因が、翌日になって知らされた衝撃的な事実からだった。

 もちろん、事実は後から聞かされたことであり、その詳細が伝わってくるうちに、明らかに漱石が怯えに走っているのを、彼にかかわっている人には皆分かってくるのだった。

 それは、翌日の早朝のことであった。

 早朝と言っても、時間的には、午前九時を回っていたので、普段だったら、ある程度一段落した時間なのだろうが、その日は土曜日ということもあり、ほとんどの会社が休みなので、ほぼ休日と同じだった。

 学校も会社も休みなので、早朝というのは、土曜、日曜、祝日は、午前九時くらいまでをいうのが、このあたりの閑静な住宅街なのだろう。

 誰も、表に出ることもなく、ちょうどその日は朝から、軽い靄が掛かっていたので、余計に早朝の雰囲気を醸し出しているようだった。

 そんな早朝に、二軒隣の家から、悲鳴のようなものが聞こえた。その家は、この間、うちに騒音のことで相談に来たところであり、騒ぎがあったのは、その家を挟み、その家を一軒とカウントした、もう一軒隣の家だったのだ。

 パトカーの音を感じたという、漱石の意識に間違いはなく、ただ、漱石としては、完全に睡魔の中で、意識を平静に保つことができなくなっていて、パトカーの音を意識しながら、さらに深い眠りに就いていたのだ。

 あのサイレンの音を聞いて、まるで子守歌のように感じたのか、それとも、パトカーのサイレンにトラウマのようなものがあり、そのトラウマのせいで、パトカーから逃れたいという一心で、無理にでも眠りに就いたのかも知れない。

 あれは、学校で、一度、異臭騒ぎがあったことがあった。ちょうど年に一度の防災訓練が行われている時で、全校生徒が校庭に出ていたのだ。

 ちょうどその時、校舎の一部から、火の手が上がり、火事が巻き起こった。

「キャー」

 という声とともに、逃げ惑う生徒に対して、

「落ち着いてください」

 という拡声器から漏れてくる先生の声を明らかに動揺している。

 ちょうど防災訓練のために、警察の人が控えていたので、落ち着かされることはさほど難しいことではあったが、警察としては、防災訓練で詰めてきているところで起こった火災事件だったので、面目は丸つぶれだった。

 幸いにも、ぼや程度だったので、大きなパニックにならずに済んだが、鑑識の見立てによれば、

「これは、放火の可能性が高いですね」

 ということであった。

 ただ、ぼやであったことからも分かるように、学校時代を焼き払おうなどというほど大規模な火薬が使われたわけではなく、可燃物かかき集めてきて、それに火をつけた程度で、計画的な犯行であることは明白であったが、そのわりに、

「チャちい」

 というのは、却って、不思議な感じを醸し出させ、怖い気がした。

 何が目的なのかが分からないからだ。

 最初からぼやを起こすだけが目的だったのか、火薬が中途半端の時点で事件を引き起こしたのは、どうしてもその日。つまり、避難訓練に合わせたかったからだといえるだろう。

 しかし、明らかに放火だと分かる手口で、最初から学校を燃やすつもりはなかったわけなので、その放火理由の推測は、どれを考えても、無理があるのは仕方のないことであった。

 だが、実際に捜査が続いているうちに、犯行を犯したのは、一人の生徒だった。

「テストの結果が悪いのは分かっていたので、何とか、答案用紙が燃えればいいと思った」

 という何とも幼稚な動機だった。

 なるほど、教員室の近くで出火し、教員室の一部が燃えていることから、確かに同期の裏付けにはなるが、それにしても、幼稚すぎる。決定的な決め手は、防犯カメラの映像だが、最初は頑なに否定していた犯人である生徒も、防犯カメラの映像を見せられると、観念したように話し出した。彼が友達だったこともあって、その生徒の反抗理由が矛盾だらけで、不可解だったことと、実際の火が出た時のリアルな様子とがアンバランスで、そのギャップからか、パトカーのサイレンの音が、嫌になったのだった。

「今朝のあのサイレンの音、あれはパトカーだったのかい?」

 と、その日の夕方、漱石は、母親のりえに聞いた。

「ええ、そうよ、二軒向こう隣の方が亡くなったらしいの」

 というではないか?

「亡くなったって、パトカーが来るということは、普通の自然死や病気ではないということだよね? 自殺か、事故死か、あるいは、殺人か?」

 というと、りえは、少し首を垂れるようにして、

「ええ、どうやら殺されたということらしいのよ」

「それで、朝のあの時間に来ていたわけだね。ということは、夜中に殺されたということなんだろうか?」

 というと、

「そうかも知れないわね」

 それを聞いて、昨夜の犬の遠吠えのことを思い出した。

 その話を母親にしようかどうか迷った。だが、今の母親の話を聞いているだけでは、詳しいことを知っているわけではなさそうだし、何よりも、殺人事件があったということだけが気になるようで、本心では、

「別に他人のことであって、私たちには関係ない」

 と思っているように思えた。

 しかし、その殺人というのが、通り魔や、強盗のようなものだったら、いつうちも狙われるか分からないというのも気になっていた。

「犯人って、捕まったんだろうか?」

 と、独り言のように聞くと、

「まだみたいな話よ。警察も今捜査を始めたところだっていうから」

 という。

「確かに、そんなに簡単に捕まってしまうのであれば、よほど計画性のない殺人だったということになるな」

 というと、

「そうなのよね」

 と、言って、少し母親は怖そうにしていた。

 確かに、このあたりは閑静な住宅街であり、ほぼほぼ警察が介入してくるような事件とは縁のないところだった。

 ただ、警察が介入してこないだけで、それぞれの家庭では、それぞれに問題を抱えているのではないかと思えてきた。

「うちだって、何の問題もないように、表から見ていれば見えるかも知れないけど、ひょっとすると、何かの火種が渦巻いているかも知れない」

 と感じていた。

 漱石は、自分が母親のお腹の中にいる時、父親が不倫をしていたという事実を知らない。母親も父親もそのことに触れることはないので、両親に限って、家族不和に陥るようなことはないと思っていた。

 だが、自分は果たしてどうだろう?

 今のところ、他の家庭にあるような、引きこもりであったり、苛めの問題というのは怒ってはいないが、これから受験に向かっていきことだし、いくら中学時代に高校受験を経験したといっても、高校から大学受験はまら大きく違うのも分かっている。

 しかも、中学時代と違って、高校生になれば、それまでの毎日とはかなり違う生活になっているような気がする。

 一番大きな違いは、まわりの大人が自分たちのことを見る目であった。

 中学時代までは、

「まだ、子供だから」

 という目で見ていたように思っているが、高校生になると、とたんに、それまでと違って、

「高校生にもなって」

 という目で見てきているのを、露骨に感じるのだ。

 思春期においても自覚の中でその思いがあった。中学時代から始まって、高校一年くらいまでが思春期だったと思っているが、高校入学とともに、何かがあったわけではないのに、

「ワンステップ上がったような気がする」

 という感覚があった。

 その正体は分からないが、

「高校入学と同時に変化を感じることができたから、高校一年で思春期を終わったという自覚を持つことができたんだ」

 と感じたのだ。

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