第5話 光と音の関係

 さすがに、

「納得できない」

 という思いと、

「どこが、悪かったんだ?」

 という思いが交差して、すでに反省をするという意識はないのだが、

「反省しなければいけない」

 ということを理由に、

「どうしてこの順位なのか?」

 ということを知らなければならないという言い訳をしようと考えていた。

 ただ、本当は言い訳ではないのかも知れないが、結果として言い訳になるのであれば、それは言い訳でしかないのだろう。

 添削をしてくれた先生のところに行って、

「納得できないんですけど」

 と、ストレートに気持ちをぶつけてみた。

 この先生であれば、下手に言い訳をオブラートに包もうとしようものなら、すぐにその気持ちを見透かされてしまって、心象が悪くなり、相手を却って怒らせる結果になるだろうと思うのだった。

 だからこそ、ストレートに聞いた方が、ごまかそうとしているように見えるよりもよほどいいと思ったのだ。

 その思いが通じたのか。

「そうか、お前の気持ちとしてはそうなんだろうな? 自分では一生懸命にやって、ちゃんとできたと思っているんだろう。だから納得がいなかいというのも分かるし、今後のことを考えても、お前は知っておく必要があるのかも知れないな。正直に気持ちを表したということも敬意を表するに値するものだからな」

 と先生はいうのだった。

 だが、先生はそれ以上に、

「教育者なのだろう」

 と考えた。

 この時も、答えをいうわけではなく。

「それじゃあ、たぶん、放送部には残っていると思うが、まずは、そこでお前の演台のシーンを見せてもらえ、そこで必ず大なり小なり、自分で感じることがあるはずだ。そのうえで、まだ納得がいかないのなら、またこの俺を訪ねてくればいい」

 というのだった。

「はい、分かりました」

 と先生が何を言いたいのかということは分からなかったが、あの先生が自分から言い出すことなのだから、何か意味があるはずだ。

 そう思って、漱石は放送部の友達に話をして、

「というわけで、俺の弁論シーンを見てみたいんだ。先生から許可を受けているのは、今言った話で分かってくれると思うんだけどな」

 というと、

「ああ、確かに先生から、お前が来たら、見せてやってくれと言われたんだ。だから見せてやるよ」

 というので、

「ああ、頼むよ。ところでお前はどうして先生がこの画像を見ろと言ったのか、分かるのかい?」

 と聞くと、

「ああ、何となく分かる気がする。俺たち放送部だって、自分の放送をテープで何度も聞き直したりしているんだ。何度も何度も聞き直しているうちに、何が悪いのかというのが分かってくるものなのさ。だけどな、だからと言って、漠然と見ただけではダメなんだ。焦点を絞ってみないといけないんだ。下手に漠然と見るくらいなら、見ない方がマシだと俺は思うくらいだぞ」

 という。

 その言葉も、先生が言いたいことが分からないように、話の内容は分かったとしても、なぜそんなことをいうのかということは分からない。

「これだったら、最初から分かっていないのと同じではないか」

 というのと同じだった。

 しかし、

「自分は、別に放送部というわけではなく、プロではないんだ」

 と思っていると、先生がなぜ、自分にこれを見るように勧めたのか分からなかった。

 だが、友達が用意してくれたVTRを見ると、それが本当に一目瞭然であることが分かった。

「なぜ、そんなに簡単に分かったかって?」

 それは、自分の声の第一声を聞いた瞬間、自分の中で衝撃が走ったからだった。

「何だ、これ? まさか、変な編集しているわけじゃないよな?」

 と思わず、イチャもんをつけてしまった。

 いきなり因縁をつけられた友達は、平然として、ニヤリとした笑顔さえ浮かべた。マウントはこちらが完全にとったはずなのに、一体どういうことなのか、思わず、目を白黒とさせているかのようだった。

「いやいや、そんなことするわけはないよ。でも、おかげでどうして先生が君にこれを見ろと言ったのか、理屈としては分かった気がしたよ」

 というではないか。

「じゃあ、どういうことだっていうんだい?」

 完全に、漱石は興奮していて、常軌を逸しているのだ。

「そこまでは分からないが、君がこれを見て、しかもいきなり、かなりの衝撃を受けていたということが分かっただけで、先生は、きっと最初から今の君の衝撃の理由までも看破していたんだろうな」

 というのだった。

「一体どうしてこんなことになったんだ?」

 と独り言をつぶやいているように見えたが、

「何をそんなに不思議に思っているんだい?」

 と聞くところを見ると、彼には想像すらついていないようだった。

 それを見ると、興奮も幾分か、溜飲が下がってきて、

「あ、いや、自分でもよく分からないんだけど、本当にこの映像の俺は、この俺なんだろうか? って感じるんだよな」

 という漱石だった。

「そりゃそうだろうよ、こんなところで編集なんかしてどうするっていうんだ。セクシー動画じゃあるまいし」

 と、どこか、捨て鉢な言い方になっていた。

「彼は、先生と、目の前の漱石に頼まれたから見せただけで、何も俺から文句を言われたり、因縁をつけられるようなことはないはずなんだ」

 と感じたのだった。

 そこまでくると冷静になった漱石は、

「画面に映っているのは確かに俺なんだけど、俺って本当にこんな声をしているのかい?」

 というと、

「何言ってるんだよ。その通りさ。と言ってみたが、たぶん、そんなことではないかと想像はついたのさ。俺だって、最初に放送部で放送した時、これが一番引っかかったんだ。後からテープで聞いて。これが自分の声なのかって思った。こんな籠った声で、そのわりに、中途半端に声が高いんだ。いわゆる、俺が一番嫌いだと思っているタイプの声が自分の声だというのは、相当なショックだったさ。何と言っても、俺は放送部としてプロになりたいと思っているのに、最初からここまで致命的な声だったのかと思うと、このまま辞めてしまおうと考えたほどだったのさ。だから、君の気持ちも分かる気がするって言ったのさ」

 と、友達が言った。

「そう、その通り、俺の声がこんなに籠っていて、まるで二オクターブくらい高い声になっているなんて、思ってもみなかった。そして、今君が言ったように俺にとって一番ショックだったのは、俺の一番嫌いなタイプの声だったということさ。実際に俺の嫌いなやつと同じ声質をしているなどということを、本来なら、口にしたくもないんだからね。それを思うと、本当にたまらない気分になる。もうこれ以上、聞きたくないって気持ちになるのかな?」

 というと、

「その気持ちは分かるんだけど、実際の声と他の人が感じている声が少しは違うということを、まったく意識していなかったのか?」

 と聞かれて、

「ああ、そんなこと知るはずもない」

 というと、

「いやいや、理科の時間で習うはずだけどね。もちろん、自分の声をレコーダに吹き込んで聞いてみたという感じではないんだけどね」

 と、友達は言った。

「そうなんだけどね。でも、ここまで違うと、自分の耳を疑うというよりも、皆にこんな風に聞こえていたのかという気持ちの方が強くて、それがそのままショックに繋がるんだよね。自分の耳を疑う方が本当な厳しいはずなのに、さらに悪い方に考えてしまったようで、どんだけネガティブなんだよって叫びたくなるくらいなんだよね」

 と、漱石は言った。

「それにしても、二オクターブとはよく分かるものだね。俺が最初に聞いた時は、そんな発想にはならなかったね。とにかく、もっと漠然と、こんなに違うものなのか?」

 という程度だったんだけど、

「結構分かるものだと僕は思っているよ」

「君は、楽器をやっていたりするのかい?」

 と聞かれて、

「いや、楽器はやっていないよ」

 と答えると、

「まさか、絶対音感あんか持っていないよな?」

 といわれ、

「何だい? その絶対音感というのは?」

 というと、友達はびっくりしたように、口をポカンと開けた。

「そんなことも知らないのか?」

 という表情である。

 だが、それに関して深く掘り下げることなく、

「絶対音感というのは、耳に入ってくる音が、まるでドレミの音に聞こえてくる特殊能力のことなんだ。俺ももちろん、そんなものを持っているわけではないので、ハッキリとした感覚も分からないし、どういうものなのか、想像もつかないんだけど、絶対音感を持っていれば、音の高さの違いの範囲をちゃんと口にできるんだろうなって思ったんだ。君のは当てずっぽうかい?」

 と聞かれて

「当てずっぽうと言われればそれまでなんだけど、何となくイメージしている音階であって、自分の中ではそれほど違いがないように聞こえるんだ」

 というと、友達は、

「なるほど、だからさっきのショックの大きさがそのことを示していたわけだ」

 と友達は答えた。

「そうかも知れない。どちらかというと、中途半端な感覚なんだけど、その分、変な自信があって、中途半端な分、信憑性を掴もうと、少しでも違っていれば、自分の中で許せないところがあるんだ。けど、元々ある信憑性ではないので、勝手な発想になってしまうのが、怒りやショックに繋がるのかも知れないな」

 と、漱石は言った。

「そのあたりの心境は分からないが、きっと君は相当な自信家であり、間違ったことが極端に嫌いな、潔癖症なのかも知れないな。たぶん、考え方も勧善懲悪なんだろうな」

 と友達にいわれて、次第に、

「これって、ひょっとすると、皮肉を言われているのかな?」

 と感じた。

 最初は褒められているのだと思って、少し照れ隠しに済ましていたのだが、それが見当違いだと思うと、次第に怒りがこみあげてくる。

 この怒りは、友達に向けられてというよりも、むしろ、自分に対して向けられていることだということを、さすがに友達には分かっていなかった。

 そして、ここまで聞けば、

「なるほど、先生がまず、放送部で、あの時の画像を見せてもらってこいと言ったわけが分かった気がしたよ。これだったら、もう俺の方も、完全にぐうの音が出ないもんな。これで文句を言えるようなら、相当な傲慢さか、勘違い野郎だということになるのだろうね」

 ということだった。

 友達も理解できたようで、

「まあ、しょうがないよ。ところで、来年はリベンジするのかい?」

 と聞かれて、

「いや、そのつもりはない。リベンジするには、かなり乗り越えなければいけないハードルがかなりあると思うんだ。目の前に見えていることだけではないと思うと、かなりの障害が立ちはだかっているように思えてならないんだよ」

 と、漱石は言った。

「でも、自分の声の特徴はこれで分かったでしょう? どうして順位が低かったのかということも絡めて」

 と、友達に言われて、

「確かにそうなんだよね、でも、声を知らないということはもちろんなんだけど、喋り方にも問題があったようだね。自分ではちゃんと喋っているつもりだったんだけど、話しながら、何となく方言になっているような気がしたんだ。でも、やっぱり、感じたのは、ステージに上がるということが、あれほど別世界だったとは想像もしていなかったことかな?」

 と言った。

「俺も確かにそれは分かる。客席からステージは、暗いところから明るいところを見るので、スポットライトが当たっていて、ハッキリと見えるんだけど、ステージからは明るいところから暗いところとなるので、眩しいだけで、向こうが見えない。それを把握できていないと、どうしようもないんだよ。いきなりステージに上がると、完全に、我を見失う人が多いというけど、まさにその通りなんだよ」

 と友達がいうので、

「そうそう、まさしくその通りで、後から思えば、電車の中を思い出したよ」

 と漱石は言った。

「電車の中?」

「ああ、俺は子供の頃から電車に乗るのが好きで、特に、一番前の車両に乗ると、運転席の後ろから前を見るのが好きだったんだ。運転席の目線から見えるだろう?」

 と言ったが、それはたいていの子供が同じようで、いつも一番前のところに立って前を見ている子供がいたような気がする。

 完全に先を争っていいポジションをキープしようとするのだが、特に夜の電車は前に行きたかった。

 普通の席で、車窓から表を見ていると、明るいところから暗いところを見ているので、車窓には、自分たちの姿が映っている姿しか見ることができない。

 逆に、

「向こうからはよく見えるんだろうな?」

 ということは分かっていて、そんな時、

「まるでマジックミラーのようだな」

 と感じたものだ。

 子供でもm刑事もののドラマとか、結構好きで見ていたので、取調室のシーンで、隣の部屋に証人の人がひそかに待機させて、自分が見た人間かどうかを確認させているシーンがあった。

 取調室からは、こちらは見えないが、こちらからはハッキリと見える、マジックミラーと呼ばれる特殊な構造なのだろうが、理論的な構造は、夜の車窓と同じ原理であることは分かっている。

 当然、容疑者からは分からないように、完全防音になっているのだが、これも特殊な構造であることは間違いない。そう思うと、

「一度、マジックミラーがどういう構造になっているのか、知りたいものだな」

 と感じていた。

 また、マジックミラーというのは、刑事ドラマなどだけではなく、高層ビルの全面がガラス張りになったようなところにも使われていたりして、結構幅広く使われているものである。

 ただ、その後で、

「疑問に思ったら、ネットでググる」

 ということがある程度身についている世代なので、その後実際にネットでググってみると、

「マジックミラーというのは、板ガラスやアクリルなどのガラスに、錫や銀のメッキを用いた反射膜を非常に薄く死、形成し、半透明にする」

 と書かれていた。

「暗いところと明るいところを作り出すという意味で、射した光の一部を反射し、一部を透過させるものだ」

 ということのようだ。

 最初に光の特徴を見出した人間、そして、それをマジックミラーとして開発した人たち、それぞれに簡単なようで、なかなか難しいことだろう。特許を取るような人でも、今はあたり前のように使っている道具を発明した時は、発明した瞬間、本当に世界が変わったかのように感じたことだろう。何かを発明発見できる人というのは、そういう意味では、

「選ばれた人間」

 なのかも知れない。

 この時の弁論大会で二つの意外なことを発見した。

 しかも、かたや、鏡という媒体を使った光の関係、かたや、声による不思議な現象ということで、考えれば、世の中には、様々な不思議なことがあるのだということを、漱石はその時、思い知らされたような気がした。

 一つ言えることは、

「光にしても、声にしても、反射するものだ」

 ということであった。

 光であれば、前述のマジックミラーの構造などは、まさにそれであり、声や音の反射というのも、あながち捨てがたいものであるといえるのではないだろうか。

 例えば、コウモリという動物などは、そうではないだろうか。

 コウモリという動物は、暗い洞窟の中などに潜んでいて、夜に活動する、

「目の見えない動物だ」

 という意識がある、

 そのため、何かにぶつからないようにするために、超音波を出して、その反射によって、何があるのかを事前に察知し、避けることができるようになっているというのである。

 そもそも、コウモリという動物は、実に不思議な動物だといえるのではないだろうか?

 イソップ童話の中に、

「卑怯なコウモリ」

 という話があるのだが、コウモリという生態から、この話を思いついたのだとすれば、かなりの発想を持っている人であり、特殊感のある人でなければ、こんな発想を思い浮かぶはずもないと思えるほどだった。

 コウモリという動物の一番の特徴は、

「羽根があり、獣のように手足がある」

 ということであるが、その特徴を生かした話である。

 話の内容としては、

「昔、鳥と獣が戦争をしていたのだが、その時、一匹のコウモリが、獣の前で、自分は全身に毛が生えているので獣の仲間だといい、鳥を前にして、自分には羽根があるので、鳥の仲間だといって、逃げ回っていたり、勝ちそうな方についたりしていた。しかし、いずれ、戦争が終わると、今度はコウモリがうまく立ち回っていたことに気づいた鳥と獣たちから、卑怯者呼ばわりされて、皆から無視されたという話があった。

 そこで、まわりに哀帝されず。夜にだけ外に出て構想し、昼間は、暗い洞窟の中で暮らすことを余儀なくされたという話であった。

 だが、逆に、この話を、

「コウモリは、うまく立ち回って、生き残ることができた」

 という意味で、うまく立ち回ることが、保身に繋がるという意味の話として伝わっていたりもしている。

 ただ、一般的に、コウモリというと、気持ち悪くて、皆から嫌われるというイメージが大半である、それを思うと、コウモリを、

「是とするか非とするか?」

 というのは、実に難しい判断である。

「戦争に巻き込まれたのだから、何とか生き延びようと、知恵を働かせた」

 という意味では、褒められるというところまではいかないにしても、無理もないことではないのだろうかと考えるのは、平和な日本に住んでいるからなのかも知れない。

 ただ、日本の刑法にも、殺人を犯しても罰せられないというものがある。

「違法性阻却の事由」

 ということで、正当防衛であったり、緊急避難、自己防衛などがそれに当たる。

 鮒が沈んで、救命ボートが三人乗りだった場合、すでに三人乗っていて、他の人がその船に乗ってきたら、確実に沈んでしまい、結局、全員が死ぬというのが分かっている場合に、一人を寄せ付けないようにして、殺してしまったとしても、それは、

「緊急避難」

 ということで、罪に問われることはない。

 ただ、それはあくまでも法律上の問題であって、

「倫理、道徳上、どうなのか?」

 という問題は、また別の問題として残ることになる。

 それを考えると、コウモリの問題は、かなり難しい問題だといえるのではないだろうか?

 だから、この、

「卑怯なコウモリ」

 という話を、テーマにしたマンガやドラマも結構探せばあるかも知れないと思えるのであった。

 そんなコウモリの話であったが、コウモリというものを別の味方から見ると、この話では、

「日和見的な動物だ」

 という見方ができるが、それよりも、

「表裏のある関係」

 という意味もであるのではないだろうか。

 昔読んだ、ロボットマンガの中に、悪の手先になったロボットがコウモリ型のロボットだったという話があった。

 基本的にはドラキュラの話であったが、このロボットは、卑怯なコウモリの習性を持っていて、そのために、余計な苦しみを味わうという話であった。

(ちなみに、このお話は、石ノ森章太郎先生原作の実際のロボットマンガにあるお話になります)

 このお話の主人公のロボットには、良心回路というものがついていて、ただ、それが不完全であるので、人造人間の中で、その意識があるため、せっかくの、ロボット工学三原則が、中途半端になってしまう可能性があり、自分の中の良心と不完全な回路によって、苦しむことになるのだ。

 そこで、コウモリロボットがいうのだ。

「自分にも、かつて良心回路などというものがついていて、お前より、さらに脆弱なものだったため、もっと苦しむことになった。だから、そんな回路に負けることでどれだけ楽になれるかということを教えてやる」

 ということで、コウモリロボットは襲い掛かってくるのである。

 これは、コウモリロボットとしては、敵である人造人間を倒すということだけを目的にしていたはずなのだが、実際に戦ってみて、相手の神壮人間に昔の自分を見たのだろう。

 そういう意味で、

「そんな苦しむような機械はかなぐり捨てて、自分の思う通り、つまり、本能で生きる方が、どれほど楽か」

 ということを教えようと考えていたのかも知れない。

 自分を作り出したのも、その人造人間と同じ博士だというが、博士は、ロボットの気持ちなど考えてくれているわけではない。

「しょせんは、ロボット工学三原則にしても、それは、人間の人間による人間のためのものであって、自分たちは利用されているだけだ」

 ということを、思い知るがいいということだ。

 それを教えてくれた、悪の結社の首領に感謝しているくらいで、苦しまずに済むには、人間に従う必要がないことを理解することだというのだった。

「人間というのは、昔の俺たちコウモリのことを卑怯だと書いていたくせに、あいつらが卑怯なだけではなく、傲慢で、それこそ自分たちのことだけしか考えず、卑怯なコウモリよりも、数段卑劣なものであるということを思い知るがいい」

 ということであった。

 だが、結局、人造人間は、おのれの良心と、さらに、悪が引き込む世界の狭間で苦しみながら、人間を選んでしまうのだった。

 だが、この話のラスト、つまり、マンガの一つの章ではなく、マンガ自体の最後では、ロボット皆が、悪の組織に、服従するという回路をつけられ、その回路を発動させて、主人公のロボットにも、悪の組織の首領である男に対し、

「服従することが、これほど楽なことはないんだ」

 ということを教えられたといい、主人公にもその装置が埋め込まれているということを告げられた。

 だが、良心回路を持つ人造人間に服従回路を付けたとしても、それは副作用を起こすことで、仲間すら殺しても平気な気持ちになるような悪魔W作り出すことになったのだという。

 仲間のロボットを殺した主人公は、孤独な旅に出るという衝撃的なラストだったというのを、漱石は、友達に教えられて、単行本の復刻版で読んだのだった。

(このお話はかなり古い話なので、すべてに信憑性がないかも知れないことをお許しください。しかし、大筋はこのような話だったと思いますので、さほどそのあたりは意識しないでいただけると助かります)

 結局、そのロボットは、自分が破壊して殺した、コウモリロボットが、遺言のように言い残したことを、最後には実証することになった。

 コウモリというのは、そういう意味で、この良心回路を持ったロボットに、服従回路をつけて、副作用を起こしたように、コウモリロボットも、二重人格という側面を持っているところに、不完全な良心回路を付けたことで、苦しむことになったというのを、最後に立証したというものだ。それがこの話の教訓だったのではないだろうか。

 目の見えないコウモリが、超音波を出し、さらに、音の反射によって物体の存在を知るということをする。それが、善悪、あるいは、日和見的なことを行うコウモリを、弁論大会の中での自分を感じるというのは、何か皮肉な気がしてくるのであった。

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