第4話 漱石の場合
そんなことを、今になって思えば、分かることであった。
時間が解決してくれて、分かるようになったのか、それだけ、自分の頭が冷静に判断できるようになったからなのであろうか、阿久津自身にも分からなかった。
それでも、やはり夫婦の間の営みはなかった。
「いつ別れるかも知れない」
という覚悟だけはしておこうと、阿久津もりえも感じていた。
ただ、せめて、
「その時が来るとすれば、息子が高校を卒業するまでは、このままでいよう」
というようなことは考えていた、
だが、それだけを考えていると、意外とうまくいかないもので、二人の我慢は、次第に露骨になっていき、さすがに息子にもその雰囲気が伝わっていき、家族がバラバラになっていくのを、三人が三人とも感じていたのだった。
そんな時、隣の夫婦が、
「異音がする」
と言って相談に来たのだ。
ある意味、気分転換にはよかったであろう。
久しぶりに、旦那はいなかったが、息子と母親の入った会話だったのは、母親にとっても、息子にとっても、新鮮なことだったのだ。
それに今は、犬のアムロもいる。アムロの存在が、家族のそれぞれを結び付けることはできないが、離れることもできないような状況になっていると考えると、アムロを飼うようにしたのは、正解だった。そして、その証明が、もう少しして訪れるなど、その時は思ってもいなかったのだ。
息子の漱石は、高校二年生になっていて、そろそろ進路を決めて、大学受験を真剣に考えなければいけない時期に来ているといってもいいだろう。
学校でも成績はよく、大学も地元の一流大学化、それとも、都会の大学かで悩むところであったが、まだハッキリとはしない。
あれくらいの年齢であれば、都会に憧れがあるだろうから、まずは、都会の大学を目指そうとするようだが、決めかねているということは、
地元の大学がいい」
という思いも、若干はあるからだろう。
学校の先生としては、都会の大学に進んでほしいというのが本音なのかも知れない。
「都会の大学に行くというのは、成績の良しあしだけではなく、都会に馴染めるかどうかということの方が大きいのかも知れない。そういう意味では、漱石君は、都会の大学でも十分にやっていけるという感じはしています」
と、一年生の時の担任の先生はそう言っていた。
「でも、最後に決めるのは、本人の意思ですからね」
と、先生は追加で言ったのだ。
「そうですね。柔軟に考えてみたいと思います」
と、母親と、本人の面談を別々に行った際に、両方とも、奇しくも同じ発想のことを話したのだった。
先生とすれば、あわやくば、都会の学校にと思っていたようだが、どうも本人とすれば、
「地元がいい」
と思うようになったようだ。
それは、ハッキリと本人に聞いたわけではないが、
「地元で就職するのであれば、地元の大学の方が有利かな?」
と思ったからだった。
漱石は、まわりが考えているほど、都会に執着があるわけではなく、
「何かをしたいから都会に出る」
という意識もないようだった。
「都会でできることであれば、地元だってできないわけではない」
と思っていた。
別に大学院に進んで、何か一つの道に特化した研究をしたいなどという思いを担っているわけでもない。それを思うと、無理に都会の大学に行ってまで、勉強することはないのではないか?」
と思うようになったのであった。
そんな漱石は、好きな子はいるが、付き合うまでは言っていなかった。
「告白しようかな?」
という思いはあったが、彼女は結構男子に人気があって、
「俺なんかにかなうわけはないよな」
と感じていた。
「告白して玉砕すれば、それで諦めがついていいのではないか?」
と思ったが、実際には、
「フラれるのが怖くて、ビクビクして告白できない」
という設定を、ドキドキしながら、感じているという自分を楽しんでいるようなところがあった。
最初は、そんな気持ちに自分がなっているということが分かっているわけではなかったが、
「恋などというのは、叶う前の願望でいる間が一番心地よいのではないか?」
と考えていたが、まさにその通りなのかも知れない。
「恋が成就して愛に変わると、そこから何に変わるのか、誰も知らないというのが、愛に至ることを望まない」
ということで、それを話すと、
「いかにも、漱石らしいよな」
という友達もいたが、まさにその通りで、それを、
「諦めが早い」
とは思わないようにしようと思うのだった。
そういえば、
「自分にあまり諦めという意識がないのだ」
ということを、漱石はよく考えていた。
この考え方は、どちらかというと、
「父親に近いのではないか?」
と思うのだった。
一年生から二年生になると、自分で思っていたよりおm、かなり精神的に違っていた。
「子供から大人になった」
という気がするのだ。
ただ、高校一年生から二年生になるのに、
「大人になった」
という感覚とだと言っていい。
つまり、子供が大人になったと限定するわけではなく、ただ、大人になったという感覚を覚えたといってもいい。特に思春期の始まりが中学に入ったくらいとすると、そこまでが子供だったといえる。では、そこから高校二年生までは何だったのか? ということのなる。
「大人予備軍」
とでもいえばいいのか、それとも、
「さなぎの時代」
と言えばいいのか、つまりは、人間も、子供から大人にいきなりなるというわけではないということである。
確かに、大人にいきなりなったという感じに思っている人は少ないかも知れない。
大人と子供の間の時期、それこそが思春期だといえるかどうかも微妙であり、かぶっている部分も結構あるように思うのは、自分だけだろうか?
もっとも、思春期という時期自体が曖昧で、定義らしいものもないことで、大人と子供の間の狭い範囲という定義づけでもあれば分かるが、それ以外の定義づけであれば、大人と子供の間にかぶっていた李、まったそのどれでもない空白の期間が存在したりしても不思議ではない。
実際にあるとすれば、
「自我を忘れてしまう時期」
が存在しているのかも知れない。
自我を忘れるというのは、結構あったりするもので、生まれて初めての、躁鬱症などを感じ、その間、どうしていいのか迷ってしまう時期があったりすると、
「自我を忘れる」
といってもいいだろう。
躁鬱症になると、自分のことというよりも、まわりのことの方が気になってしまう。
だが、自分のことをまわりから見つめるということは、悩んだり苦しんでいる時にはえてしてしてみるものだが、鬱状態に陥ると、なかなかそうもいかなかったりする。神経を表に出すことができないのだ。
そのため、目の前で見ていることが、外に向けられることはあっても、外から自分を見ることができないようになってしまう。それが不安や恐怖に繋がり、
「俺は一体どうしてしまったのだろう?」
と考えてしまう。
そのため、中から外が見えるので、
「その感覚を忘れないようにしよう」
と思い、特に、色のあるものを見ようとするのだ。
特に、赤や青などの原色系はよく目にも留まるので、意識的に見てしまう。気になってしまうのは、信号機で、信号機という板の上には、赤と青の両方が存在するからだ、
その時に感じたのは、
「まるで、夜の時のように、くっきりと見える」
という感覚だ。
そして。
「赤い色はさらに赤く。青は、緑に見えることもなく、まっすぐに青に見えるのだ」
と感じる。
昼間であれば、後ろが明るいというのもあってか、赤が少しピンクっぽかったり、青が緑っぽかったりするのだが、鬱状態の時は、昼間であっても、
「赤は赤、青は青」
と、ハッキリと感じるのだ。
「ということは、信号を見ていて、バックが真っ暗に見えているのだろうか?」
と思ったがそんなことはない。
そんな魔法のようなことが起こったりはしないのだった。
色というものが、それだけ精神状態を序実に表しているのだろうが、音の聞こえ方にも同じことがいえる。
「鬱状態の時には、乾いた空気を通り抜けるように聞こえてくる」
というもので、鬱状態というのが、まわりの余計なものを省いた素朴なものではないかと思えてきたのだ。
それによって、防御がまったくない状態に落とされた感覚になるので、必要以上に恐怖を煽ってしまい、うちに籠ってしまうのではないだろうか。
音というもので、面白いと思ったのは、これは音というよりも、声のことだが、あれは、高校一年生の時、学校で、
「校内弁論大会」
というのがあったのだが、あまり人と話すことが中学時代まで苦手だった漱石は、まわりから、
「お前のような、あまり話をしないやつの方が、こういう大会はいいんじゃないか?」
と言われたことがあった。
「どうしてなんだい?」
と聞くと、
「出てくるのは、喋ることが好きだったり、自信のある連中ばっかりだろう? そんな中で、普段は寡黙なやつが入賞でもしたら、面白いじゃないか?」
ということだった。
最初は、
「俺には、そんなことできやしないよ」
と言って尻込みをしていたが、喋る内容も、自分で決めて、すべてを自分でやるということを聞いて、がぜん興味が出てきた。
漱石は、何でも自分で全部するようなことが好きだった。
今の時代は、一つのことに突出していて、それを長所としている人が多い。それはそれでいいことだと思うし、
「自分も何か一つのことに特化した人間になりたい」
と思っていたのだが、やはり、何でもすべて一人で作り上げるということに勝るものはないと思っていたので、それを聞いて、
「参加します」
ということで、いよいよ、原稿作成から入ることにした。
作文などと違って、人に訴える文章なので、ピンとこなかった。それで昨年の映像を借りてきて、自分で、何度も先輩の演題を聞いて、どのようなものかを感じていったのだ。
テーマに関しては、何でもいいということであったが、どうせなら、社会に対しての警鐘がいいと思った。
ただ、社会への警鐘というものを、正面から見てしまうと、
「きっと、皆とかぶってしまう」
と感じたのだ。
漱石は、人と同じことが嫌なタイプだったので、同じ方向でも、絶対にかぶらないようなものにしようと思ったのだ。
それは、テーマは同じであってもいいのだが、普通の人は絶対に主張しないような、アンチな内容を、あたかも自分が正しいというような訴え方をしようと思ったのだ。
聞いていて、気分が悪いと思う人もいるかも知れないが、自分の主張なのだから、いかに正当性を持たせて訴えるかで、まるで正しいことのように勘違いさせるということがテクニックになるのだろう。
実際に原稿を作成し、先生に見せた。
基本的な大会までの流れとして、出場者が決まれば、本人が原稿の原案を書いてくる。そして、その内容を、実行委員の先生に見せて、添削をしてもらう。
そうしないと、差別用語であったり、主張が強すぎるもの、倫理に背くものなどがあれば、そこは訂正しないといけない。
いくら学内とはいえ、一般的に言われている、
「放送禁止用語」
を使うのはタブーだからだ。
そもそも、放送禁止用語というのは、法律的に禁止されているものではなく、差別になることや、一般的に人の感情を逆なでするようなことは、
「放送事故」
として、放送倫理に背くことになる。
一般倫理とは別に。放送界というのは、いかに、自分たちの倫理を守って放送するかということが、使命である。だから逆にそれに背くことは、当然一般倫理に背くことであるため、放送業界の理念には、
「放送倫理にのっとった放送」
ということになるのだ。
そういう意味では、たとえ学内と言えども、それらの倫理に背く活動は許されない。
「放送業界にとって、放送倫理こそが法律なのだ」
ということになるのだろう。
自分の原稿を見た先生は、じっくりと吟味しながら、赤線で添削してくれた。
「少し過激な言葉というか、これは自分が口に出して喋る言葉だということを自覚して、もう一度、その線で消した部分を、もう一度考えてごらん」
と言われた。
先生は自分で答えを出すようなことはせず、必ず生徒に答えを出させる人だ。そういう意味で厳しい先生ではあるが、それだけに、優しさを感じさせる。暖かさを感じるからであろうか。
先生が言葉を書いて、生徒に示したのであれば、せっかくの思考能力と、想像力を鍛えることはできないということであろう。
「こういう文章を書くのだって、想像力が豊かになるということを考えながら書きなさい」
ということを話してくれたのだった。
確かに先生のアドバイス一つで、それまで浮かんできそうもないような言葉がどんどん浮かんでくるような気がする。
「俺って、意外と調子に乗りやすいタイプなのかな?」
と感じるのだった。
やっと原稿が出来上がると、今度は本番前に、リハーサルが行われた。
このリハーサルは、実際の講堂で行うものではなく、教室で演台の代わりに、先生が講義をする時に立っているところを演台に見た立て行うものだった。
本番のリハーサルとしては、少し物足りないが、
「ここでできないくらいなら、最初から無理だということなのだろう」
と思って、教室でのリハーサルに臨んだ。
観客は、自分と同じエントリーをした人間で、それだけにその時、初めて皆がどのような内容の発表をするのかが分かるのだ。
漱石は、緊張もせずに、リハーサルをすることができた。
「これだったら、本番は緊張することもないだろう」
という思いと、
「ひょっとすると、入賞も夢ではない」
とまで自惚れたほどだった。
クラスに一人か二人が代表として出る。
一学年、五クラスあるので、一クラスに一人とすれば、十五人のエントリーであるが、実際にエントリーしたのは、二十人だった。
入賞は三位以上で、それ以外に、毎年特別賞があるという。
特別賞は、いわゆる準優勝という立場であろうか。優勝とほぼ差がないことが基準であった。
だから、優勝がずば抜けていれば、特別賞は、
「該当者なし」
ということになるだろう。
さすがにそこまでは難しいと思ったが、演目の内容を聞いて、テーマも原稿内容も、他の人と引けを取らないと思っていたので、十分に可能性はあると思ったのだ。
しかも、リハーサルも緊張もなくできたことで、その思いはさらに強くなってきて、本番日を楽しみに待ちながら、寝る前に毎日何度か部屋で練習をする程度だった。
当日の朝もまったく緊張もしなかった。その日の自分の出番が終わるまでで、唯一緊張したというか、戸惑ってしまったのが、演台に上がった時であった。
「何だ、これ?」
と正直感じた。
その理由は、演台から見た客席が、これほど何も見えないものだとは思わなかったからだ。
スポットライトが自分に当たり、非常に眩しいのだが、目の前の客席は何も見えない。冷静に考えれば分かることなのだが、それすら自分で把握をしていなかった。それゆえに、完全に戸惑ってしまったが、それでも、自分なりに冷静さを取り戻し、一度戸惑ったわりには、
「結構うまくいった」
と感じたのだった。
「あとは、野となれ山となれ」
実際の結果を待つだけだった。
自分の演目の前は、
「早く舞台に立ちたい」
という思いだったが、終わってしまうと、想像以上に疲れてしまって、気が付けば、あっという間に時間が過ぎていて、自分の演目以降の人の内容は、まったく頭の中に入ってきてはいなかったのだ。
いよいよ最後の演目が終了し、審査が行われている間、次第に緊張が増してくるのは確かだったのだが、それ以上に、
「入賞くらいはするだろう」
という自信が強くなってくるのを感じていた。
そこには、矛盾した感覚もあったのだ。
「自信を持てば持つほど緊張感が深まってきて、緊張感が深まれば、今度は、次第に不安になってくる」
という感覚だったからだ。
「AがBであり、BがCであれば、AはCである」
という三段論法とは違うものだった。
三段論法が通用しないということは、矛盾ということである。元々この理論も、三段論法からきているのだ。
それを考えると、三段論法という考え方は、ある意味、万能な考え方だといってもいいだろう。
それが通用しない矛盾した精神状態に陥ったことで、自分の自信も、
「実は不安の裏返しなのではないか?」
と感じるようになったのだ。
そして、時間がどんどん経過していくうちに、今度は自信よりも不安の方が強くなっていく。その時、
「最初は自信の方が不安よりも強かったんだよな?」
と、今さらながらについさっきの自分の心境を思い出そうとしていたのだった。
自信は、最後には、ほとんどなくなったはずだと思うのに、
「それでも入賞はするだろう」
という、自信めいたものが残っていた。
どこからそんな根拠もない自信が生まれてくるというのか。それを考えると、
「とにかく早く結果を知りたい」
という思いがこみあげてきて。それが焦りだということにまったく気づいていなかったのだ。
「いよいよ、審査の発表です。四位から下をまず発表していきます」
と言って、十位を超えても自分の名前を呼ばれることはなかった。
二十人の中の半分を過ぎたところで名前を呼ばれないということは、
「やっぱり、入賞したんだ」
と、このあたりになると、もう下位で自分の名前が呼ばれることはないと思っていたが。
しかし、何と、
「十九位、一年二組、阿久津漱石君」
と呼ばれた時は、まったく予期もしておらず、
「早く、上位の順番にならないか?」
ということだけを考えていただけに、ショック以前の問題だった。
さらに、その後、入賞者の発表の時、自分の名前が呼ばれるはずはないと分かっているのに、さっきまで心構えをしていたその気持ちが、そのまま残っていて、無駄な一喜一憂をしている自分を恥ずかしいと思っていたのだった。
「そんな、酷い」
と思ったが、それが現実だったのだ。
「一体何が悪いというのだろう?」
自分がとんだ勘違い野郎だということを思い知らされた時、まず考えたのは、
「何が一体悪かったというのか、ハッキリとした答えを聞きたいものだ」
ということであった。
もちろん、審査委員の先生が教えてくれるはずもない。原稿を添削してくれた先生も、何も言おうとしない。
表彰式の時に、入選者の評価については話していたが、それ以外の人の内容については触れていない。これは学内弁論大会に限ったことではなく、基本的にコンクールというのは、入選者以外の評価はまったくしない。たぶん、その内容によって、ショックを受ける人もいるということなのだろうが、平等という意味においても、きっとそうなんだろう。下手に話して、自信を無くしてしまうようであれば、せっかくの教育の一環として行っていることの意義が失われてしまうというのは、学校側も本意ではないだろう。
それを思うと、漱石は、
「なぜなんだ?」
と思いながら、
「どこかに、完全な勘違いが秘められているに違いない」
とあくまでも、自分の勘違いが引き起こした結果であると思いたいのだった。
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