第7話 音の現象と特質

 事件が起こってから、まるで何もなかったかのように、皆静かだった。

「この街って、こんなに静かだったのかな?」

 と感じるほど、まわりは一切何も言わない。

 というのも、自分が勝手に静かな街をイメージしているからなのかも知れない。実際には、もう少し賑やかなのだろうが、

「殺人事件が起こったんだから、そりゃあ、かん口令が敷かれるわな」

 という思いがあった。

 そもそも、殺人事件なのか、事故なのか、それとも。突然死だったのかということもハッキリとは聞いていないが、この話を誰もする人がいないということで、勝手に、

「殺人事件だからということで、皆、敢えて話をしないようにしているんじゃないだろうか?」

 と考えたことで、イメージがそっちに凝り固まってしまったのだった。

 殺人事件など、起こりそうもない閑静な住宅街、これは、他の地区とはまったく違っている閉鎖的なところだから、そう感じるのだが、逆に考えてみると、昔の探偵小説などでは、他の土地と隔絶された、何とか村などというところで、その土地に伝わる伝説などを事件と結びつけるという種類の話も結構あったりした。

 実際にあった話を元にして書かれた小説もあったりするくらいで、それだけに、昔の都会と隔絶された田舎の村というのは、事件が起こる可能性を秘めていたのかも知れない。

 昔の村というと、ほとんどの場合、村長と書いて、「むらおさ」と読むような、地主のような家があって、村人のほとんどが、皆、その家の恩恵を受けることで暮らしていけるというような村である。

 そんな村長のような家で殺人事件が起こるなどというのは定番ではなかったか。

 しかし、小説の中では、

「こんな殺人事件などが起こるような村ではなかったはずなのに」

 という駐在の話が聞かれるわりには、物語の途中で、

「実は昔」

 ということで、数十年前に起こった、忌まわしい連続殺人の話が出てきたりして、村人や村にかかわっている人が、かつての忌まわしい事件を思い出したくないという発想になっていたりするものだ。

 さすがに連続殺人などになると、そんなことも言っておられず、やっと、かつての事件が表に出てくる。

 しかし、これもおかしな話で、最初の殺人が起こった時点で、警察は被害者の身辺や、家の過去、そこから出てくるはずの、かつて起こった殺人事件のことが捜査の段階で明るみにでるのは分かっていたことであろう。

 それでも、

「だからと言って、今回の事件と結びつけるのは、早急すぎる」

 ということで、いちいちかつての事件を結び付けるようなことはしないだろう。

 犯行声明があったり、

「昔の恨み」

 などという言葉が書かれた紙などが出てくれば、結びつけることになるだろうが、そうでもなければ、

「今さら、十年以上も前の事件を」

 と思うのも当たり前のことで、普通なら、

「どうして今なんだ?」

 ということになる。

 もちろん、復讐計画を練っていて、計画が成就したのが今だったというだけであれば、その問題は解決するのだろうが、逆にそこから、事件解決に結びつけることは難しいかも知れない。

 犯人が当時の事件の関係者であれば、なるべく隠そうとするだろうし、逆にそれを公表して、しかも、犯人がアリバイなどの工作をしているのであれば、矛盾した行動だということになる。

 そうなると、

「昔の事件が、ただダシに使われただけだ」

 ということになり、やはりそこから事件解決に向けて、かつての事件をフェイクに使っているといってもいいかも知れない。

 探偵小説というのは、そういう感じで読み込んでいくのが、結構楽しかったりするものだ。

 そういえば、数年前だったか、このあたりの住宅街で、空き巣があったという話を聞いた。

 当時は、世間がある伝染病が全世界規模で流行ってしまったこともあって、経済が悲惨なことになってしまった。

 元々は、政府の怠慢さと、危機管理の甘さから、諸外国で伝染病が流行り出した時、水際対策を強化するどころか、ザル同然だったため、発生国から大量お旅行客などが流れ込んできて、感染を拡大させた。元々、その国からの渡航者は全世界からの半分近くあったかも知れない。

 それをそのまま垂れ流しにしてしまったことで、政府はそれ以降すべての製作が後手後手に回ってしまう。

 詳細が分かっていないということで、いきなり、全国の公立の小中学校に休校命令を出したり、いきなり、

「緊急事態宣言」

 を出したりした。

 日本という国は憲法九条にて、

「有事は存在しない」

 という理念の元、国家は戒厳令と呼ばれるものが存在しなくなったのだ。

 戒厳令というのは、大日本帝国化には存在したものであり、

「クーデターや災害などが起こって、治安が著しく悪化したりした場合、秩序、治安の維持を目的に、本来であれば、憲法で守られるべき、個人の自由を、その時だけは制限できる」

 という法律である。

 もちろん、大日本帝国下には、存在した。今までに日本は戒厳令を、発行したのは、過去三回だったのだ。

 時代も、明治に一度、大正に一度、昭和に一度だったのだが、果たして、皆さんはそれぞれ分かるだろうか?

 まずは最初に発行された明治時代。これは、日露戦争に由来するのだが、日露戦争というのは、弱小と言われた明治日本が、当時最大の陸軍を誇ると言われたロシアとの戦争であった。

 日本とすれば、安全保障の観点で、死守しなければいけない朝鮮半島、さらには、満州地区に対して、

「不凍港」

 を目指して、シベリアから南下してくるロシアとの間での衝突であった。

 日本がこの戦争に勝てたのは、多大な犠牲の中で、薄氷を踏むような戦闘に勝ててきたことが大きなことであったが、実は、外交的な意味でも重要なことがあったことを、日本史の授業で習ったはずだが、上の空だった人も多いことだろう。それでも、

「日英同盟」

 と言えば、一度は耳にしたことがあるはずである。

 国際上、ロシアは極東のシベリア以外にも、中央アジアから、南下して、クリミア半島やギリシャあたりの不凍港を目指して南下していると、そのあたりに権益を持っている英国と衝突することになる。

 当時英国は、

「栄光ある孤立」

 ということで、どこの国とも軍事同盟を結んでいなかったが、この時は日本の外交努力にて利害関係の一致した英国と同盟を結ぶことに成功した。これがあればこそ、当時の対ロ開戦に慎重だった伊藤博文も、やっと折れることで、日露の開戦に入ったわけだが、日本という国は、そこで初めて日露戦争の開戦に入ったわけである。

 問題は、朝鮮半島での陸軍の戦闘と、ロシア海軍が、当時極東艦隊として基地を置いていた、

「ウラジオストック艦隊」

 と、

「旅順艦隊」

 とが結びつき、バルト海から派遣されるバルチック艦隊とが合流すれば、さすがに日本の連合艦隊と言っても勝ち目はない。そういう意味で、旅順港におけるロシア極東艦隊の撃滅、もしそれができなかったとしても、戦闘参加が不能なように、閉塞作戦が考えられたが、ことごとく失敗した。そこで陸軍による旅順攻略作戦が行われたが、ロシア軍は、元々清国が作っていた要塞を、世界最強のトーチカとして要塞化した旅順要塞を攻略できないでいたのを、二百三高地に攻撃目標を変え、そこを攻略することで、旅順の山から、大砲で、旅順港に停泊中のロシア極東艦隊の半分を撃滅することに成功したのだ。

 あとは、バルチック艦隊だが、ここで日英同盟が、効力を発揮する。

 バルチック艦隊が極東に向かうには、まず、ヨーロッパの海域から、ドーバー海峡を抜け、スペインを回りこんで、アフリカまわりで、インドから、東南アジア、そして日本へと近づくのだが、その長い航海では、当然のことながら、水や食料の補給が大切になってくる。

 無事に供給できたとしても、ただでさえ長い航海なので、疲労はかなりのもののはずなのに、この航路には、英国領であったり、英国の影響の大きなところが立ち塞がっている。そんなところを航海していくわけだから、水や食料の補給がまともにできるはずもなく、日本近海に現れた時には、すでにひどい状態だったに違いない。それだけで勝負はついていたといってもいいだろう。日本海海戦と呼ばれる戦闘は、半日で日本の勝利が決した。まるで関ヶ原のような短さであった。

 陸軍も海軍も圧倒的な勝利を戦闘では見せたが、もうロシアも日本も戦闘を続けていけるだけの体力はなかった。日本の国家予算の数年分を使い果たした状態で、戦力もかなりの被害を出したために、ほぼ瀕死の状態だった。

 しかし、ロシアの方でも、時刻で革命の火がくすぶっているような状態だった。戦争などしている状況ではなかったのだ。

 そこで、両国はアメリカの仲介によって、和平条約を結ぶことにした。

 日本は、戦勝国ということで、領土的なものは手に入れることができたが、肝心の戦争賠償金を手に入れることができなかった。それを不満として戦争継続できるわけもないし、仕方なく、外務大臣の小村寿太郎は、戦争賠償金をなしの状態で、和平を成立させた。それを知った国民は、

「これだけの被害を出して、賠償金がないというのか?」

 ということで、暴動を起こしたのだ。

 もちろん、民衆は日本が戦争継続などできないほど疲弊しているとは思っていなかったのだろう。

 だが、実際にはのっぴきならない状態ではあったが、日本の面目が守られる和平交渉だったはずなのに、国民の怒りは収まらない、その暴動が、あの有名な、

「日比谷公園の焼き討ち事件」

 だったのだ。

 この時、警察にも民衆を抑えるのが難しくなり、大日本憲法発布以降、初めての戒厳令が出されたというわけであった、

 これが明治における最初の戒厳令だったのだ。

 では、大正における戒厳令とは何だったのだろうか?

 大正時代というと、十五年ほどしかなかったが、結構いろいろあった時代だった。

 第一次世界大戦や、大正デモクラシー、中華民国に対しての、対華二十一か条条約、そして、とどめとなったのが、未曽有の大災害となった、

「関東大震災」

 であった。

 伊豆半島沖を震源地とする地震は、帝都や横浜などを焼野原とし、その混乱に乗じて、朝鮮人虐殺などという事件もあった。

 完全に治安維持ができる状況ではないので、戒厳令が敷かれ、いわゆる災害においての、最初で最後の戒厳令となったのだ。もし、今の日本に戒厳令があったら、関東大震災以来の、

「災害による戒厳令の発行」

 ということになっただろう。

 ただ、関東大震災は、完全に天災であったが、

「今回の災害は、果たして天才であったのか?」

 ということである。

 ある国家による人災ということもなかったのかという疑問も付きまとう。

 しかし、日本にも、他に災害による戒厳令を必要とするような災害はたくさんあった。

 阪神大震災であったり、東日本大震災など、治安が崩壊した状態だったではないか。ただ、

「戒厳令というのは、首都を中心としたものでないといけない」

 という条文があったのかどうかまでは分からない。しかし、たぶん戒厳令が出されるべき事由であったということは疑いようのない事実であろう。

 そうなると、今の日本は、災害になると自衛隊の派遣要請というのは、災害のあった地方自治体の長がまずは、政府に依頼し、そこから内閣総理大臣が派遣を検討するということになる。

 阪神大震災の時に大きな問題となったのは、まず自治体の長が、政府に派遣要請を行わなかったことから、被害がひどくなってしまった。このあたりに大きな問題もあっただろう。

 要するに危機管理において、相当な甘さが見られたということである。

「日本には有事はない」

 という神話のようなものを信じていたからではないだろうか。

 それまでにも近々にバブルが弾けたことで、

「銀行は絶対に潰れない」

 という神話があったのだが、いとも簡単に銀行などの金融機関から破綻していったのを見ているはずなのだから、

「神話を信じない」

 というのであれば、

「危機管理を甘くみていた」

 と言われても、一切の言い訳は通用しないといえるのではないだろうか。

 それが、大正時代に起こった、

「天災による戒厳令」

 だったのだ。

 さて、昭和においての戒厳令であるが、この時代には、昭和の初期は、

「激動の時代だ」

 といってもいいだろう。

 前述の関東大震災の復興もまだ癒えない中で、巻き起こった。世界大恐慌という波である。

 日本では東北地方の凶作とも絡んで、

「娘を売らないと、明日の食事も食べられない」

 とまで言われたほどの大恐慌が襲ってきたのだ。

 日本は、満州に権益を作るためと、居留民保護という名目から、満州事変へと突入した。しかも、それを諸外国から非難され、国際連盟を脱退することで、世界的に孤立してきたのだ。

 ただ、これはあくまでも歴史の流れという意味で、それに触発されるかのような、大事件が帝都で発生した。それが昭和における戒厳令発行となった、

「二・二六事件」

 であった。

 これが、いわゆる

「クーデターによる、国家の治安が維持できないため」

 という理由であった。

 もっとも、この事件は、

「陸軍の青年将校たちが、政府の一部に巣くう、特権階級の連中に昭和維新としてのクーデターを起こした」

 という話になっていることが多いが、実際には、陸軍内部の、

「派閥争い」

 というだけのことだった。

「統制派」

 と呼ばれる派閥と、

「皇道派」

 と呼ばれる派閥争いで、統制派が力を握ったために、自分たちの立場が悪くなったら困るというころで、起こしたクーデターだったのだ。

「自分たちの保身のために、国家の、つまりは、天皇陛下の軍隊を動かした」

 というのが、本当のことではないだろうか。

 もし本当であれば、これは完全な憲法違反である。

 同時の軍隊は、天皇陛下の統帥権の元、天皇陛下の命令なしに、軍を勝手に動かしてはいけないということになっている。今の日本でも、総理大臣の命令なしに、自衛隊の幕僚が勝手に自衛隊員に出動命令を出し、さらに、他国を攻撃したのと同じくらいの罪だといってもいい。

 最終的に投降した青年将校を、

「弁護人なし、非公開で全員銃殺刑」

 としたとしても、無理もないことだっただろう。

 戒厳令はその時に出されたのだった。今の時代で、もしクーデターがあり、戒厳令の問題が出たとして、あったとすれば、オウム真理教による、

「地下鉄サリン事件」がそれにあたるのではないだろうか。完全に国家転覆を狙ったクーデターだからである」

 と言えるだろう、

 これが、大日本帝国における、三回の戒厳令である。

 これらのクーデタ―や、災害は、確かに戒厳令を必要とするものだった。ただ、戒厳令というものは、基本的に、政府や軍が強力である必要がある。憲法によって守られた政府や軍に力があり、軍より任命される戒厳司令官に権力が集中することになる。

 それがハッキリしたのは、二・二六事件ではなかっただろうか。

 二・二六事件というと、青年将校といわれる、大尉、中尉、少尉クラスの人たちによる自軍を動かしてのクーデターであった。

 当時の岡田総理、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、さらに、斎藤実内大臣などの政府高官の暗殺を謀ったのだ。

 彼らの言い分としては、

「天皇のそばにいる一部の特権階級の連中が、天皇の傘の下にいて、甘い汁を吸っているそんな連中の打倒により、天皇中心の親政を行う」

 という、いわゆる、

「昭和維新」

 を名目に、決起したものである。

 しかも、決起において、自分の軍を勝手に動かし、兵に対し、上官命令を課することにおいて、政府要人や当時の財閥などを襲撃し、暗殺を謀ったのだ。

 ただ、狙われた連中のすべてが、自分たち皇道派に敵対していた、統制派の連中ばかりだということと、そもそも、この時期に、一部皇道派青年将校によるクーデターが起こるのではないかという憶測はあったようで、実際に起こってしまうと、その架空のシナリオとほぼ同じ内容だったのだろう。

 そうなると、軍に関係のある人間が考えれば、あきらかに、

「皇道派と統制派による派閥争い」

 だということは一目瞭然である。

 しかも、天皇にしてみれば、首相、内大臣、教育総監という、天皇が軍を動かしたり、政治を把握するうえで、大切な相談役であり、自分が一番信頼を置いている人たちを、ことごとく殺害したのだから、怒りに震えるのも無理もないことだろう。

 陸軍内部でも、青年将校たちに同情的な意見も若干はあったのだが、天皇が怒り心頭になった時点で、このクーデターは終わりだったのだ。

 彼らの意見を天皇に上奏した時も、天皇は怒り狂っていたという。

「お前たちg躊躇するなら、私が自ら軍を率いて、鎮圧する」

 とまで言われたという。

 無理もないことである。自分の信頼する人間を殺され、帝都の治安を乱され、戒厳令まで出す羽目になったのだから、天皇としては、彼らが自分に弓を引いた完全なる賊軍だということを感じたのだろう。

 こうなってしまっては、反乱軍が軍を率いて、立てこもる理由はなくなった。

 何と言っても、最大の目的である

「天皇親政」

 という尊王が目的なのに、

「その天皇を怒らせた」

 ということであれば、青年将校たちの敗北は間違いない。

 そういう意味で、投降した青年将校に対し、

「非公開、弁護人なし」

 で、首謀者は全員死刑という結果になった。

 そもそも、この事件を起こす一つのきっかけとなったのは、海軍将校による犬養首相殺害の五・一五事件においての首謀者が、かなりの減刑であり、すぐに恩赦されたりしたことが、陸軍青年将校に安心感を与えた。当時の政治の不安定さと、陸軍内部の一触即発であった状態を考えれば、

「もっと厳しくてもよかったのではないか?」

 と後から悔やんだ人もいたかも知れない。

 だが、この、二・二六事件をきっかけに、陸軍内部は統制派の固まり、ここから先は、国家総動員令、治安維持法の成立なども絡み合って、いよいよ、陸軍の暴走に拍車がかかってきたといっておいいだろう。

 とにかく二・二六事件に関して、今の日本人がどのように感じているのか分からないが、何と言っても日本人の感覚は、

「判官びいき」

 と言われるほどに、

「弱い者の味方」

 ということであり、青年将校たちに同情的に感じるであろう。

 ただ、彼らがいうように歴史が答えを出してくれるとするならば、結局最後は大日本帝国は滅亡したということで、やはり彼らの考えは出された答えだけと見ると、

「間違っていた」

 ということになるのだろう。

 話が大きくずれてしまったが、

「時代は繰り返す」

 ということもある。

 人によっては、ちょっとしたことであっても、十分逆恨みをすることもあるので、

「世の中、何が災いするか分からない」

 と言えるであろう。

 この殺人事件を捜査していると、一つ気になる情報が出てきた。

 隣の新婚の話によれば、以前、モスキート音が聞かれたので、隣。つまり阿久津家に相談に行ったが、どうやら、阿久津家は関係ないと思ったようだ。しかし、もう一方の隣に行くと、相手は男性の一人住まいで、雰囲気も暗く、とても、平穏に近所づきあいをするという感じではなかったという。 

 そして、今回殺害されたその人が残していた日記によると、

「最近、騒音に悩まされていた」

 と書かれている。 

 その日付は、新婚が相談に行く数日前に書かれたものだということで、日記帳に行を開けず、相談の日の翌々日くらいに起こった事件が書かれていたので、その内容は、相談を受ける前だということに違いない。

 そのことを考えると、お互いに、それぞれ違った音に悩まされていたことになる。

 隣の男がどのような騒音に悩まされていたのか分からないが、日記を見る限り、最初は、新婚が怪しいと思っていたが、そのうちに、反対側の家からも同じような周波数の音が聞こえてきたという。

 そして、そのうちに頭の中が音で混乱してきて、落ち着いて判断することができなくなってきたようだ。

「誰かを殺したい」

 という衝動にかられたと書かれているが、その文字は完全に乱れていた。

 精神的に病んでいるのは、間違いないようだった。

 しかし、彼は殺されたのであって、自分から誰かを殺したわけでも、自殺したわけでもない。

 起こった結果としては、日記の内容からは、矛盾していることであった。

 ただ、心境の変化というのは、一瞬にして起こる場合がある、この日記を完全に信じ込んでしまうというのは、恐ろしいことではないだろうか。

 日記を見る限り、最初は新婚家庭からの音に納屋されていたように思ったが、今度は反対側からの音も気になるようになってきた。

 その音というのは、自分の欲望と、これまでの惨めな自分を苛めるような状態に陥らせ、鬱状態を引き起こすようだという。

 以前にも似たようなことがあり、欲望のままに動いてしまい、後悔が襲ってきたところに、自分の感情がまわりにバレてしまった。

 そのうちに、濡れ衣であるのは分かり切っていたが、自己嫌悪から、それを否定することができず、さらなる沼に嵌りこんでしまうのが分かっていながら、自ら嵌りこんでしまう自分を、いかにその時、制御できなかったのかということがトラウマとなってしまい、そのことが、自分を積極的に行動させることができなくなってしまった。

 それが、自己嫌悪に繋がり、沼に堕ちていく自分を誰も助けてくれないと分かっていながら、見捨てるようにしか見ていないまわりに、外から冷静に見ている自分は、怒りを覚えていたのだった。

「お前たちが苦しんでいる時、俺は、草葉の陰から思い切り笑ってやる」

 という気持ちだったのだろう。

 本当は笑うよりも、失笑という冷めた目の方がいいのだろうが、自分は性格的に黙って冷静になることができない。

 ただ、それなのに、近所づきあいは正反対の自分が見えている。そういうことなのだろうか?

 このギャップが理不尽な自分を作り出している。この違いが、

「自分で自分が分からない

 という状況に持ってこさせ、たぶん、これから自分を永遠に苛めることであろう……。

 そんな内容のことを日記には書いていたが、何しろ精神が病んでいる人間が書いた日記なのである。常人に理解できるわけもない。

 刑事としては、

「俺も常人とは程遠いんだけど、それにしても、この男の病みがどこにあるのか、正直分からないといってもいい」

 と、日記を読んだ担当刑事は、そう考えるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る