第3話 阿久津家の事情

 閑静な住宅街のほぼ中心部分に位置する阿久津家は、ほぼ毎日、同じルーティンを繰り返す日々を送っていた。

 旦那の阿久津氏は、家から都心部まで、通勤に約二時間という、通勤だけで結構大変な毎日を過ごしている。せっかく一軒家を持つことができたので、二時間の通勤時間もそれほど苦にならないと思っていたが、実際に一軒家に住むことも慣れてくると、最初の新鮮さが失われていき、通勤の苦痛がもろに襲い掛かってくるのだった。

 そんな苦労を家族に知られたくないという思いは、足が攣った時の感覚に似ているというもので、なるべく一人で抱え込むような性格になってしまった。

 そのせいもあってか、家族との会話があまりうまくいっていないようだった。

 それでも、先日の休日に、隣の夫婦が訪ねてきて、

「奇妙な異音がする」

 という話をした時は、本当は、

「休日なんだから、ゆっくりしていたい」

 という気持ちがあったのも事実だが、それよりも、最近マンネリ化してきた中で、ちょっとした刺激のようなものがあった気がして、新鮮だった。

 しかも、若い夫婦を見ていると、昔の自分たちのことが思い出されて、二人の様子を気にして見ていたが、そのうちに、隣の奥さんの姿に、妖艶さを感じ、最近感じたことのない、性欲のようなものがこみあげてきたのも、一緒に感じたのだ。

「最近、ご無沙汰だよな」

 と思ったが、だからと言って、今さら、女房を抱きたいという感覚はない。

 正直にいえば、子供が生まれてから、極端に二人の関係は微妙になってきた。

 最初の頃は、二日に一回のペースで愛し合っていたのだが、妊娠したと分かると、

「子供ができる」

 という喜びと、

「やっと、これで自分も家庭が持てる」

 と感じたことが、この上なく嬉しかったのだ。

 確かに、結婚して二人で暮らし始めた時から、その二人が自分にとっての家庭だったのは間違いない。

「これから、二人で楽しい家庭を築いていこう」

 と言って、新婚生活に突入した時は、真剣に、そう思っていたのだ。

 しかし、妊娠したと分かって、奥さんの身体をいたわったりしているうちに、今まで自分のものだと思っていた女房が、急によそよそしい気持ちになってきたのだ。

 子供を宿してくれたことに感謝もするし、

「子供が生まれれば、家族が一人増えるのだ」

 という気持ちになるのは確かなことだった。

 その子が、次第にお腹の中で目立つようになると、

「いよいよ、命が育まれているんだ」

 という思いと、

「女房が、子供に取られてしまうそうな気がする」

 という子供に対しての嫉妬のようなものが生まれてきた。

 子供ができてから、そんな気分に陥るという話は聞いたことがあったが、まさか、まだ子供が生まれ落ちる前からこんな気持ちになるなんて、まったくの想定外のことだったのだ。

 そんな時、会社で事務員の女の子がモーションを掛けてきた。

「係長、今までお弁当だったのに、今は作ってくれないんですか?」

 と、彼女が言ってくるので、

「うん、そうなんだ。妊娠しちゃったので、無理もさせられないと思ってね」

 と言ったが、きっと、その時も、寂しそうな顔をしていたのだろう。

「可愛そうな、係長。いいですよ、私が明日から作ってきますね」

 というではないか。

「そ、そんな悪いよ」

 というと、

「大丈夫です。一人作るも二人作るも同じですからね」

 と言って、強引な彼女の申し出を断ることができなかった。

 彼女はどんどん接近してくる。阿久津氏は、そんな彼女を遠ざけようとするのだが、強引な彼女に押し切られるのだった。

「いや、実はそうではない」

 阿久津氏が、まるで強引な彼女に押し切られているように書いたが、表から見ればそんな風に見えるだろうが、実はそうではない。阿久津氏の気持ちはまんざらでもなく。

「あわやくば」

 という思いが次第にこみあげてきたのだ。

 最初はさすがに、

「これはまずい」

 という思いが強かったのだが。そのうちに、まずいという気持ちを表に発散させながら、それを隠れ蓑にして、彼女に責任を押し付けて、不倫を楽しみたいという、何とも卑劣な思いを抱いていた。

 しかし、その時の阿久津氏は、

「表から見ていれば、何と卑劣な男なのかと思うのだろうが、本音は完全に前のめりで、不倫を前提として、いかにごまかしきれるか?」

 ということが、大切なのかを考えていた。

 つまり、

「心ここにあらず」

 と言ったところであろうか、家にいても、どこか気持ちは上の空で、気が付けば、部下の彼女のことを考えている。

 奥さんのりえにいわれて、ハッと気づくが、一瞬でも、

「気持ちを見透かされているのではないか?」

 と思っているのではないかと考えると、恐ろしい気持ちになるのだった。

 奥さんも、自分の身体のことだけで精一杯なのだろう。最初から阿久津氏が彼女のことを気遣ってくれているということを信じて疑っていないかのようだった。

 しかし、実際には、途中から、

「心ここにあらず」

 だったのだ。

 女房を見ながら、会社の部下の女の子のことばかり考えていた。

 それは、今まで、

「真面目さだけが取り柄だ」

 と言われていた阿久津氏の、もう一つの部分だといってもいいだろう。

 まだ、その頃は、彼女と一線を越えてはいなかった。

「一線を超えるようなことをすれば、修羅に堕ちてしまう」

 という思いと、

「いや、これまでずっと真面目にやってきたけど、何もいいことがなかったではないか?」

 というまったく正反対の思いが交錯し、感覚がマヒしてしまっているのかも知れない。

 何もいいことがなかったなどと、本当は思っているはずはない。少なくとも、理想の女房と結婚でき、これから子供が生まれるのだから、これ以上のいいことはないはずではないだろうか。

 それを分かっているのに、何もいいことがなかったなどという思いは、これから迎えるであろう、

「不倫」

 という悪行の言い訳に使うという、実に姑息な考えであった。

 部下の彼女は、名前を稲垣あおいという。普段はOLの制服に身を包んでいると、絵にかいたような清楚な女性に見えるが、実際は、とらえどころのないという、あざとさを持った女性だったのだ。

 奥さんのりえと出会った時は、最初は、妖艶な雰囲気を感じたが、実際に話をしてみたりすると、清楚なところだけが目につく女の子だった。そのギャップのようなものが感じられ、阿久津氏は完全に一目惚れだったのだ。

 阿久津氏は、それまで女性に一目惚れしたことはなかった。学生時代に何人かと付き合ったことはあったが、何となく付き合うようになったり、相手が戸惑っているところを、ちょっとついてみると、付き合うことになったりという。自分の意思から付き合うようになったという感じではなかったのだ。

 だから、りえに一目惚れした時というのは、これほど新鮮で、ドキドキしたことはなかった。

「何としてでも、結婚したい」

 という強い思いがあったからなのか、完全に、りえも自分のことを好きになってくれたようで、実際に結婚して、二人の家庭を築き始めるまでに、それほど苦労があったわけではない。

 順風満帆だったこともあって、時間はあっという間に過ぎてしまったかのように思えたのだ。

 だが、子供ができて、それまで感じたことのなかった距離感が、どこかひび割れしているように思えてくるという、おかしな飛躍が頭にあった。

 それが、急に家庭を顧みることなく、あおいに気持ちを奪われることになったのだ。

 そもそも、子供ができてから、少しして、

「郊外でもいいから、一軒家を持とうか?」

 と言い出したのは、阿久津氏だった。

 その頃には、あおいと別れていて、あおいも、会社を辞めていったのだが、阿久津氏の中で、真面目過ぎる性格が災い(?)したのか、

「なるべく、離れたところで、家族をやり直そう」

 と思ったのだ。

 幸いにも、あおいとの不倫が誰にもバレることはなかった。会社にも、家族にもバレなかったことで、何とか、事なきを得たのだが、阿久津氏の中で、後ろめたさが残ったのも、無理のないことだった。

 少なくとも、あおいと別れてから、半年以上は、どこか上の空だった。

 家では子供がそろそろ一歳になろうかとしている時で、りえとしては、一番大変だった時なのかも知れない。

 臨月を迎えて、入院し、必死の思いで子供を出産し、家に帰ってきてからも、待ったなしで子育てが始まる。

 赤ん坊は、二時間に一回の割くらいで、お乳を挙げないといけないという。それは、夜中も関係なしのことだった。

 奥さんも、次第に憔悴していって、阿久津氏も、仕事のことを考えると、夜何度も起こされるのは、実に苦痛だったのだ。

 そんな状態でお互いのことを思いやる精神的余裕があるわけでもない。

 ただ、阿久津氏としては、頭の中に巣くっている、あおいへの思いを断ち切るにはちょうどよかったのかも知れない。

 もし、そんな状態でなければ、半年と言わず、一年か、あるいは、それ以上にショックが残ってしまったのかも知れないと思うのだった。

 阿久津氏が、あおいと別れることになったのは、ある意味、

「自業自得だった」

 と言えるのかも知れない。

 ただ、あおいに対しては、阿久津氏は悪いことをしたわけでも何でもなかった。

 ただ、奥さんを裏切る形で、言い寄られたとはいえ、あおいに心を奪われたのは、正直、一緒の不覚だといってもいいだろう。

 それが、ここでいう、

「自業自得」

 という言葉のすべてになる。

 つまり、あおいは、阿久津氏にモーションを掛けながら、もう一人、若い男にもモーションを掛けていたのだ。彼女の方は、二股をかけていたのである。

 そんなことはまったく知らず、

「俺だけを愛してくれているんだ」

 と、感じていた阿久津氏は、完全に、あおいに嵌っていた

 あおいの方は、その頃になると、阿久津氏を掌で転がしながら、適当にあしらっていたのだが、次第にモーションを掛けていた若い男が振り向いてくれるようになると、完全に有頂天になっていた。

 相手の男は、あおいが、

「俺以外の男も見ているんじゃないか?」

 と感じたことで、それまで、あまり意識をしてなかったあおいが気になってきたのだった。

 男というのは。

「相手が自分ばかり見ていると、少し焦らしてやろうと感じるのだが、相手が自分から少しでも離れようとしているのが分かれば、急に自分が焦り出し、捕まえておかねばならない」

 という思いを抱くようになるのだった。

 つまり、あおいに引かれたと思った男は、今度は逃がしてはいけないということで、あおいに、興味を示しだした。

「しめしめ」

 とあおいが思ったのだろう。

 そうなると、あおいも、阿久津氏のことは、完全に、

「二番目の男」

 に成り下がる。

 相手の男から、

「俺だけを愛してほしい」

 などろ言われると、電流が流れたかのようになり、もう男のいいなりになってしまう。

 これまでの三角関係での力関係は、まったく変わってしまったのだ。

 そうなると、三角関係で一番脆弱な、あおいと阿久津氏の関係が崩れるのは必然のことであった。

 ただ、この三人の関係においての力関係は、最初から決まっていて、変わってしまったと思うその時に、初めて決まっている方向に動き出したというだけのことなのかも知れない。

 そんな女に対して、本当は、

「もうダメなんだ」

 という思いを抱いていたにも関わらず、離れることができなかった。

 その理由の一つとして、

「嫁さんを裏切った俺が、元に戻ることができるのだろうか?」

 という思いであった。

 奥さんは何も知らないのだから、奥さんに対して、後ろめたささえなくせば、何もなかったということにできるはずなのに、それがどうにもできなかった。

「呪縛のようなものに、挟まれているのかも知れない」

 と、阿久津は感じていた。

 あおいは、阿久津に対してまったく悪気はなさそうだった。

 そもそも、奥さんから離れてから哀愁を漂わせていた阿久津を、自分が救ったかのように思っているのだから、悪気もないだろう、

 だから、自分が男を捨てたという気持ちはない。

「どうせ、この人は最後には奥さんのところに戻っていくんだわ」

 と思っていたのだ。

「一時期、奥さんを忘れさせてあげて、快楽にいざなってあげた私のどこに悪いところがあるというの?」

 と感じたことだろう。

 それなのに、

「どうして、あの人は奥さんのところに戻ってあげないのかしら?」

 と、あおいは感じた。

 あおいが、どれだけ、阿久津のことを真剣に見ていなかったのかということが分かるというものだ。

 阿久津のことを少しでも理解していれば、そう簡単に奥さんの元に戻ることができない性格であるということが分かったはずだ。

 もっとも、そんな性格の阿久津という男が気になったのだから、面倒を見てあげようと感じたのではなかったのか。

 そういう意味では、彼女は、人のこともさることながら、自分のことを一番理解できないタイプの女性であるということなのだろう。

 阿久津は、そんな女に、実際には未練はなかった。

 しかし、戻ることもできず、ただ捨てられたかのようになってしまった自分が情けなく。どうせ情けないのであれば、自分を捨てた女に、もう一度すがってみようと思ったのも、ある意味阿久津の性格であった。

 ここまで極端だとは、さすがにあおいも分かっていなかった。

「こんなに粘着な人だったとは」

 と思うと、自分がどうしてこの男を気になったのか、見る目がなかったということで片付けていいものかどうか。悩むところであった。

 そんな阿久津は、何とか追いすがったが、さすがに、

「もうダメだ」

 と感じた時、

「今なら、女房の元に戻れるかも知れない」

 と感じた。

 それは、ダメだと思ったあおいに、ダメではあったが、恥も外聞も捨てて、すがろうとすることができたからだ。だったら、りえに対してもできるのではないか? と思ったのだが、それは、同時に、自分の帰る家がそこにあることを思い出したからであった。

 その時、悪いことをしたはずの自分を棚に上げて。

「そうなんだ。あそこは俺の家であり、家庭なんだ」

 と思ったのだ、

 久しぶりに家に帰ると、傲慢とも思える態度を取った。

「ダメ元だ」

 という思いが強かったのだ。

 しかし、最初は頑なに見えたりえの態度が少しずつ和らいできたのを感じた。

 りえをしてみれば、今までに見たことのない旦那の様子に、

「少しは見直せる部分があるかも知れない」

 と裏切られた方がそんな風に感じられるのだから、阿久津という男は、女性に対して、心を動かせる力があるのかも知れないと思わせたのだ。

 阿久津氏のそんな事情があってから、家族への後ろめたさもあって、郊外でもいいから、一軒家がほしいという気持ちになったのだろう。

 りえも、その気持ちが分かったからか、阿久津氏のことをそれ以降、あまり責めたりしないし、実際に、もう不倫などということがないことは分かっていた。

 ただ、たまに仕事で遅くなった時などは、会社の近くのビジネスホテルに宿泊することを許している。そんな時は、たまに風俗を利用しているようだ。

 阿久津氏の性格は分かっているつもりだが、彼が、

「一つのことに夢中になれば、嫌になるまでする方であり、そのくせに、飽きるのも結構早い」

 というのも、分かっていた。

 だから、阿久津は、りえを抱く回数が極端に減った。

 どうも避けているような気がする。たまに愛し合うことがあっても、実にタンパクだ。単調というわけでもあるが、正直、やる気がないのだ。

「余計なことに体力を使いたくない」

 という思いがありありで、確かに、毎回同じ相手だと、阿久津であれば、飽きがくるのも当然のことだろう。

 しかも、結構な体力を使う。ただでさえ、毎日の通勤だけで結構大変なのに、その上、セックスもと思うと、

「今日は疲れているんだ」

 と言われてしまえば、どうすることもできないのは分かり切ったことだった。

 そう、思うと、一軒家がほしいから、遠くに引きこもっただけではないような気がしてくる。

「今日は疲れている」

 という言葉で、逃げようという気持ちがあるからではないかとも勘ぐってしまうくらいになると、りえも、そんなことを考えてしまう自分が嫌になったのだ。

 だからと言って、何も好き好んで、郊外に引きこもるというのも、無理があるような気がする。

 通勤は毎日なのだ。いつ、通勤のストレスが爆発するか分からない。それなのに、わざわざそれを押してまで遠くに行くというのも、どこか常軌を逸した考えに思えるのだった。

 だが、実際の阿久津は、それでも、毎日の営みが辛くなると思っていたのだ、

 そのせいで、少し、二人の間に一定の距離ができた。

 その距離は、実は適度なものであり、近くもなく遠くもなく、ちょうどいいものだった。

 放っておいても、次第にこの距離に近づくのは、誰にでも訪れることであり、そのために、阿久津は何かをしようという気にはならなかった。だから、一度のチャンスで、すべてを賄おうと考えた時、思い切って、家を郊外に買おうと考えたのだ。

 幸いにも、阿久津の勤めている会社は、結構な給料を払ってくれる。彼自身にも、

「手に職」

 を持っていることでもらえる額なのだが、そのおかげで、郊外とはいえ、小さな家くらいは変えるのであった。

 もちろん、りえに相談し、

「都心部で高い家賃を払い続けることを思えば、思い切って、郊外の住宅地の家を買った方がいいと思ってね」

 と言って、詳しい話を始めた。

 こういう時の阿久津は、結構考えていて、りえなら賛成するであろうというくらいの資料は前もって用意しておき、まるでプレゼンでもするかのように準備を整えているだけに、りえとしても、なかなか逆らい難いところにいるのだった。

 そこが阿久津のうまいところで、まるで、保険の資料のようなものを用意していた、さすがにここまでされると、その労力に対しての経緯と、彼の話術による説得力で、りえも賛成せざる負えなかったといってもいいだろう。

 家を買ったのは、漱石がまだ、三歳になっていたかどうか、引っ越してきてから、少し落ち着いて、アムロを飼い始めるようになったのだった。

 考えてみれば、りえが妊娠し、その間、阿久津が不倫をしていて、その不倫がバレたことで、離婚の危機があり、それを何とか乗り越えてから、漱石の育児問題などがあり、郊外に家を買うことにして、引っ越し後に、アムロを飼い始める……。

 たった、数年でこれだけのことがあったのだ。

 精神的にも、波乱万丈だといってもいい時期だった。

 阿久津本人もそうだが、翻弄されたという意味で、やはり一番きつかったのは、妻のりえだったかも知れない。

「夫が不倫している」

 ということが分かった時、りえは悩んでいた。

 確かに、自分が子供のことで気を取られてしまっている間、

「夫に寂しい思いをさせてしまうのではないか?」

 という気持ちにさせるのも分かっていた。

 だが、さすがに自分の知らないところで不倫をしているのは、許せないと思った。

 いや、

「知らないところでするのだったら、バレないようにしてくれればいいのに」

 と思ったのだ。

「知らぬが仏」

 というが、まさにその通りであり、どうせ不倫をするのなら、自分の知らないところで、自分が傷つかないようにしてくれれば、いいのだと思った。

 不倫をしていても、その素振りがないのなら、自分が疑うことはないと、りえは思っていて、

「だったらm最後まで騙し続けて、墓場まで持って行ってほしいものだわ」

 と感じた。

 阿久津の性格から、

「どうせ長続きはしない」

 と思った。

 それはあくまでも、阿久津の性格が、飽きっぽいからだということであって、まさか、その飽きっぽさが、自分にも降りかかってくることだとは思ってもみなかった。

 だが、考えてみれば、夫婦とはいえ、しょせんは他人なのだ。婚姻して夫婦になったというだけで、感情面や肉体面は、結婚していない女性と変わりはないのだ。

 むしろ、夫婦でない方が蟠りがない分、別れる時も難しくないだろうという思いでいたのかも知れない。

 しかし、情というのは移るもので、だからこそ、不倫をした男も女も別れる時に悩むのだ。

 別れの原因が配偶者にバレたということではなかったとして、配偶者が何も知らないのであれば、そのまま元の鞘に収まればいいだけであった。

 だが、実際にはそうもいかない。別れると決めたとしても、まだ不倫相手に未練が残っていることも結構ある。

「何をそんな勝手なことを言っているんだ」

 と、普通に考えればそう思うだろう。

 しかし、悩んでいる方からすれば、

「俺だって、まさかこんなふうになるなんて思ってもみなかったさ。何でこんなに俺が苦しまなければいけないんだ?」

 と、不倫をしたのは自分だということを棚に上げて、そう考えているのだった。

 やはり、情が移ったといってもいいだろう。

 愛する相手を見失ってしまっているのだ。本当は、元の鞘に収まることを望んでいるはずなのに、

「なぜ、不倫相手を忘れられないんだ? しかも、その身体に飽きが来ているはずなのに……」

 と考えてしまう。

 つまりは、感情と肉体とで、感じることが正反対になることが往々にしてあるんだということである。

 だからm不倫相手に別れを言い出した本人が、土壇場になって、別れることができないということもあったりする、

 それは心変わりではなく、逆に自分の本心に気づいたからではないだろうか。

 そのことを考えると、阿久津があおいとうまく別れられたのは、奇跡だったといえるかも知れない。

 後から考えれば、

「あおいの身体にそろそろ飽きが来ていたので、妻にバレたことを言い訳にして、うまくあおいと別れることができ、その潔さが、りえに好印象を与えたことで、離婚せずに済んだのだ」

 と、阿久津は思ったが、しばらくしてから、あおいを懐かしく感じることがあったりした。

「どうして今頃?」

 と感じたが、その気持ちが、彼女が与えてくれた優しさだったことに気づくと、阿久津は、

「人への思い、人から感じるものは、肉体面と精神面とで、必ずしも一致しているわけではないんだ。特に別れてしまうと、その慕情は、肉体面に比べて精神面では、かなりの差があるに違いない」

 と感じた。

 そういう意味で、その時になって、やっとああおいが、自分にとって、

「忘れられない思い出」

 になってしまったのだと、感じたのだった。

 その時は、本当の意味での、「別れ」だったに違いない。

 阿久津にとって、あおいというのは、ただの不倫相手ではなかったのだろう。

 かといって、最初は、執念深く、別れることを拒否していたあおいだが、彼女のそんな諦めきれないような態度に、それまでの気持ちが冷めてしまったと、阿久津は思った。だから簡単に諦めがついたのだが、そんな阿久津を見たあおいは、

「結局、これでもうダメなんだ」

 と感じてしまったのは、阿久津のオーラで諦めを感じてしまったからだろう。

 それまでの熱が一気に下がってしまい、もう完全に気持ちも萎えてしまった。

 まだ、身体だけが萎えてしまった阿久津に比べ、その時点で立場は完全に、逆転したのだった。

 阿久津がその時、あおいに対しての精神的な部分に気づいて、よりを戻そうとしても、無理だっただろう。

「どうしてなんだ? 君の方に未練があったはずなんじゃないか?」

 と言って、詰め寄ると、立場が逆転したことを悟ったあおいは、完全に立場的には強いもので、

「何言ってるのよ、最初にあなたが私から離れようとしたんじゃない。勝手なこと言わないでよ」

 と罵声を浴びるに違いない。

 しかし、男とは情けない人種で、それでも、

「あの女は私を愛しているんだ」

 と思って、再度、よりを戻そうと説得に掛かる。

 もうどうしようもない状況になりながら、それでも追いかけようとするのは、これほど醜いものはない。女の側に少しは残っていた感情も、そんな姿を見せられると、

「百年の恋も冷めてしまう」

 とはまさにこのことであった。

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