濡れた君が綺麗だった。

鉄 百合 (くろがね ゆり)

濡れた君が綺麗だった。

蝉がうるさい、8月の昼下がり。


「おい、癒音!お前、これから部活あんだろー?どこ行くんだよ?」


「いや、僕は今日部活休むから。とっととお前は部活行けよ、竜祐りゅうゆう。」


「あ、お前さてはさぼりだな!なんだよ、彼女か?彼女とデートか?」


「うっさいなあ、ほら、いったいった!」


なんてことない、夏休みの通学路でのワンシーン。でも僕には、暑い日差しも、竜祐の茶化した声も、どこか他人事のようだった。


当然と言えば当然だ。僕の世界は、「あの子」にあったあの日から、まるでモノトーンの映画のように色あせてしまった。それぐらい「あの子」は綺麗で、青かった。


今日はこれから、町はずれの防波堤まで自転車をこぐ。夏になるたび、僕は「あの子」を探しにあの防波堤に行くんだ。あの一瞬で、眼も心も奪われた、「あの子」に会えることを願って。


あれは、何年か前の、夏休みのとある日だった。


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「こら!宿題もやらないで、遊んでばっかりいて!早く宿題終わらせなさいって、何度言ったらわかるの、癒音!」


「うっさいなあ、知らねーよ。まだあと1か月もあるんだからいいだろ。ちょっと友達んち行ってくる。」


「あ、ちょ、待ちなさい!もう、ちゃんと夜ご飯の前には帰ってきなさいよ!」


母の声を背中に聞いて、僕は家を飛び出した。友達の家にはいかない。宿題から逃げるための口から出まかせだ。家の裏にいつも停めている、黒くてぼろい自転車をひっつかんで、当てもなくこぎだす。暑い日差しのなか、のろのろと適当に走った末、町はずれの海に着いた。特に目指したわけじゃない。ただなんとなく、海に来ていた。


僕は昔から、海が好きだった。とりわけ、雨の時の暗い海が。灰色に荒れ狂う波が、恐ろしくも美しいと思っていたのだろうか、そんなことはわからない。晴れて凪いだ青い海は、なんだか偽物のような気がして、僕と重ねてしまったから、なんとなく嫌いだったんだ。ただ、今日僕は悟ることになる。本当の海の色は、「あの子」の瞳だったんだと。


「さすがにあちーな。アイスでも買えばよかった。」


独り呟いてみるものの、アイス買うお金なんて持ってきてなかった。ため息をついて防波堤に腰を下ろす。靴の先に触れるか触れないかの水面がゆらゆらと揺れている。靴が濡れないように、足をちょっと浮かせて座った。もやもやした気分を晴らすようにコンクリの石を掴んで、海に投げ込んでみる。ちょっとしたストレス発散、特に何も狙っていないし、意味もなかった。


ただ偶然、「あの子」に会った。


「いたっ。もう、何すんのよ!」


僕がちょうど石を投げ込んだあたりの海面から、綺麗な女の子が顔を出した。顔に張り付いている髪は亜麻色あまいろ、前髪の間からのぞく片目はアクアマリンブルー、まるでハーフのような見た目の見たことのない女の子だ。


「え!ごめん、潜ってたの気づかなかった。怪我とか、ない?」


とっさに謝る。というか、女の子と話したのなんていつ以来だ?キラキラしてる女の子を避けて、もう何年もたっている。本当に久しぶりだ。すごく緊張してるせいで、声が震えてしまうのが情けない。


「いや別に、血とかは出てないよ。ごめん、びっくりさせて。」


ひとまず胸をなでおろす。驚いた拍子に濡らしてしまった靴先が少し水音をたてた。


しばらく、お互いに無言だった。女の子はただゆらゆらと漂うように浮いていて、僕はただ、海面に足をつけたりなんかして。


「ねえ、隣にあがっていい?」


女の子が唐突に言った。あまりに突然だったから、僕は深く考えもせずに頷いた。


「ありがと。ねえ、どうしてここにいるの?学生じゃない?青春しなくていいの?」


「そういう君だって、学生だろ?ここで泳いでていいのかよ。」


女の子の悪戯めいた笑みとともに告げられた質問に、少しむきになって答える。なんだかけなされるような、感じの悪さがあったから。僕のむっとした声にもかまわず、女の子はざぱっと海からあがった。綺麗な真っ白い肌が、日光を反射して眩しい。女の子は濡れそぼった髪をまとめて背中に流しながら、ぽつりとつぶやいた。


「できるんだから、やればいいのに。私は…」


その続きは波の音に紛れて、よく聞き取れなかった。聞き返すのもなんだかかっこ悪く感じて、僕は押し黙る。


「…ねえ、どうして海に来たの?陸にこそ、面白いものってたくさんあるでしょ?」


女の子がやっぱり唐突に、僕に尋ねる。質問内容に少々面喰らいながらも、僕はなるべく正直に答えた。この子に誤魔化しは効かない。そんな気がした。


「学校の宿題やれって、母親がうるさくて。それでなんとなく、海にきて。気晴らしで。いや、昔から海は好きなんだけど。」


なんだかしどろもどろになってしまった。ちょっと恥ずかしい。


「ふうん。海、好きなんだ。やっぱり陸の人はみんな、晴れの海が好きなの?真っ青にみえるらしいじゃん。すごくきれいな蒼だって。」


「そうだね、たしかに晴れの海が好きな人がほとんどだと思う。でも僕は、雨の時の海が一番好きかな。灰色のあの感じが、なんか綺麗だって思うから。」


「私と同じじゃん。私もね、雨の海が一番好きなの。雨の雫がこう、海面に落ちた時に波紋がたくさんできて。それが波の動きで揺らぐのが好きなの。初めてだな、雨の海が好きって人に会ったの。」


「僕も、君が初めてだよ。雨の海って荒れてるし。僕以外で好きな人がいるとは思わなかった。なんか嬉しい、かも。」


思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。嬉しい、なんてそんな、なんか。女の子の方も、ちょっと目を見開いていたけど、すぐに笑った。


「あはは!私も!共感してもらえるのってなんか、嬉しい!」


先ほどの悪戯めいた笑みとは違う、晴れやかですがすがしい、そんな笑顔。夏の日差しですっかり乾いたストレートヘアを潮風になびかせて、女の子はおかしそうに笑い続けた。暑さだろうか、少し赤くなった頬をあらわにして笑う女の子は、無邪気で綺麗で。僕は目を奪われたようにぼうっと女の子を見ていた。


日差しで煌めく青い海は、どうだってよかった。




それから僕らは、いろんなことを話した。主に話すのは僕だったけど。ここはどんな街だとか、学校はどんな風なのか、クラスメイトはいい人か。果てはお隣の家で飼っている、雑種の柴犬の九兵衛の話まで。なんてことない僕の日常を、女の子は目を輝かせて聞いていた。


「それでさ、君は?僕の話なんかもういいだろ。近所で見かけたこともないんだけど。なんでこんなところで、しかも一人で泳いでんのさ。」


女の子が、はっとしたように僕を見る。僕が小首を傾げると、女の子は少し視線を泳がせながらしどろもどろに話した。


「え、えっと。お父さんの仕事で引っ越してきたの。そう、それで秋からそっちの学校で。そ、そうなの!それで、どんな感じかなって気になってて。」


「あ、そうだったんだ。じゃあ秋からよろしく。僕は癒音。君は?」


なんだか慌てたような大きな手ぶりで、事情を話す女の子。まあ急に聞かれたらそりゃ慌てもするか。そこは特に気にせず、自己紹介をする。当然、名前くらいは教えてもらえるかと思って。


「え、私?わたしはね…ひ、み、つ!ふふ、秋まで楽しみにしててよ。」


「なんだよ、気になるじゃないか。」


「まあまあ、ほら、楽しんだもの勝ちだよ。待った方が聞きたくなるでしょ?」


「ま、そりゃそうだけどさ。」


秘密にされて、流されてしまった。ちえ、ちょっと気になってたのに。


「その代わりに、私が知ってる話、してあげるよ。じゃあね、ホタテとかって実は泳げるんだよ!貝殻を開いたり閉じたりして、そこから水を出して。ジェット噴射みたいに勢いつけた水で泳ぐの。」


「そうなの!?僕もホタテは食べるけど、そんなの知らなかったな。」


女の子が話すのは、海の話ばかりだった。でも、知らないことにあふれていてすごく面白い。きっと物知りなクラスメイトもここまでは知らないだろう。


秋に女の子が登校してくるのが楽しみになった。





夢中で話していると、あっという間に海が橙色に照らされ始める。オレンジ色の大きな太陽が、水平線にどんどん近づく。水平線と太陽が溶けあって、空も海も茜色に染まっていく。夕暮れが訪れていた。


「ねえ、知ってる?」


「何が?」


「こう、水平線と平行に指をさ。横にしてみて。」


「こう?」


「そうそう。今はさ、太陽と水平線の間が指が4本分くらいじゃん?指一本の幅で、だいたい15分なの、日が沈むまで。だから、今は日の入りまであと一時間。」


「へえ、よく知ってるね。海に何回も来てるけど、おばあちゃんだってそんなの知らなかったよ。君はほんとに、海のことが好きみたいだ。」


「まあ、ずっと海の近くに住んでたから。」


「そうなんだ。まあここで泳ぐくらいだから、相当泳いでないと無理だよね。」


ここの海は波も高くなりやすくて、雨の日なんかは特に海が大荒れになることがほとんどだ。そんな海で、たった一人で泳いでいるなんてよほど上手く泳げる証拠。転校してきたら、入るのはきっと水泳部かな。


「…ずっと泳いでいたから。」


どこか寂しそうに答えた女の子。僕は何を言えばいいかわからなくなって、気まずい空気が二人の間を満たす。しけた空気を変えるように、僕は勢いをつけて立ち上がった。この作戦ならきっと、成功するはずだ。


「ねえ、勝負しない?」


「勝負?」


「そう。今から僕が向こうの端まで走るのと、海を君が泳ぐの、どっちが速いか。僕が速かったら、秋を待たずに君の名前を聞く。僕が負けたら…そうだな、君のお願いを何でも一つ聞いてあげるよ。」


防波堤の端から端までは約500メートル。僕は運動ができるわけじゃないけど、女の子が泳ぐ速さに負けるわけない。僕はそう考えていた。要するに、このゲームは僕の勝ちが決まってる。僕は秋を待たずに、女の子の名前を聞き出すつもりだった。


「じゃあ準備はいい?よーい…ドン!」


僕の合図とともに、女の子の頭が水面へと消える。見えなくなる。僕も思い切り走った。地味に上り坂になっている防波堤は、かなり足がきつい。すぐに息があがり、半開きの唇から荒い吐息が漏れる。


もうそろそろ、端っこ。息を切らしながら速度を緩めて、女の子がどこにいるか見ようと、振り返ろうとした。僕の方が絶対に早い。いくら上手くったって、僕が勝ってる。そう思っていた。


その時だった。


ざぱっっっっ!


「はあ…」


大きく吐き出された息の音ともに、僕のわずか先、防波堤の端を少し過ぎた海面から何かが飛び出す。


それは、人の頭だった。


亜麻色の髪が、夕日に照らされて光っている。空中を舞う水滴が、光を反射してキラキラ輝く。勢いの付いた濡れた髪が、宙に弧を描く。


そして何より。見開かれた目が。アクアマリン色だった綺麗な瞳。あの瞳が。


深い、ふかい、ウルトラマリン色に染まっていた。


それは、あの女の子だった。


アレキサンドライトのように、色変わりの瞳を持った、美しくて秘密の多い、少女。


ウルトラマリンの瞳をきらめかせ、「あの子」は言った。いや、こいねがった。


「ねえ、私の勝ち!ねえ、私が勝ったら!なんでも一つ、お願いしていいんでしょ!だったらさ!…私を、ぜったい、忘れないで!ぜったい、ぜったい!覚えてて!」


そう言って、もう一度海に潜っていった。静かな水音とともに、海の下へと消えてしまった。僕の返事も聞かずに、焦がれるような余韻だけを残して。そしてもう、2度と上がってこなかった。


僕は余韻にしびれたように動けなくなっていた。ただ息をつめて、女の子に魅入っていた。そのくらい、女の子は綺麗だったんだ。


動けないまま、僕は女の子が水面の下に消えていくのを見ていた。女の子はあっという間に遠くの方まで行って、一度だけ海面に上がってきたけれど、そのあとはそのまま夕日に溶けるように姿を消した。


僕はあわてて海に駆け寄り、防波堤が許す限り、海に近づき海をのぞき込んだ。


逢魔が時の凪いだ海。「あの子」が残した小さな波紋一つ以外に、「あの子」の痕跡は何もなかった。透き通った海のどこにも、あの亜麻色も、ウルトラマリンもなかった。ただいつも通りの、幼いころから知っている海がそこにはあった。


僕は女の子が去った方向を見た。太平洋へとつづく、水平線を睨みつけた。直後、夕日が水平線の向こうに消えた。


真っ黒になった海の1か所に、一対のウルトラマリンが、輝いた気がした。


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あの夏の日、女の子に心を奪われたのと同じ時間帯に、僕は海を眺めていた。大海原をいくら眺めても、あの日のようなウルトラマリンは、今日も現れなかった。


結局あの年の秋、転校生は来なかった。


亜麻色の髪の、色変わりの瞳を持つ美しい少女は、町のどこにもいなかった。それどころか、引っ越してきた一家さえいなかった。


何も変わらない、飽き飽きするほど平凡な年だった。


あの時から僕は忘れていない。いや、忘れられないんだ。


あの希う視線、振り返ってこちらを見た、「あの子」のウルトラマリン色。


忘れられるわけ、ないじゃないか。あんな、あんな、僕に、縋るような。


ぎゅっと心が絞られたように、涙が頬をつたう。


夕日が目に染みたんだ。きっとそうだ。


「お。癒音!何してんだよ、海なんか見て。それよりさ、っておい!何?どしたん?泣いて…え?何あったんだよ、マジで?」


「あ、竜祐…い、いや泣いてねーよ!ちょ、ちょっと夕日が眩しくて、目に染みたんだよ!そんだけ!」


「え?なんだよ漫画みたいな言い訳して。海に感化されたのかよ。厨二くせぇ。お前に限って絶対ねえじゃん。なんかあっただろ、話してみろって。」


今日2回目のご対面、竜祐は僕の腐れ縁だ。こんな風によく絡んでくるが、気の置けないいいやつである。


「いや、まじで白昼夢みたいな話でさ。きっとお前でも信じねえよ。」


「そんなの話してみなきゃわかんねえだろ?話すだけ話してみろよ、俺口の堅さには定評あるんだぜ?」


「なに言ってんだこの噂好き。」


「くっそばれてたか。」


竜祐は舌をわざとらしく出した顔でおどけつつ、俺の隣に座り込んだ。これはもう逃げられない。僕はずっと隠していた、「あの子」のことを話した。




「ふんふん、なあるほどお。いやーいいね、甘酸っぱくて!ひと夏の恋!要するに癒音ちゃん、恋しちゃったわけね、その子にさ。」


「なっ、お前さあ。…そんなはっきり言うなよ、照れるじゃん。」


「いやこっちまでハズイから照れるなよ。たださ、お前それ、どうすんだよ。」


「どうするって?」


「だからさ。お前、そのあとその子に会えてないんだろ?もう何年もたってるし、お前なんてもう忘れてるかもよってこと。」


「そ、そんなこと言うなよ。そんなことあれば、ショック受ける自信しかないし。」


「おー…なんかごめんな。あ、そうだ。お前に会いに来た理由思い出した。最近海に妙な噂があるんだ。」


「妙な噂?」


「そう。綺麗な人魚がいるって噂。夜になると防波堤で歌ってるんだってさ。カゴメの歌の同じとこばっかり。しかも髪が亜麻色で、声がこの世の物じゃないくらい綺麗だって。吸い込まれそうになって、実際海に落ちたやつもいるとか。」


「髪が、亜麻色…」


「お前、毎年夏は海に入りびたりだろ?だから気をつけろよって。」


「あ、ああ。ありがとな、わざわざ。」


「よせよ、気にすんなって。俺の絵を描く趣味、笑わないで認めてくれたのお前だけなんだからよ。俺はお前のこと、結構好きなんだぜ?」


「くっついてくるなよ暑苦しい!」


そんなくだらない会話をして、海でそのまま小一時間を過ごした。


帰りに自転車をこぎながら、僕は思う。


「そういえば、夜には一度も、海に行ったことないな…」


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その日の夜。自宅にて。


僕は転寝をしていた。夏だとクーラーのない僕の部屋は暑くて、寝ているのが一番心地よかった。


いつもの転寝だった。僕は夢を見た。


あの子がいた防波堤。波が寄せては返す独特の音が響く。僕は誰かと一緒に居た。隣り合って座り、笑いあって何かを話している。見下ろした自分の手はなんだかひどく小さくて、まるで幼いころに戻ったかのようだった。


僕と誰かは、ただ話すだけでは終わらなかった。互いの耳元で何かを囁きあっては、くすくすと声を潜めて笑う。いっぱしに何か企んでいるようだ。


そのうち、僕と誰かは立ち上がった。そして防波堤の端ぎりぎりまで海による。僕たちは相変わらず、何かを企むように笑いながら楽しそうに過ごしている。


ダメだ。頭の中で警報が鳴った。響くサイレン、悲鳴、泣き声、波の音。


断片的に響いては消えてゆく、数々の音。それらから逃げるように、夢の中で僕は両耳をぎゅっと握りこんだ。ついでに固く目を閉じる。


耳の外で鳴り響いていた不協和音がふっと途切れた。恐る恐る目を開けると、海も防波堤も、もうどこにもなかった。視界は、白一色の何もない空間を映していた。


地面かもわからない真っ白を踏みしめ、僕はただ前に進む。その先に何があるか、知っているかのように。


どれほど歩いただろうか、突如、白ではない色があたりを満たした。


それは、青だった。目の覚めるような、ウルトラマリン色。


視界が真っ青になると同時に、僕は口から泡を吐いた。そして気づく。僕は海の中にいた。真っ青な、底も見えない深い海に。背中から海底に向かって僕は倒れこんだ。


僕は不思議と、暴れることも藻掻くこともしなかった。自然に、呼吸するかのようにただふわふわと落ちていく。耳鳴りのように、誰かの声に似た音が響く。


意識を研ぎ澄ませて、響く声に耳を傾ける。音だった声は次第に言葉を紡ぎ始めた。


『忘れないで、僕はいつだって、君とともに。』


誰かの柔らかな声はそう言っていた。さっきまで一緒にいた誰かと同じ人物だろう。僕は口からもう一つ泡の雫をこぼした。そして口を開く。


「うん、今だって、覚えてるさ。だって僕は、○○を忘れないために…」


夢は途切れた。ベッドの上で、僕は息苦しいほどの暑さで目を覚ましてしまった。


「僕は、僕だ。僕は…」


なんだか自分に言い聞かせているみたいだ。そう思いながら、机の上を見た。


僕の机の上では、両親が買ってくれたファンシーな小物や持ち物がきちんと片付いていた。かわいらしくて、女の子なら誰もが欲しがるようなそれらは、本当は僕の趣味ではなかった。僕は女の子だ。そう何度も自分に言い聞かせるのに、心がそれを拒むように、僕は僕のままだった。気持ち悪さで、吐き気がした。何故「僕」なのか。何故拒んでしまうのか。「僕」であることを拒むように、僕は吐き気を抑えて「私」になった。


がばっとベッドから起き上がる。僕は自分が嫌いだった。誰にも反抗できない。取り繕って、ただ笑うしかできない。許されるところで、こそこそと、いけないことのように声を潜めて「僕」になるだけ。そうやって今まで逃げてきた。拒絶して、抑え込んで、わすれようと努めて。


それでも、「あの子」のことだけは、逃げたくなかった。だから、今まで何年も何年も「あの子」を探した。あの綺麗な、僕が探し求めた、好きになりたかった本当の海の色。ただ、美しかった「あの子」が、好きになったから。


ベッドから起き上がる。僕はもう一度、海に行くことにした。夜の海になら、あの子がいるかもしれない。夕方、そう思ったんだ。


こっそりとドアを開け閉めして、息を殺して玄関の外へ出る。いつも家の裏に止めている黒のぼろい自転車をひっつかみ、僕は初めて、夜の海へ行った。


「やっぱり、いないか。」


独り、息を切らして呟いた。真っ黒で、一寸先も見えない闇をたたえて、波の形にうごめく海。波の音だけで、かろうじて海だとわかる。そんな海は、恐ろしくも美しい海だった。僕はいつかの防波堤に座り、また海を眺めた。家には帰りたくなかった。息が詰まるような、あの僕を拒絶できない家には。


「かーごめ、かーごめ、かーごの、なーかの、とーりいは」


歌が聞こえた。美しい、この世の物とはおもえない、セイレーンのような歌声。


「かーごめ、かーごめ…」


何度も同じ個所をループしている歌声に、僕は思わず続きを口ずさんだ。


「いーつ、いーつ、でーやあるー」


「あ、この歌、そんな続きなんだ。子供が歌ってるの聞いたの、だいぶ昔だから、忘れちゃった。…あれ、会ったこと、あるよね?」


「あ…君は…」


うまく言えずに、声が掠れる。いつかの時と同じように、海面から顔を出す「あの子」がそこにいた。


「あ、癒音ちゃん?相変わらずだね、僕って言うの。」


「だって僕は僕だから。ねえ、君の名前…聞かせてくれるんじゃなかったの?」


「あ、そっか。もう嘘ばれちゃってるんだ。でもね、やっぱりい、言わなあい。」


「なんだよ、ケチだな。」


思わず顔が綻ぶ。ああ、変わらない。そう、この、煙にまくような感じも。ウルトラマリンに輝く瞳も。


「あーあ、私のこと、もしかしてばれちゃってる?もう、死んでるって。」


死んでる?どういうことだ?疑問符を浮かべる脳みそと反対に、僕の口は自然と答えを紡いだ。自分の声が、他人の物のように聞こえた。


「うん、知ってる。それでも僕は…」


「あ、いいよいいよ。もう、知ってるんなら。」


私ね、と彼女はつづけた。


「本当は、死んで終わりなハズだったの。でもね、こう思った。『まだ死ねない。まだ何も…何もできてない。』って。その時に、なんていえばいいんだろう。体がね、変わったの。同時に理解した。日が昇れば人間、日が沈めば人魚。私がそう願ったからだと思う。私はそういうふうになった。だからほら、ね?」


その子はそう言って、ざぱりと海面から何かを出した。


それは、魚の半分だった。ただし、サイズが人間サイズの半分。


「こんな風になっちゃうなら、海からは離れられないの。わかる?だから、せっかくの偽物の人生だって独りぼっち。私は、ずっとずっと、生きてる時から一人だった、今も変わらないけど。でも、今も昔も変わらずに私の傍にいてくれるのは、癒音だけだね。」


寂しそうに女の子は笑った。綺麗なウルトラマリンが、水面のように揺らいだ。


「だから嬉しかったの。久しぶりに癒音と話せてさ。この姿になってからは初めてだったの、あんなに楽しく色々話せて、笑って。」


「そっか。僕もね、初めてだった。僕のこと、なにも聞かないでくれた人。」


僕はただ、思ったことを言葉にする。うまく言えなくて、僕自身だって苛々する。それでも、言わなくちゃ。だって、この数年間君を探したのは。


「ごめん、変かもしれないけど、僕は、君が、好きで、それで、ずっとあの日から、君を、探してた。」


「…」


「ごめん、やっぱ忘れて。聞き間違いだと思って。」


「…嬉しい。」


「え?」


「嬉しい!私、誰にも!言ってもらえなかった。見向きもされずに、影でいろいろ言われて、気持ち悪いって。そんなの嫌だった。でも、言葉も知らなくて、何も言えないまま、こんな体になってしまって。それでもあきらめきれなかったの。誰かに愛されたい、私だって、他の人と同じように…!」


ぼろぼろと泣きながら女の子は笑った。透明な雫が、ウルトラマリンに染まって海に落ちていく。僕も思わず、泣きながら叫んだ。


「僕だって、誰にも言えなかった。僕って自分を呼びたいのに、僕自身が僕を拒絶すること。本当の僕がわからないこと。嘘の『私』が愛されることも、本当は嫌で。でも、君は何も言わずに、ただ僕だけを見てくれて。そんなのは君が初めてで、だからほんとに、僕もっ…!」


女の子は嬉しそうに笑った。今までで一番、綺麗でかわいい笑顔だった。僕も笑う。情けないことに、涙は止まらなかったけど。そのまま、女の子と見つめあった。ボクを見上げる女の子は、すごくかわいい。思わず手を伸ばしかけたけど、到底届かないその距離に、あきらめたように手を下ろす。


「ねえ、少しだけ、こっちに来ない?」


女の子が海へと僕を手招いた。僕が手を伸ばしたの、ばれていたのかな。僕は言われるままに、服のまま海に飛び込んだ。冷たくて、体温を奪っていく海が心地よかったし、隣を見れば女の子がいた。それがすごくうれしかった。


同時に頭の中で鳴り響く悲鳴は、無視していた。


「ほんとに、ありがと。私を好きになってくれて。私ね、誰かに愛されるのが夢だったの。ずっと海の中で、夢見てた。私が普通に誰かに愛される夢。夢見るたびに、叶わないってあきらめて。でもね、いま、叶った。だからね、ありがとう。」


「僕だって、一生わかってもらえないって思ってたから。叶わないってあきらめてたし、もういいやって思ってた。嘘でいい、ほんとの自分なんてこっそり隠しちゃえばいいよねって。わからなくたって、しかたない、どうでもいいって。でも君のおかげで、もう少し足掻いてみようと思えた。…ありがとう。」


そっと手を伸ばすと、女の子の頬に触れられた。女の子が、そっと僕の手に両手を添える。海と同じ温度の女の子は、幸せそうに笑っていた。そのまま、僕たちは暫く何も言わなかった。


「僕、君じゃなくて名前で呼びたい。どんな名前だったの?」


ふと気になって、女の子に聞いた。おあずけをくらっていた名前が気になっていた。

せっかく恋人になることだってできたし、いつまでも「君」と呼ぶのはすこし嫌だった。


「私ね、名前が無いの。みんな私を呼んだりしなかったから、忘れちゃってて。ごめんね、浮かれちゃった。私、呼んでもらえるような名前すらないのに。」


少し顔を伏せて女の子は言う。そんな、名前すらないなんて。そんなのあんまりだ。僕は悲しそうな、淋しそうな女の子をじっと見つめた。なにか、僕ができることを考えた。慰める?励ます?話を逸らす?いいや、そんなのはだめだ。そんなのじゃ女の子が本当に笑えることなんてない。だったら…


「ねえ、プレゼントがあるんだけど。」


「プレゼント?なあに?私にくれるの?」


「うん、僕が君に今あげられるプレゼント。僕が、君に、名前をあげる。」


女の子が息を呑んだ。これしか思いつかなかったんだ。今僕ができること、女の子が喜べること。やっぱり嫌かな、言った後で今更ながらに、少し怖くなる。


「名前…名前が、プレゼント?どんな名前?私、癒音のくれる名前だったら、なんでもいい!うれしいなあ。」


よかった。女の子は笑っている。ふにゃふにゃ、溶けたような幸せそうな笑顔。


「どんな名前にしようか?」


「私、癒音の名前から一文字欲しいな。癒音からもらう、大事な名前だから。」


「そっか。僕から一文字…いいよ。うん、考えるから少し待ってね。」


「うん!」


僕は頭をフル回転させて考えた。隣で楽しそうに笑う女の子に似合う、僕から一文字とった名前か…。いやこれ、結構難しいな!?「癒」の字は「ゆ」としか読みようがない…。これだとなかなか難しいや。とるのは「音」にしよう。名前に願いをこめようかな。いつまでも笑っていて、とか?でも「笑」の字、名前にするにはちょっとな…あ、幸せになってほしい、ってことで「幸」はいいんじゃないか?


「決まったよ。」


僕は意を決してつづけた。気に入ってくれるかな、心臓の鼓動が早くなる。


「君は僕に幸せをくれた、僕も君には幸せになってほしい。それに、君の声はすごくきれいな響きだよね。笑う時の声音も、僕はすごく好き。聞いてると幸せな気もちになる。だから、幸せの音、と書いて『幸音しおん』…どう?」


「…幸音、うん、好き!私は今から、幸音。ありがとう!大事にするね!」


女の子が笑った。いいや、今はもう幸音だ。よかった、嬉しそうだ。二人で向き合ったまま笑いあっていると、幸音が突然水平線の方を振り仰いだ。


「どうしたの?なにかあった?」


「ううん。でも、もうすぐ夜明けなの。私、行かなきゃ。またね!」


「えっ?ま、待ってよ。」


踵を返して水平線の方へ行こうとする幸音の手を思わず掴んだ。とっさのことで、伸ばした手にぎゅっと力がこもる。海面がパシャリと音をたてた。


「は、離してよ!やめて!私、行かなきゃいけないの、だから!」


ぶんぶんと掴まれた腕を振る幸音。僕はその剣幕に驚いて、手をパッと離した。


直後、真っ赤に燃えるような色の太陽が、海面から顔を出す。


「ああ、間に合わなかった…」


朝日に照らされ、幸音は絶望した表情でぽつりと零した。そのままぽろぽろと泣き出す。僕は訳が分からず、混乱したまま何もできないでいた。いや、本当は知っていた。嗚呼、なんとなくうすぼんやりと、脳裏に誰かが浮かんでくる。


「ね、ねえ、どういうこと?間に合わなかったって…何が?」


恐る恐る尋ねる。いや、本当はごまかしたいだけだった。「人魚」。その言葉になんとなく、嫌な予感がする。幸音は泣きながら振り返り、叫んだ。


「私、見られちゃいけないの!一日に二回、体が変わるところを!見せちゃったら、見られちゃったら、私は…消えるしかないの…」


「う、嘘だよね?冗談だよね?そんなことあるわけ…」


「嘘じゃないの!ほら、見てよ!」


そう言って幸音は海の中から手を出した。差し出された手は、指が根元まで透けていた。指だけじゃない。幸音の躰が、端の方からだんだんと透けて行っている。


それだけでは終わらない。幸音の周りの海面だけが、ソーダのように泡立っている。溶けてるの?人間が?冗談だよね?


「ごめん、ごめんね、言えなくて。言ったら馬鹿にされる気がして、疑われちゃうかもって怖くて、言えなくて。でも癒音ならそんなことしないよね、わかってたのに…意気地なしだなあ、私。ちゃんと言えばよかった…ごめん、癒音は悪くないのに。また、おんなじことの繰り返しだ…」


さっきからぽろぽろと泣き続けている幸音は涙声のまま言った。僕は何も言えず、涙も流せずに、ただ黙って幸音の頬に手を添える。すっかり透けてしまった両手が、僕の手にそっと重ねられる。


「ごめんね、僕が引き止めなければ…こんなことにはならなかったのに。僕が悪いんだ。ごめん、ほんと、どれだけ謝っても足りない…また、引き止めてしまった。」


やっと絞り出した謝罪の言葉は、波の音に掻き消されるくらい弱弱しくて、ひどく薄っぺらく聞こえた。


「ううん、いいよ…夢も叶った、好きな人がいて、恋も実って…大丈夫、私は今だって幸せだもん。だから、大丈夫、今消えちゃっても…大丈夫。でも、もっと、癒音と一緒に居たかったなあ…」


「ほんと、ごめん…」


僕は謝る以外、何もできなかった。本当に何も言えなくて、溶けていく幸音をただ黙って見つめていた。しゅわしゅわと爽やかな泡の音をさせながら溶けていく幸音をみて、童話の人魚姫もこんな風に溶けたのかな、なんて現実逃避をして。


どのくらい時間がたったのだろう。太陽が完全に海面から出てきた。その頃合いには幸音はもう、顔だけがうっすらと見えるくらいにまで溶けていた。


「ねえ、癒音。私と初めて会った日にした約束、覚えてる?」


不意に幸音が言う。


「うん、覚えてるよ、もちろん。忘れるはずないだろ。あんなの一生、忘れられないに決まってるじゃないか。」


忘れられないくらい、幸音、君は綺麗だ。


「そっか、よかった。あのね、これから私が全部泡になるでしょ?そうするとね、私はみんなに忘れられちゃうの。記憶も何もかも綺麗さっぱり、最初からいなかったみたいに私は消えるの。偽物だから。だから、癒音。私を忘れても、忘れないで。」


「うん、うん。絶対、どれだけ記憶になくたって、きっと忘れない。」


忘れたくない、忘れられない、だから。消えたり、しないでよ…!あの時みたいに、僕の前からいなくならないで!


「ふふ、支離滅裂だし、私自身何言ってるかよくわかんないけど。それでも、覚えててくれるって、言ってくれて、ありがとう。…さよなら、癒音。」


その言葉を最後に、幸音は本当に溶けてしまった。本当に、掻き消えるようにいなくなってしまった。幸音がいた場所には、ただ朝焼けに染まった波が揺らめいていた。


誰もいない、何もない、痕跡もない、ただの紅い海がそこにはあった。


幸音がいた時にはこぼれなかった涙が、一つずつ海へと溶けていく。


せっかく、叶った初恋だった。あんなに綺麗で、可愛い子で、夢中で追いかけて。


人魚姫のように綺麗な歌声、もっと聞きたかった。お願いしたら、聞かせてくれたかな。あの笑い声だって、澄んだ水が落ちるようなあの綺麗さが好きだった。もっと聞きたかった、隣にいてほしかった。


あの時のようなこと、繰り返さないって、決めていたのに。


あの時って、いつなんだよ。思い返そうにも、記憶はなかった。


僕はずっと幸音へと伸ばしていた手を力なく下ろした。


カツッ!


「なんだ?なんか手にあたって…」


幸音がいた場所にあったナニカが、手にあたったようだった。固いそれを、波間から摘まみ上げてみる。


「綺麗…幸音の、眼の、色…」


そこにあったのは、まん丸い青い透明な石だった。まるで海のように輝く、美しいウルトラマリン色。その色は幸音の瞳の色と同じだった。


「忘れない、絶対に。」


僕は石を握りしめ、呟いた。もう消えてしまった美しいあの子を、いつでも思い出せるように。もう会えないあの子との記憶が、消えてしまわないうちに。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その日の夜。


ああ、そうか。思い出したよ、幸音。


君は、あの時の、海に落ちてしまった子だったんだね。君は、汐音しおんは。


幼いころ。僕は汐音とよく防波堤で遊んでいた。それであの春の日も、大人たちの目を盗んで、防波堤に行ったんだ。


僕たちはそれまで、海に入ったことはなかった。防波堤から海をのぞき込んで、届かない海面に短い腕を伸ばすだけ。それだけしかできなかった。


だけどあの日、汐音が防波堤のとある場所で、見つけたんだ。


波の浸食作用で崩れた、大人では通れない、海への隙間を。


僕たちは大興奮だった、あの穴を通れば、海に行けるんじゃないか。煌めく綺麗な青い海に、触れられるんじゃないか。


そう思って、早速僕たちは穴に入った。汐音が先に入って、僕は後に続いた。海に入ったら何をしようか、そんな他愛もないことを話しながら。


僕たちが入った海は、氷のように冷たかった。日が落ちかけていて、夕昏色の海の中は、冷え切っていたんだ。幼い僕たちはもちろん、そんなこと気にしなかった。


自分たちの体の温度も忘れるくらい、僕たちは夢中で海の中にいた。二人で抱き合うように海の中にもぐったり、海底に目を凝らしてみたり。ああ、その時に夢で見たように、綺麗な青い海を頭上に見ていたんだ。


気づいたころには、もう遅かった。


日が沈んで、「青」の魔法がとけてしまった黒い海。すでに二時間は海に使っていた僕たちは、寒さに凍えることしかできなかった。


濡れた躰では滑ってしまって、穴を通ってうまく防波堤に帰ることはできなかった。そのうち、汐音は眠るように目を閉じた。


汐音の躰は、とうに冷え切ってしまっていた。


結局大人たちが海へと来たのは、汐音が眠ってから数時間後のことだった。僕はただ泣きながら汐音の躰を抱えていた。どんどん冷たくなって、海と同じ温度になってしまった汐音が、もう目を覚まさないと心のどこかでわかっていた。


僕は助かった。汐音より遅く海に入ったおかげで。僕はそのことを、ずっと後悔していたんだ。


僕が先に入っていれば、汐音は死ななかったかもしれない。


そればかり思って、汐音を想ってうなされた。僕の躰も冷え切っていて、僕は海から上がった後、すぐに高熱で寝込んだ。


きっとその時に忘れてしまったんだ。ただ、心の奥底ではずっと覚えていた。忘れられない、絶対に。海に入ったら何をする?って聞いた時、汐音はこういったんだ。


「私、人魚姫みたいになりたい!」


って。それでその時僕は、汐音に対抗するように。


「じゃあ私は、汐音の王子様になる!」


って言ったんだっけ。そして汐音に、王子様なら私じゃなくて僕って言わなきゃ、と言われて、僕は僕になったんだ。そのあと、きっと僕のせいで汐音は死んだ。


一度汐音が、寒いって言ったんだ。日が暮れる前の、まだ海が青かった時分に。


その時に僕は、なんて言っただろう?


「大丈夫だよ汐音、まだ遊べるよ。それに、帰ったらまた、汐音は淋しいだけでしょう?だったら私…いや僕と、もう少しここで、『人魚姫』のままでいれば?」


「そう、だね。私もまだ、人魚姫のままがいい。…癒音、ありがとう。」


「ううん、別に。ほら、手を出してよお姫様。」


かっこつけてそんなことを言ったっけ。その当時、髪色が両親と違うせいで何かと冷ややかな視線を受けていた汐音は、僕とばかり一緒にいた。汐音の両親すら、汐音の髪色のことで争っていた。それで僕たちは居心地の悪さから逃げるように、海に遊びに行ったんだ。


汐音は誰よりも綺麗な子だった。そして誰より独りぼっちな子。いっそ孤高とすら言えるその姿は、平凡な僕には眩しく見えた。


海の中でも、それは同じ。人魚姫のように、海の中で髪をなびかせた汐音はまるで童話の中のお姫様にふさわしかった。


僕は汐音を想う。


海の中で、水の中で死んでしまった汐音は、最後まで人魚姫のようだった。美しくて孤高で、一人ぼっちで。真っ暗な透明な海の中で、眠るように微笑んでいた。


ねえ、汐音。僕は君の、王子様になれたかな?


汐音、ごめんね。また、僕のせいで汐音は死んでしまった。また、海の中で。


でも、僕はきっとおかしいんだ。僕のせいで、二回も汐音は死んだのに。僕が全部いけないのに。どうしてこんなことをおもってしまうんだろう?


いや、本当はわかってる。だってあの時の、冷え切って死んだ幼い汐音も。今日、泡となって人魚姫のように死んでしまった少女の幸音も。


海の中で濡れたまま、死んでいった君が。


この世の何より美しいって、綺麗だって、思ってるんだ。


僕はきっと、明日も明後日も君を思い出すだろう。濡れそぼって、頬に水滴を散らして、涙かもわからない水を飲み下して切なげに微笑んだ君が。


「本当に、この世の何よりも、綺麗だったんだ。」


今では小さなビンの中で、波間の中で揺蕩うように揺れている青い瞳のような宝石に僕はそっと囁いた。















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濡れた君が綺麗だった。 鉄 百合 (くろがね ゆり) @utu-tyu

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