Act.6-2
廊下の先に、スーツ姿の、私たちより一回りほど年上だろう男性がいた。燈韻暉に向かって、
「彼が、この船を操縦してくれたんだよ。以前、僕が資金援助をさせてもらった、化学工場の社長の子息の方なんだ」
教団の幹部の邸で使った毒ガスは彼の工場で作ってもらったものだよ、と燈韻暉は小さく笑った。
「助けてくださらなければ、倒産していました……真に、私の救世主様です」
揺れますから、お気をつけて……そう言って、男の人は静かに扉を開ける。
黎明の光が、朝霧に包まれた無人の桟橋を淡く照らしていた。
「……駄目」
外へと踏み出そうとした燈韻暉を、私は止めた。
「降りたら……撃たれる」
「……姉さん……?」
燈韻暉が振り返る。私は顔を伏せた。扉が開いた瞬間に気づいただけでも、銃口は三つ。桟橋の陰に一人。納屋の後ろに一人。そして……その先の灯台に、ルイ。
ルイ……無事で良かった……でも…………。
「……そんな……」
船を操縦していた男の人が、愕然と呟く。……これが、第九機関だ。一度は出し抜けても、必ず追いつかれる。追い詰められる。絶対に
「ひとつ先の港まで進みますか?」
「いや、ここまで先回りされていたんだ。この先に取れる
燈韻暉は冷静に、淡々と答えた。そして静かに、男の人に告げる。
「プランXだ。……貴方は武器を置いて、彼らに保護を求めて」
「っ、それは……」
「最初に言っただろう。貴方は、僕が脅して連れてきて、無理やり船を操縦させたことになっている。いわば人質で、被害者だ。彼らの目には、貴方が自力で僕から逃げ出したか、僕が貴方を解放したように映る。貴方は殺されない。殺させない」
「……救世主様……」
「いいよ、もう、その呼び名は……ここまで協力してくれて、ありがとう」
武器を、と燈韻暉は手を差し出した。男の人は
そろそろと、彼は桟橋を歩いていった。彼の背中が朝霧の中へと消える。銃声は最後まで聞こえなかった。
「姉さん」
燈韻暉が再び私に向き直る。私に銃を差し出して、
「救ってくれる? 姉さん」
「燈韻暉……」
「救って」
淡く、静かに、微笑んで。
「……助けて、じゃ、ないの……?」
声が滲む。指先が震える。
燈韻暉は微笑んだまま、私を待っている。
銃を取る。両手で握り、銃口を、燈韻暉に向ける。
セーフティを外し、トリガに指をかける。
波の音が流れていく。
刹那なのに、永劫とも思える時間。
指は動かなかった。
撃てなかった。
私に、燈韻暉は――
「姉さん」
燈韻暉が、一歩、私へと歩む。
銃口が、燈韻暉の胸に触れる。
「ごめんね、姉さん」
銃ごと、私の手を、そっと包んで。
「姉さんを、試すようなことをして……やっぱり姉さんは、姉さんのままだね……嬉しいよ」
私の手から、銃を取る。
静かに私を抱き上げて。
船室へと、歩いていく。
私のいた部屋。
白薔薇の花弁を敷き詰めたベッドに、再び私を下ろして。
右手に銃を握ったまま、キャビネットの上に左手を伸ばす。
子どもの両手にちょうど乗せられるくらいの大きさの、回転木馬のオルゴール。
色褪せたパステルカラーの木馬たちが、あどけない旋律に合わせて回り出す。
「あの邸の離れで、僕が夜毎、悪魔に喰われていたとき……」
懐かしむように、燈韻暉が目を細める。
「僕は、このオルゴールを、ずっと流していた。この音色を聴いて、なんとか正気を保って……怖い気持ちを、少しでも和らげようとしていた」
呟くように、そう言って、燈韻暉は私に向き直る。
「ねぇ、姉さん」
「――〝亡命先が天国なら、悪くない〟かな」
そっと私を抱きしめる。
私の背中に、銃口を押し当てて。
「僕は、姉さんを取り戻せた……僕の望みは、叶ったんだよ……叶えたんだよ……姉さん……そして、僕の幸せは、姉さんと一緒にいられること……姉さんが一緒にいてくれるなら、そこが僕の天国なんだ……だからね、姉さん……今、僕は、幸せだよ……とても幸せだ……今この刹那に命を止めれば、この幸せは、永遠になる。僕は永劫、幸せなまま……姉さんの傍にいられる」
私を抱きしめる腕に力を込めて、燈韻暉が
燈韻暉の腕は、縋りつくように切なく、強くて。
それでいて、私が拒めば
「……燈韻暉……」
本当に、そう思っているなら、
「……ごめんね……」
どうして、貴方の手は、震えているの。
「……救えなくて……ごめんね……」
手を伸ばす。燈韻暉の背中に。
腕を回して、そっと、抱きしめる。
私を背中から
それが燈韻暉の選んだ終わり方。
本当の望みではなくても、選ばなければいけなかった。
十三年前に、私が銃を、求めたように。
何に祈れば、救ってもらえたの。
何を信じれば、救いになったの。
何を捧げれば、貴方を救えたの。
本当の望みなんて、いつだって叶わなくて。
ならばせめてと、選んだ望みに縋って。
命と引き換えに、刹那の幸せを永劫にして。
ねぇ……
――どうすれば、幸せを叶えて、生きていけたの?
重なる頬が濡れる。
温かな雫。
拭ってあげられない分、ぎゅっと抱きしめる。
一緒にいるよ。怖くないよ。
オルゴールの音色に混じって、船に近づく足音が聞こえる。
私は目を閉じた。
きっと燈韻暉も。
最後に、もう一度だけ、燈韻暉は――弟は、姉さん、と私を呼んだ。
その先に続く言葉はなく。
私の背中に押し当てた銃のトリガを、静かに引いた。
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