Act.6

Act.6-1

 暗闇の中、オルゴールが鳴っている。あどけない旋律が、繰り返し、繰り返し、閉ざされた扉の向こうから流れてくる。

 聞こえるのが、オルゴールの音色だけなら良かったのに。

 オルゴールの旋律を掻き消す弟の悲鳴。泣き叫ぶ声。

――助けて、姉さん。

 扉には鍵が掛かっている。重厚な扉だ。子どもの力では、どうしたって破れない。今まで、ずっと、開けられなかった扉。

 でも、この夜は違う。今、私の手には、銃がある。ずしりと重く、冷たく、有無を言わせない、どんな理不尽も正義にする力そのもの。

 鍵に向かって、トリガを引く。どれだけ手を傷めて叩いて懇願しても開けられることのなかった扉は、私の意志ひとつ、指先ひとつで、簡単にひらいた。

 弟の悲鳴が止む。空気が揺らぐ。私の足が、ひたり、と一歩を踏み出す。毛足の長い絨毯が、私の足音を吸い込んでいった。沈黙が、刹那、部屋に満ちる。まるで時間が止まったように静止した空気の中、オルゴールだけが鳴り続けている。

 子どもの両手にちょうど乗せられるくらいの大きさの、回転木馬のオルゴールだ。つややかに磨かれたウォールナットのキャビネットの上で、パステルカラーの木馬の群れが、あどけない曲に合わせて回っている。燭台の炎が、それを影絵のように壁に描き出している。

 オルゴールの隣には、硝子の花瓶。けられた白薔薇ばらが、花弁を散らしている。私が弟にあげた花。

 豪奢な刺繍の施された緞帳は分厚くバルコニーを覆い、皓々こうこうと世界をさらす青白い月の光を遮っていた。燭台に灯る炎だけが、ゆらゆらと寝台を照らしている。

 天蓋のついた大きな寝台。そこに乗り上げていた男が、ゆらりと振り向く。肥え太った年かさの男。私に向かって、歩いてくる。男の顔は見ていない。狙うのは胸。男が何か言った気がするけれど、聞こえていない。何十何百の夜に聞き続けた弟の泣き声だけが、私の中に、こだましている。助けて、助けて、姉さん――

――今、助けてあげる。私が、やっと助けてあげられる。

 両手に握りしめた銃を掲げ、私は一息にトリガを引いた。



+



 閉ざしたまぶたの薄闇の向こうで、オルゴールが鳴っている。繰り返し、繰り返し、流れ続ける、あどけない旋律が、私の意識を引き上げていく。

 目を開けると、視界は青かった。夜明け前の群青の光が、まるで水のように隙間なく辺りに満ちている。染みひとつない小綺麗な天井。温かな空気。ふわりと包む薔薇の香り。

 ここは……?

 ぼんやりとかすむ頭に、鈍く重い体……撃ち込まれた麻酔弾の影響が、まだ残っているのかもしれない。

 ゆっくりと体を起こす。ベッドについた手の下で、柔らかなものが潰れる感触がした。花弁だった。白い薔薇の花弁が、シーツの上に敷き詰められている。

 私の服は、黒のスーツから、白いレースのネグリジェに着替えさせられていた。

 オルゴールの音が、止む。

「おはよう、姉さん」

 ふっと、頭上に、影が掛かった。上質なスーツに身を包んだ長身。

 群青の薄明かりの中、プラチナの光が、さらりと揺れて、輝く。白い頬に掛かる柔らかなウェーブを描く髪。私を見つめて微笑み、きらめく、琥珀の瞳。

「……燈韻暉ヒビキ……」

 十三年振りに再会した、私の弟。記憶にある幼い少年の面影はもうなく、端整な青年の顔立ちに変わっていた。それでも、まぎれもない私の弟だと分かる。……彼から見た私も、そうなのだろう。

 オルゴールの音が消え、代わりに微かに、波の音が聞こえてくる。キャビネットとテーブルとチェア、最低限の家具がそろえられた小ぢんまりとした部屋は、僅かに、ゆっくりと揺れている。小窓の外に見えるのは、夜明け前の空だけ。……ここは海の上で、私たちは小さな船に乗っているのだ。

「気分はどう? まだ完全に麻酔が抜けきっていないと思うから、無理しないで」

 慈愛に満ちた声とまなざしが、柔らかな月光のように、私に注がれる。

「懐かしい香りだろう? その白薔薇……子どもの頃、姉さんが僕にくれた花……姉さんのプライベートガーデンに咲いていた薔薇と同じ品種を取り寄せたんだよ。姉さんを最初に迎えるベッドを、その花弁で一杯にしたかったんだ。今着てもらっている、そのネグリジェも、姉さんが小さい頃によく着ていたブランドの中から、僕なりに厳選してみたよ。どうかな……気に入ってもらえたかな」

 無邪気に、嬉しそうに、燈韻暉は笑った。

 私はベッドについた手を握り込み、顔を伏せる。

「……ルイは……私と一緒にいたひとは……?」

 尋ねた私に、燈韻暉ヒビキは微笑みながらも、僅かに眉根を寄せた。

「起きてすぐ、他人の心配?」

「答えて。……殺したの?」

 言葉の最後が、少し震えた。燈韻暉は肩をすくめ、視線を窓へとらす。

「……始末するように指示は出したよ。見届けてはいないけどね」

 燈韻暉は淡々と、静かに答えた。

 私の喉が刹那、呼吸を失う。怒りで理性を焼き切って、殴り掛かれたら良かっただろうか。私の胸に広がったのは、炎の熱とは逆の、ブライニクルのような冷たさだった。全身が内側から氷を押しつけられたように凍えて、指先ひとつ動かせない。

「……ごめんね。姉さんが、そんな顔、するとは思わなかった。安全な場所に着くまでの時間を、確保したかったんだ……第九機関に、追ってこられないように」

 もう二度と、姉さんを奪われないように。

「ねぇ、姉さん」

 さらり、と燈韻暉の指先が、私の髪に触れる。

「長かった髪、切ってしまったんだね。短い髪も似合うけれど、姉さんの髪は綺麗だから、もったいないな。また伸ばしてよ。僕が丁寧に手入れをするから。数年も経てば、元の長さまで戻るよね。……十三年も待ったんだ。数年なんて一瞬だよ。これからは、ずっと姉さんの傍に、一緒にいられるんだから」

 さらら、と髪を撫でた指が、そっとひらき、ふわりとてのひらが、頬に重なる。

「機関では、〝ナキ〟って呼び名を、使っていたね。……ねぇ、〝燈雛綺ヒナキ〟姉さん……どうして、僕とお揃いの、〝燈〟の字を捨ててしまったの? 僕との繋がりを感じられる、愛しい名前だったのに。……もう捨てられないし、捨てさせないよ。僕が傍にいれば、姉さんは燈雛綺だ」

 燈韻暉は笑った。弟らしい無邪気さと、青年らしい優美さを、光のように重ねた、澄んだ微笑で。

「この船で、国境近くの港まで行く。船で越境するには、いささか物騒な海域だからね。港から先の、陸路で移動する手筈は整えてあるんだ。必要なのは時間だけ。隣国に着きさえすれば、さすがの第九機関も簡単には追って来られない。……姉さんを、もう二度と、僕から奪わせない。失わせない。……これからは、僕たち、ふたり、ずっと一緒だよ……姉さん」

「……貴方は、ずっと、この日のために……?」

「そうだよ」

 燈韻暉ヒビキは微笑んだままうなずいた。

「教団を使ったのも……教祖に取り入ったのも、全部、姉さんを第九機関から取り戻す計画のため……別に、あの教団じゃなくても良かったんだ。偶々たまたま、女神を信仰していて、資金繰りに困っている教団があったから、助けて、利用させてもらっただけ。十三年前の、あの夜から、姉さんは、ずっと、僕の女神だから」

 ねぇ、姉さん。燈韻暉ヒビキささやく。私の前に、敬虔な信徒のようにひざまずいて。

「父さんと母さんを事故で一度に喪ってから、僕たちの家は、伯父の皮を被った、おぞましい悪魔に支配されてしまったね。僕たちは幼くて、何の力もなくて、何年も蹂躙じゅうりんされ続けた。……僕の体には、あの悪魔につけられた傷痕が、今もまだ消えずに残ってる。でも、あの悪魔が喰らいついたのが、僕のほうで、本当に良かった。あの悪魔の牙が姉さんに向いていたらと思うと、気が触れそうになる」

 澄んだ光をたたえていた琥珀の瞳が、伏せたまつげに、仄暗くかげる。

「あの悪魔を、姉さんは退治してくれた。僕を、あの悪魔から助けてくれた。……より強い悪魔に、自分を売り渡して」

 ねぇ、姉さん……。燈韻暉の瞳が、切なげに揺れる。

「十三年前の、あの夜、僕は七歳で、姉さんは十歳だった。……十歳だったんだよ。姉さんだって、助けられるべき子どもだったんだ。それなのに……姉さんは、僕を助ける代価にされた。姉さんに、それを望ませた……第九機関は、僕から姉さんを奪った、悪魔の組織だ。僕は、絶対に、第九機関をゆるさない」

 私を連れて行ったのが第九機関だと、燈韻暉ヒビキは最初、知るよしもなかっただろう。全く手探りの状態から、第九機関の存在に辿り着き、私を探し出し、誘導し、取り戻した……燈韻暉は……弟は、一体、どれだけ……。

「この計画では、姉さんに危害が及ばないようにするのが一番、難しかったな……《キャスト》の人たちにかけた暗示には、姉さんだけは殺さないことも含めていたけど、いつかの《伝達人メッセンジャ》を使ったときは危なかったよ。姉さんの動きが速すぎて、顔を認識する前に、反射でトリガを引いてしまったからね」

 無事で良かった、と燈韻暉は笑った。

 部屋に満ちていた群青が、次第に淡くせていく。窓から射す光が、白い夜明けの色へと変わっていく。

 船は静かに進んでいた。燈韻暉の計画通りに、私たちを運んでいく。

「異国に着いたら、何をしようか」

 黎明の光に、琥珀の瞳を輝かせ、燈韻暉は私を見つめる。

「姉さんと暮らすのは、明るくて暖かい、海辺の街がいいかな。さざなみの音が優しく響く海、きらきら輝く波の見える丘に家を建てて……」

 私の前にひざまずいたまま、燈韻暉は私の右手を、うやうやしく握った。微笑みながら、目を閉じて、私の手の甲に、そっと口づけを落とす。

「小さな家がいいね。いつでも傍にいられて、寂しくないように……それで、ねぇ、姉さん……ふたりで、ふたりきりで、未来を繋いでいこう……静謐せいひつな月の光の降る純白のベッドで、ロマンチックにむつんで……まっさらなシルクのマタニティドレスをまとって、柔らかな木漏れ日の下で微睡まどろんで……僕たちにそっくりな子どもたちが、燦々さんさんと明るい陽だまりの中で、僕たちのような悲しみも痛みも知らずに仲良く遊んでいられるのを、笑顔で見守って……希望を結って、未来を信じて、永劫の幸せを約束して生きていられる……僕たちだけの天国を築こう」

 まぶたを上げ、私を見上げた燈韻暉の瞳は、澄みきった光がプリズムのように輝いていた。包むような慈しみと、縋るような切なさが、透き通った琥珀の中できらめき、一際、優しく、愛しく、幸せに満ちた色を放つ。

 船が、ゆっくりと、減速を始めた。時計を確認し、燈韻暉が立ち上がる。

「時間だ。予定通り、港に着くよ」

 クローゼットにドレスを入れてあるから着替えて、と燈韻暉は微笑み、部屋から出ていった。閉ざされるドア。私は目を伏せ、ベッドを下りる。

 クローゼットに掛けられていたのは、令嬢の普段着らしい、上質で清楚な、白い花柄のドレスだった。今の季節に合わせたボレロも付いていて、私の体型に完璧に合っていた。同じ色味の靴まで揃えられていて、サイズも同じだった。

 部屋から出ると、私を待っていた燈韻暉は、嬉しそうに笑った。

「うん。やっぱり、姉さんには、そういう格好が、よく似合う」

 行こう、と燈韻暉が先を歩いて私を促す。すらりと高い背。華奢だけれどたくましさも感じる、程良くきたえられた肩と腕。小さい頃は、私よりも細くて小柄だったのに。

 何か言わなければと思う。それなのに、ひとつも言葉が見つからない。

 私は、なんて言えばいい……燈韻暉に、弟に、何を言えばいい……。

 掛ける言葉を見つけられないまま、私はただ、燈韻暉に続いて歩いていく。

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