Act.3-2

 喧騒が、環境音楽アンビエントのように、私の表層をかすめていく。軍の地方支部のひとつに、私たちはおもむいていた。制服姿の人間もいたが、多くはスーツ姿で、書類を抱えて、視界を横切っていく。忙しそうな人間もいれば、暇そうな人間もいたけれど、皆、一様に、明日も自分が生きていることを信じて疑っていないように見えた。ここは、そういう場所なのだろう。

 三階建ての階段を上がる。ささくれた粗末な板張りの床だった一階、丁寧に磨かれた二階、そして、絨毯の敷かれた三階へ。階数の上がるほどに、人気ひとけは少なく、廊下に並ぶドアの数も減っていった。行き交う人間がいない代わりに、それぞれのドアの前には二人ずつ警備の人間が立っている。

 今回、私たちが命じられた仕事は、《調整人コーディネータ》の護衛だった。第九機関において指揮官の役割を果たす《調整人コーディネータ》には、必ず《護衛人ボディガード》が一人ついているけれど、《護衛人ボディガード》だけでは護りきれない事態が起こる可能性がある場合などには、《削除人デリータ》も同行することがある。

 最奥の部屋に、《調整人コーディネータ》と《護衛人ボディガード》が入っていく。私とナキは、廊下の端で、周囲を警戒しながら待機した。

 ナキとペアを組むようになって、組織内の〝裏切者〟を〝削除〟する仕事が格段に増えた。元々、ナキが、そういう仕事を命じられることが多いからだろう。特に、裏切者が《削除人デリータ》だった場合、それを始末できるのは、その《削除人デリータ》よりも強い《削除人デリータ》だけだ。それでナキが選ばれる。〝狼の眼ウルフ・アイ〟の二つ名のもとに。

 そして今回、《調整人コーディネータ》が、この軍の支部におもむくことになったのは、先日、始末した裏切者の逃亡を手引きした人間の背後で、ここの人間が糸を引いていた可能性をつかんだからだ。軽く叩いてほこりの出方を窺う、その目的で、ここへ来た。第九機関の存在は、軍にはよく知られていて、《調整人コーディネータ》が来たとなれば、大きな揺さぶりになる。私たちが配されたのは、最悪のケースのひとつとして、ここの人間が即刻、《調整人コーディネータ》を襲う可能性に備えるためだった。

 幸い、私たちの出番はなく、仕事は終わった。《調整人コーディネータ》と《護衛人ボディガード》が無事に車に乗り込み、ゲートを出たのを確認して、私たちも《運搬人ポータ》の車に向かう。

「早く帰ろっと」

 うーん、と軽く伸びをして、ナキは足早に歩いていく。

 追いかけながら、私は小首をかしげた。

「珍しいね、ナキ。そんなに帰りを急ぐなんて」

「んー……軍部には、あんまり近づきたくないんだよねぇ」

 肩をすくめて、ナキは苦笑した。どうして……? と、理由を測りかねた私が、問いかけの瞬きをする前に、

「あれ? 〝狼の眼ウルフ・アイ〟じゃない」

 唐突に、後ろから声が掛かった。振り返ると、私たちと同い年くらいの女が三人、こっちを見ている。いずれも制服姿で、長い茶髪を下ろし、あまり気分の良くない笑みを浮かべていた。声を掛けてきたのが中央にいる長身の女で、あとは取り巻きだろう。

 ナキが足を止めた。私の足も、合わせて止まる。彼女たちが追いついてくる。

「仕事で、だろうけど、よく来られたわね、ご苦労様」

 長身の女が、ナキを見下ろす。明らかに挑発の色をした瞳で。

「そっちこそ、よく私の前に顔を出せたね」

 ちらりと視線を上げて、嘆息まじりに、ナキは彼女を見返した。

 彼女の笑みが深くなる。

「あら、養成所スクールの実地訓練のときのこと、まだ根に持ってるの? 確かに、助けてくれたことには感謝してるけど、だからといって、助ける義務はないじゃない」

「そうだね、私も、今は何とも思ってないよ。相手は本物のテロリストだったもんね。私を見殺しにしていなければ、貴女は無傷じゃ済まなかっただろうし、私は、このとおり、独りで生還できたし」

 彼女は、どうやら、ナキと同じ養成所スクールにいて、卒業後、軍に配属されたらしい。養成所スクールにいた子どもが全員、第九機関に入るわけじゃない。訓練やテストを重ねる中で、機関に適性を認められなかった子どもの一部は、軍に送られる。

「挨拶なら、もういい? 私、行くね」

「私ね、結婚するのよ」

 きびすを返そうとしたナキの足を、彼女の言葉がいとめた。

「……そうなんだ、おめでとう」

 ナキは微笑んだ。いや、微笑み続けていた。呼び止められて、振り返ってから、ずっと、ナキの面持ちは穏やかに微笑んだまま、僅かなゆがみもかげりも見せない。

 一歩、ナキに近づいて、彼女は続けた。

「私の婚約者はね、将来が約束された高官なのよ。養成所スクールでは、軍に送られる子は落ちこぼれだなんてささやかれたけど、私は軍に配属されてラッキーだったわ。軍に入ったら、戸籍が貰えるもの。それでこうして前途有望な男に見初みそめられて愛されれば、人生、大逆転が叶うのよ」

 彼女の話を、ナキは静かに聞いていた。琥珀の瞳は硝子のように、彼女の笑顔を映していた。まるで、心が、ここにないみたいに。まるで、光の矢の届かないくらい水底に、心を沈めていくみたいに。

 そんなナキを前に、勝ち誇ったように、彼女は言い放つ。

「これから私は、彼との子どもを沢山、産んでいくわ。笑顔のあふれる家庭を築いて、いつか、大勢の孫に囲まれて、皆に大切に守られるおばあちゃんになるの。いくら優秀でも、何も残せずに独りきりで死んでいく、哀れな機関の人間とは違うのよ――」

 彼女の言葉は、そこで切れた。私が切った。言わせなかった。

「……それ以上、続けるなら……」

 柔らかな彼女の下腹部に、私は銃口を押しつけていた。

「あんたの自慢の子宮コレ、今この場で使いものにならなくしてやる」

 にらみつけ、手に力を込める。

 彼女の喉から、引きった息が漏れた。

「……行こう、ナキ」

 きびすを返し、ナキの腕をつかむ。これ以上、一秒も、ここにいたくなかった。ナキを、ここにいさせたくなかった。

 ナキの手を引いて、歩調を速める。

 後ろから、あの女の声が投げつけられてくる。何か捨て台詞のようなものを吐いたようだったけれど、耳に入れる気もなかった。

「……ルイ」

「言っとくけど」

 言いかけたナキの声を遮って、私はナキの腕をつかむ手に、少しだけ力を込めた。

「ナキの代わりに怒ったんじゃないからね」

「うん……」

「私が我慢ならなかっただけなんだからね」

「うん」

「ナキがゆるしても、私は絶対、赦さないんだから」

「……うん」


「ありがとう、ルイ。あの子の言葉を、赦さないでくれて」


 私の手に、ナキの手が、花弁のように、ひらりと触れる。うながすように重ねられて、ナキの腕から手を離すと、その私の左手を、ナキの右手がつかまえた。

 初めて繋いだナキの手は、包みたいほど柔らかくて、絡めたいほどたおやかで、抱きしめたいほど温かかった。

「私が銃を握らないとき、この右手はルイのものだね」

 ナキが笑う。繋いだ私の手に、そっと力を込めて。

「銃を持ってても、持ってなくても、ルイの左手は、ずっと私のものだね」

「……左手だけでいいの?」

「え……?」

 私を見上げる琥珀の瞳が、大きく瞬きをする。真昼の光に透けて、きらきらと、プリズムをはじいて。

 頬に熱が集まるのを感じながら、私は言葉を続けた。

「仕事のときの私は機関のものだけど、それ以外の時間は全部、貴女のものにしてもいいってことよ」

「……好きなだけ、もらっていいの?」

「……いくらでも、持っていくといいわ」

「じゃあ……」

 繋いだ手の熱が上がっていく。てのひらの中で合わさって、互いに温度を高めていく。

「私の全部も、もらってくれる……?」

「……もちろん。ありったけ、寄越して頂戴」

 大切にするから。大切にしたいから。

 誰にも傷つけられたくないから。傷ついてほしくないから。

 独りにさせたくないから。独りでいてほしくないから。

 預け合って、守り合って。

 たとえ、未来に繋げるものが、何もなかったとしても。

 生めた心はあるって。育めた時間はあるって。

 信じることができたなら。

 いつか訪れる命の終わりも、きっと寂しくはないだろう。

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