Act.3

Act.3-1

――璃宇リウ

 夢の中、親が私の名前を呼んでいる。

 笑みの形に細められた目。そのまなざしは、優しいというには甘すぎて、温かいというには熱を持ちすぎていた。私を抱える腕の力は強く、守るために抱きしめるというよりは、逃がすまいとすがりつくような手をしていた。

――璃宇。璃宇。愛してるわ。

 陶酔したようにうるむ瞳。私に向けられたものなのか、それとも、親の恋人だったひとに向けられたものなのか、どちらだろう。

 私の親は、殺された恋人の死体の横で、六人の男に犯された。中絶することを、選ばなかったのか、選べなかったのかは、分からない。ただ、産まれた私に、親は、死んだ恋人の名前をつけた。私を、愛しい恋人の生まれ変わりだと、信じていた。

 信じなければ、輪姦の果てに産まれた子どもを、育てることなどできなかったのかもしれない。あるいは、信じることで、生きるよすがにしていたのかもしれない。

 私には、親の恋人の記憶なんて、欠片もないのに。

 親は私に、恋人の好きだったものの話を沢山、聞かせた。私が、恋人の好きだった服を着て、恋人の好きだった食べ物を頬張り、恋人の好きだった歌を口ずさむと、親は至極、喜んだ。

――やっぱり璃宇は璃宇だわ。

 懐かしむような光をたたえた瞳が、私の知らない私を映す。璃宇は璃宇――でも、その璃宇は、私じゃない。私の好きなものを、好きと言うことはできなかった。

――大好きよ、璃宇。愛してるわ。

 私を抱きしめて、親は繰り返しささやいた。

――私も、好きだよ。

 私の言葉は、親には届かない。

 この国の言語で、子どもが母親を呼ぶときの名詞を、私は一度も口にすることはできなかった。幼心に分かっていたからだ。呼べばきっと、親は壊れる。私を恋人の生まれ変わりだと信じることで、かろうじて繋がっている、生きるための心の糸。それが切れてしまう、と。

「……結局、最後まで男に犯されて、殺されたけど」

 目を開ける。瞳に映るのは、見慣れたアパートメントの無機質な天井。体を包むのは、ひとりきりの温もりのブランケット。

 夢の残滓ざんしを払うように、勢いをつけてベッドから起き上がり、カーテンを開ける。ベランダに出る。温度を削ぎ落とした夜明け前の空気を吸い、不快に上がっていた心拍を抑えていく。見上げた空は晴れ渡り、夏の星座が瞬いていた。

 親が死んで、機関に入って、私は自分の呼び名を変えた。名乗る名前を、自分で決めた。

 璃宇、リウ、RIU、RUI、ルイ――簡単なアナグラムでも。

 自分の好きな服を着て、自分の好きなものを食べて、自分の好きな曲を聴いて。

 それでも、本名と何のルーツもない名前を呼び名にしなかったのは、私の中で、親との繋がりを、完全に断ち切ることはできなかったからかもしれない。

 たとえ恋人の生まれ変わりとしてでも、死ぬまで私を愛し、育ててくれたのは、確かに母であったから。

「あれ? ルイ」

 呼ぶ声に、振り向く。隣の部屋のベランダから、ナキが顔をのぞかせていた。

「貴女も、こんな時間に起きたの?」

「うん。なんか、目が覚めちゃって。久し振りに昼間に仕事をする日だからかなぁ。寝坊しちゃうよりはいいかなって」

 肩をすくめて、ナキは苦笑した。

 ナキが着ているのは、私の選んだルームウェアだ。初めて一緒に私服を買いに行ったとき、ナキは一着も自分で選べなかった。陳列された色とりどりの選択肢を前に、ナキは途方に暮れていた。仕事のときは、私よりもずっと判断が速く、自信に満ちているのに。仕事の舞台から降りているときのナキは、どこか幼く不安げだった。自分の好きなものが分からないという。そのときは、私が私の好きなブランドからナキに似合いそうなものを二択まで選んで、やっと一つを選ぶことができた。

 それでも、何度か一緒に出かけて、選ぶことを繰り返しているうちに、少しずつ、ナキは自分で選ぶことができるようになってきている。服も、カフェのメニューも。

 いつか、ナキが一から自分で選び取ることができるようになるまで、私は、とことん付き合うつもりでいる。なぜかって……それは、多分……自分の好きなものが分からなくなったナキの姿が、私の最も恐れている私自身の姿と重なったから。

 要らないものは、捨てていかれる。それが世界の条件だ。私が世界に捨てられずに残り続けられる条件は、仕事を完璧にこなすこと。それだけ。私が、何が好きか、何が大切か、そんなことは、世界にとってはどうでもよくて、何の必要もない。私という自我を、世界は必要としていない。求められないし、尊ばれない。……私の親が、私を、死んだ恋人の生まれ変わりとしてしか、愛さなかったように。

 だから私は、私の好きなものを意地でも守るつもりでいる。必要とされないからといって、捨ててたまるものかと。

 けれど、ナキは違った。世界に必要とされないものを、ナキは手放した。世界に求められる器だけ残して、求められない中身は全て捨ててしまった。

 空っぽになってしまった器を、今、ナキは再び満たそうとしている。私と一緒に、望んでくれている……それを嬉しいと思うのは、私の傲慢ごうまんだろうか。

 黎明の風が、ナキの髪を微かに揺らし、プラチナの毛先が、部屋から漏れる灯りを受けて、白いうなじの上に、きらきらと淡い光を散らす。小さい頃は、腰に届くほど長かったらしい、柔らかなウェーブを描くナキの髪は、養成所スクールに入って、訓練に邪魔だからという理由で、今の長さまで短く切ってしまったという。

 ベランダの手すりにもたれて、夜明けを待つ街並みを見るともなしに眺めながら、そういえば、と私はナキの横顔を見る。ナキも手すりに頬杖をついて、まだ夜の色に染まったままの運河の水面みなもを眺めていた。やっぱり、と私は思う。何気ない仕草なのに、まるで絵画のように、整えられた美しさを感じる。所作のひとつひとつが、洗練されているのだ。私と並んで歩いているときも、私より小柄なのにそれを感じさせないのは、背筋がすっと伸びていて、姿勢がとても良いから。一緒に食事をして気づいたけれど、ナキの食べ方は驚くほど綺麗だった。養成所スクールでテーブルマナーは学ぶけれど、そんなレベルじゃない。第九機関に勧誘される子どもは私を含めてスラムの生まれが多いけれど、もしかしたらナキは違うのかもしれない。

 私と出会う前のナキのことを、私は、ほとんど何も知らない。

 私はナキの過去をかなかったし、ナキも話さなかった。逆に、ナキも私の生まれを尋ねなかったし、私も語らなかった。お互いに、出会ってからの私たちだけを知っている。ペアを組んで、仕事を幾つも一緒にこなした。上司になる《調整人コーディネータ》は何度か変わったし、チームの異動もあったけれど、ナキとペアであることは変わらなかった。

「あっ、明けたぁ」

 ナキが微笑む。新市街のビル群の向こうから、金色の朝陽が世界を染める。

 眩しい朝の光を受けて、ナキのプラチナの髪も、琥珀の瞳も、一際、きらきらと輝いていく。

「綺麗だねぇ」

「……そうね」

 朝陽を見つめるナキの横顔を、私は見ていた。

 世界を等しく照らす朝陽の中にたたずむナキは、とても綺麗だと、思う。

 月光のスポットライトを浴びて、夜のいただきに立っているときよりも、ずっと。

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