Act.1

Act.1-1

 半分に欠けた月の昇る夜だった。新市街の外れ、開発の波に捨て置かれた地区は、ある種、旧市街のスラムよりも狡猾で怜悧なアウトローが吹き溜まっている。

 卑猥なグラフィティ・アートに彩られた雑居ビル。割れた窓硝子が月の光に濡れ、氷のように冷たく澄んだ光を放つ。けれどそれは一瞬で、なまぬるく濁ったおびただしい赤の飛沫しぶきによって塗り潰されていく。質の悪いスプレーを吹いたように。何のアートにもならない死を描いて。

「くそっ! 囲まれた!」

「撤退の合図は……っ」

「駄目だ! 応援要員が来るまで持ちこたえろ!」

「応援って、一人だろ⁉ 焼け石に水じゃないか……!」

 身を隠した壁の両側で、舌打ちが飛び交う。私は小さく嘆息し、弾倉を交換する。

 私たちが突入したのは、麻薬組織の事務所のひとつだ。ただ、ここを潰すことは単なる布石。ここを経由してさかのぼる上流、軍の上層部御用達のパーティーに、揺さぶりをかけるための小火ぼやだ。

 あなどっていたわけじゃない。練度が足りなかったわけでもない。ただ、相手の数も武装も、想定より多く手強かった。情報収集の甘さや指揮官の采配ミスだと責める気はないけれど、今ここで私たちが全滅したら、糾弾はまぬがれないだろう。

「……この先の廊下まで距離を取れたら、時間を稼げる」

 銃を構え直し、私は両側の男たちにささやいた。

「私が血路を開く。貴方たちは、ひたすら前の敵だけを撃って走って」

「わ、分かった……っ」

「頼むぞ……!」

 彼らはうなずき、ぐっと足に力を込めた。

 合図とともに、一斉に出る。

 重なる銃声。ほとばしる血飛沫しぶき

 混じる足音。あふれる怒号と悲鳴。

 ドアの陰にひそむ敵を、私は間引いていく。

 簡単ではないけれど、難しくもない。

 できるから、するだけ。できなければ、死ぬだけ。その二択の間を、くぐり抜けていく。それだけ。

「助かった……っ!」

「恩に着るぜ!」

「お前も早く……!」

 同僚の男たちが無事に辿り着いたのを確認して、私も身をひるがえした。

 その一瞬。

 油断していたわけじゃない。撃ち漏らしていたわけでもない。

 ただ、見抜けなかった。

 敵の一人が、死に際に、もう引けないはずのトリガを、引くことを。

「っ……あ」

 右足に、はじかれたような衝撃があって、私は床に膝をついた。遅れて痛みが追いついてくる。退しりぞいていた敵の足音が、再び戻って来る。銃口が集束する気配。

 私は顔を上げた。同僚の男たちと、目が合った。

 見なければ良かったと、思った。

 一人は私から目をらして、一人はゆるしをうように私を見つめて。

 別に、期待していたわけじゃない。

 助けたから助けてもらえる、なんて。

 守ったから守ってもらえる、なんて。

 そんな優しい世界じゃないことは、分かり果てていて、思い知っていて。

 それでも、いざ、目の当たりにすると、胸の奥で、何かが砕ける音がする。

 響く銃声。

 私は目を閉じ、顔を伏せた。

 今の私は敵にとって、この上ない腹いせのまとだ。

 私は身構える。敵の放った銃弾が、私をなぶり殺していくのを。

 けれど、

「……え……?」

 体のどこにも、衝撃は来なかった。

 銃声は聞こえているのに。

 どうして……?

 振り返る。

 振りあおぐ。

 最初に見えたのは光。

 月の光よりも温かな、プラチナの光。

 ふわり、と、それは舞った。

 けたたましいはずの銃声が、不思議と軽やかに聞こえる。

 まるでリズムを刻むように。

 光と影が躍る。ひら、ひら、と、目で追いきれない速さで。

 怒声と悲鳴がんでいく。フォルテからピアニシモに。そしてミュートに。

 最後に残ったのは、とん、と私の傍に降り立つ足音。

 月の光が遮られ、私に淡い影が掛かる。

 死体の山を背に。

「良かったぁ、間に合って」

 花のほころぶような声が降る。柔らかくて、ほがらかで、温かな響き。

 見上げた先に、プラチナの光が揺れる。それは、髪だった。緩くウェーブを描くプラチナブロンドのショートボブ。

 私と同じ黒いスーツに身を包んだ、私と同い年くらいの、女の子。

 その瞳が、すっと私をとらえる。月の光を背にしてもなお鮮やかにきらめく、澄んだ琥珀こはくの瞳。

「……〝狼の眼ウルフ・アイ〟……⁉」

「応援要員って、こいつだったのか……」

 私の後ろから、男たちの動揺の声が響く。

 狼の眼ウルフ・アイ……その二つ名で呼ばれる人物が存在することを、私もうわさで聞いたことはある。私たちの組織で、一人でおおよそ五人分に相当する戦闘力を持った構成員がいるという。全く信じなかったわけではないけれど、至極誇張された長い尾ひれのついた噂だと思っていた。実際、この目で、彼女の戦うさまを見るまでは。

 男たちの声に、彼女は視線を上げ、彼らを一瞥いちべつした。大きな瞳を、すっと冷ややかに細めて。

「助けてもらっても助けないっていうのが、貴方たちの長生きの秘訣ひけつ?」

 平らかな口調。言葉に反して、その声には、憤怒の熱も軽蔑の棘も宿っていない。感じた印象で最も近いのは、諦念、だろうか。

「止血するね」

 彼らから早々に視線を移し、琥珀の瞳が再び私へと向けられる。微笑の色をした温かなまなざしで。

「私のことは、ナキって呼んで。本名は捨てたし、狼の眼ウルフ・アイなんていう渾名あだなも好きじゃないから」

 そう言って、彼女は手早く応急処置を施してくれた。そして私の腕を肩に回し、ゆっくりと立たせてくれる。傷の手当てをしてくれただけじゃなく、肩まで貸してくれた……自分が他人にすることはあっても、他人から自分にされることはないだろうと思っていたことを、続けざまに施されて、顔と瞳が、じんわりと熱くなる。

「……ありがとう……」

 少し、声が震えた。

 彼女は小さく笑って、片目をつむる。

「これくらい当然だよ。同じ組織の仲間だし、まして貴女と私は、これからペアを組むんだから」

「ペア……?」

 私は思わず瞬きをする。彼女は微笑んでうなずいた。琥珀の瞳が、明るく輝く。

「ここに来る直前に通知されたの。貴女にも、すぐに連絡が来るよ」

 よろしくね、と彼女――ナキはささやいた。花の開くような、柔らかな笑顔だった。

 私の胸が、小さく跳ねる。これまでにも沢山の人と組んできたけれど、命の危機に私を助けてくれたのは……こんなふうに優しく微笑みかけてくれたのは、彼女が初めてだった。

「……名前」

 私も、そっと、彼女にささやく。

「私のことは、ルイって呼んで。私も、本名、嫌いだから」

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