Fall Into Heaven

ソラノリル

Prologue

Prologue

 オルゴールが鳴っている。子どもの両手にちょうど乗せられるくらいの大きさの、回転木馬のオルゴールだ。つややかに磨かれたウォールナットのキャビネットの上で、パステルカラーの木馬の群れが、あどけない曲に合わせて回っている。燭台の炎が、それを影絵のように壁に描き出している。

 オルゴールの隣には、硝子の花瓶。けられた白薔薇ばらが花弁を散らしている。

 豪奢な刺繍の施された緞帳は分厚くバルコニーを覆い、皓々こうこうと世界をさらす青白い月の光を遮っていた。燭台に灯る炎だけが頼りなく照らす室内は仄暗い。

 私の体はなまぬるく濡れている。私のまとう純白のレースのネグリジェは、胸もとから深紅に染まっている。ももに張りつき、含みきれなかった雫がくるぶしへと伝っていく。毛足の長い絨毯にもそれは広がり、裸足はだし爪先つまさきを濡らしていた。

 その足もとには、肥え太った年かさの男が、無防備な姿で仰向あおむけに倒れている。きらびやかな宝石がちりばめられた金の指輪がいくつもまった手は、中途半端に開いたまま天井を向いている。もう何かをつかむことも、握ることもない。誰かに閉ざしてもらわなければ下りなくなったまぶたと同じで、二度と動くことはないのだ。

 閉ざされた部屋。燭台の炎は揺らがない。ただ沈黙し、照らすだけ。死者となった一人のおとなと、生者である二人の子どもを。一人は私で、もう一人は――

「……っ!」

 声にならないかすれた吐息が微かに響き、私は視線を上げた。男の死体の先、幼い少年が、ベッドの上に、座り込んで震えている。頬から鼻筋へとかかる、緩い癖のあるプラチナブロンドの髪の間から、見開かれた琥珀色の瞳が、私を見上げていた。視線が合う。少年の喉が再び震える。けれど、それが声を結ぶ前に、蝶番ちょうつがいの軋む音が、部屋の静寂を砕いた。

「契約成立ね」

 ドアを開けたのは、スーツ姿の女の人。長いアッシュブロンドの髪を、頭の高い位置で、すっきりとまとめている。

「行きましょう。貴女を迎える準備はできているわ」

 血に濡れた絨毯を踏み、黒いエナメルの靴が近づいてくる。あでやかに彩られた爪。その手を私の背中にあてがい、そっといざなう。

 私は歩き出す。男の死体と、少年を置いて。

 振り返ることなく。両手は銃を握ったままで。

 部屋を出ると、廊下に照明はなく、代わりに青白い月の光が、大きく切られた窓から皓々こうこうと射し込み、蝋燭ろうそくの仄暗さに慣れた目には眩しいほどだった。

 外へと進む先には誰もいない。ここはやしきの離れだから、誰も来ることはない。

 そのはずだった。あの男――私が殺した男が、ここの支配者である限り。助けも、救いも。神様も、死神も。

 再び蝶番ちょうつがいの音が響く。吹き込む風が、私の後ろで、ゆっくりとドアを閉ざしていく。燭台の炎を激しく揺らめかせながら。

「っ、――」

 少年の声が背中を打った。嗚咽おえつの混じった叫び声だった。

 吹き抜ける風が、一際ひときわ強く、私の頬をかすめる。

 部屋のドアが閉まるのと、燭台の炎が掻き消えるのと、どちらが先だったのかは、分からない。

 オルゴールの音だけが、止むことなく響いていた。

 あどけない旋律を、繰り返し、くりかえし。

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