第4話
「今年の夏合宿は清里です。」
パート練習をしていると、吹奏楽部の部長で2年生の藤野さんがいきなりやって来てそう言った。
清里と言えば山梨県にある有名な避暑地だ。合宿で行くので、面白みには欠けるが地名を聞いただけで、何となくわくわくする。聞くところによると、合宿では毎年、何組かカップルができるとかできないとか、同じ宿舎で3日間過ごすのだから、そんなこともあるのだろう。しかし、私には変な確信があった。
「どうせ、私はその対象ではないだろうな。」
ホルンを担当している同じ学年の菅谷くんの事が気にならないわけではない。彼は高校時代まではバレー部に所属していて、部長まで務めていたというから音楽だけではなく、運動の方もかなり出来ていたのだろう。自分のことは棚に上げるのか、自分にないものに憧れるのか、ことさら、イケメンというわけでもないのだが、好感はもてる。何を上から目線で言っているのか。そんなことを思ってしまった自分が何となく気持ち悪い。
「だけど、清里は楽しみだな。小さい頃行ったけな。」
山裾に広がるブドウ畑、夏でも涼しい風が吹いて、ご当地のアイスクリーム屋さんでブドウ味のアイスを買って貰った記憶がある。
「お姉ちゃんと半分こして食べたっけ。」
あの頃は無邪気だったんだ。アイスクリームを半分こして食べても、それがキラキラするような体験になるんだから・・・
「もう一度あの頃に戻れるものなら戻りたい。そして、もう一度やり直したい。」
「たかだか大学1年でそんなこと思うのか。」と突っ込まれそうである。
しかし、中学生であれば小学生。高校生であれば中学生のことを何となく、懐かしいような、羨ましいような思いで見てしまうということは、誰にでもあるような気もする。
そんな、こんなでパート練習がすっかり上の空になってしまった。合宿に向けて、今より少しでもダイエットしなくっちゃ。持って行く服もどれとどれがいいかな。靴は、どうしよう。
何てこと考えていたら、益々心ここにあらずになってしまった。
夜、みんなが寝静まった後、突然菅谷君に呼ばれて・・・
それとも、一人離れたところで練習していたら・・・
自分が考えられる最高のシチュエーションのパターンを頭の中で妄想をする。
「こりゃ、寝間着も手が抜けないぞ。」
「下着はどうするんだ!!」
もはや練習どころではない。
「里莉、どうしたの?なんかにやけてるけど・・・」
「あ、いや、その。」
ほとんど、身の入らない練習時間も終わり、帰路につく。
「今日は何だかいつもより疲れた。」
「けど、悪い疲れ方ではなかったな。」
実は、今でも頭の中では、菅谷君がどんな風に私にアプローチをかけてくるかシチュエーションの様々なパターンを考えている。
いつも通りの暗い帰り道も今日は何だかとても素敵に感じる。
「月がきれい。」
なんて、日頃なら100%思わないようなことを思いながら・・・。
夜に紛れて、ほとんど見えない線路と道路の間に咲いている、あの名前のよく分からない花を見ても何となくうっとりしてしまう。
たかだか、合宿に行く話を聞いただけなのに異様にテンションが高くなってしまった。
「しかし、清里となると交通費も馬鹿にならないぞ。親に出して貰うのも癪だしな。こうなったら、いち早くバイトを探さなくっちゃ。」
今日も、電車までの待ち時間、沙羅が一緒にいてくれた。最近は地方の街でも何かと物騒なので、心強い。
「ねえ、里莉、何かいいことあった?」
「いや、別に。」
「本当?声のトーンが全然違うし、口数も多いし。」
「気のせいでしょ!」
内心、少しドキッとした。何か胸の内を見透かされているような・・・
しかし、こんなことでドキッとしたらこれから先、どうするんだ。まだ、何も起こってはいないんだぞ。
「今日は、久々途中下車して一人でコーヒーでも飲もう!」
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