第3話

 さて、この奇妙な関係に最初に音を上げたのは他ならぬアレスであった。

殿下でんか。やはり無理です」

「どうした?」

「貴族の名前など、ちいとも覚えられる気がしない」


 実際のところ、アレスは地上の政治について詳しいことを知っているわけではなかった。天界で共有されていたのは、大きな国の王の名前と強い魔物の情報程度でしかなく、シャウラの名を知っていたのも単なる偶然であったという。


 というわけで、アレスに与えられた最初の仕事は、身辺警護しんぺんけいごでも魔物討伐とうばつでもなく、国周辺の地形と、貴族の顔と名前と役割を覚えることだった。地形の方はすんなり覚えたが、人物の方は苦戦しているらしい。


「誰と誰が味方で、誰を警戒し、誰を守るべきかを知るのは騎士として重要な事だ」

「で、ありましょうか。いや、私はてっきり、暴れ狂うワイバーンの群れを調査するとか、そういったご用向きのために雇われたのだとばかり」

「ワイバーンはこの大陸では百年目撃情報がないぞ」

「ここにプロメテウスが居ればな。きっと歓喜したでしょうに」

 アレスはすっかりこの『仕事』に飽きているらしく、王子の前にもかかわらず、ソファの上に寝転がっている。長くつやのある赤毛が垂れる様は絨毯じゅうたんのようで、婦人が見れば思わずほうと息を漏らすだろう光景だ。しかし少し目をそらせば、部屋には机と言わず床と言わず、大量の書状や書物が広がっている。シャウラはこれもまた慣れた様子で、書類をどけて対面のソファに座る。


「やはりある程度の貴族の名前、業績、そして派閥は頭に入れて貰いたいな。それから、この国の文化や成り立ちについても。少なくとも下級貴族程度の教養が無ければ、俺の騎士として面目が立たぬ」

「殿下は存じ上げないのですか、天使は両手の指の数を超える固有名詞は覚えられません。このアレスがあなた様の騎士となるという話は白紙ですな」

「覚えよ。これは王命とする」

 実際には即位前であるというのに、危ういことを口にしさえする。ずいぶんと機嫌がいいようだ。

「ほら、なんだ、おやつも用意してやるから。何がいいかな、焼き菓子のひとつでもあれば良いが」

「殿下は私をなんだとお思いか」

 シャウラは侍女じじょに呼びかけ、軽食を用意させるという名目で下がらせた。そして、周辺に散らばる書類の中から目星をつけ拾い上げる。手に取ったのは三枚だ。


「ひとまず覚えるべきは公爵こうしゃく家だな」

「……。公爵、でございますか」

「まさか、爵位しゃくいの意味も知らんとは言わせんぞ」

「存じておりますとも。殿下に群がる羽虫はむしの種類でございましょう?公爵は大きく毒があり、子爵ししゃくは小さいが群がると羽音が大きいと」

「ざっくり言えば王家の次に偉いのが公爵だ。現在この国で公爵位を持つ家は三つ、彼らの発言は王家も無視できん影響力がある」

「はぁ、左様で」


 シャウラは語り始める。

 ――星の国に公爵が三家あるのは、数百年前の王の危機を救った三人の弟に由来する。


 ある時、星の国周辺の山で大きな山火事が起き、逃げ出した魔物が城下へとなだれ込んだ。

 一人は強き心で自ら魔物をうち倒しに向かった。一人は人々を避難させた。そして、もう一人は復興に尽力し、同時に山を整備した。結果として、大規模な魔物の襲撃にも関わらず、死傷者はゼロで収まったのだという。

 三者三様の働きに感激した王は、三人の弟たちそれぞれに爵位と、広い荘園しょうえんを与えたのだ。


「お詳しいですね、殿下」

「俺はわりとこの話は好きなのだ」

「左様ですか」

「俺にも兄弟が居ればな。……みな、生まれる前に死んでしまった」

「……」

シャウラは軽く肩をすくめると、机に広げた書類のうち一番左を指さした。


「まず一人、アキオン公爵家。伝説では自ら剣をとった長男の家だな、王都の西に領土がある。先の当主が今年に流行病で亡くなり、現当主は二十八歳とまだ若い」


 机に乗せられた似顔絵を見るに、アキオンは細面の男だった。それなりに美形と言っていい。が、アレスから見ればそれだけの男のような気もした。


「次に、マルコ公。王都の東、海辺を管轄している。初代当主が最後まで人々を避難させた、と言われている家はここだな」

 次に指さされたのはマルコの似顔絵だ。よく言えば人の良さそうな、悪く言えば特徴のない中肉中背の男で、齢は五十三歳。何かひっかかりを覚えたのか、アレスは口を開く。


「この男、先王とは仲が良かったのですか」

「いいや、衝突していたことの方が多かったそうだよ。父は占者せんしゃを重視していたが、マルコ公は海辺のおおらかな気性を持つというか、この国の占いにあまり興味がなくてね。そういう点で俺は彼を信用している、が」


 歯切れの悪い言葉であったのは、ここで侍女が軽食を持って戻ってきたからだ。

 アレスは「ご苦労」と言ってトレイを受け取ると、机に広がった無数の書類を退けようともせず、マルコ公の似顔絵の上に思い切りトレイを乗せた。シャウラはそれをとげめるでもなく、少し笑った。


 侍女をふたたび下がらせると、シャウラは真顔に戻り、声をひそめた。

「……先日、俺に遠乗りを勧めたのは彼だ」


 似顔絵をテーブルクロスの代わりにしてスコーンに手を伸ばしていたアレスの指先がわずかに躊躇ためう。

「となれば。……いかにもマルコ公の殿下へのあつい忠誠心を感じられる話ですな。いやはや、殿下をあえて苦難に置き成長をうながされるとは、私も見習わなければなりませぬか」

「ちゃんと覚えられてるじゃないか、名前」

「恐縮です」


「この調子で続けよう、最後はティスクル公。北に小さめの領地があるがそちらは息子に任せていて、最近は王都近くの別荘にいることが多いな」

 ティスクルは四十八歳。小太りで髪の薄い男だが、目元がくるりとしており、愛嬌あいきょうがある。

「名前も見た目も、なんだかお可愛いらしい方なのですね」

「ティスクル家は占者の長老の娘を妻に迎えている」

「ははあ、成程。それはそれは」

 殿下の目の上のこぶで御座いますね、とアレスは目を細めて笑う。スコーンの欠片を舐めとる赤い舌は、今まさにでも火を吹くのではないだろうか。


「あまり、そういった大それた憶測おくそくを大声で言うものではない」

「これは失礼。いえしかし、果断かだんなる実行が必要な際は、いつでもお申し付けください」

 にこにこと笑うアレスに、シャウラはさっと話題を取り替える。


「ま、こうして男の似顔絵とばかりにらめっこしていては集中力が持たんのも当然だな。どうだ、軽く腹にものも入れたところだ。息抜きに散歩でもどうだ」

「ええ、殿下のお心のままに」

アレスはゆるりと笑う。

「……ああ、でもその前に。もう一つ頂いても?」

 のんきにスコーンに手を伸ばすアレスを見ながら、シャウラは内心、うっすらと冷や汗をかいていた。


(さきほど、手綱たづなを握ってやると意気込んだはいいが、これは)

(俺は猟犬りょうけんどころか、火吹き竜を掴んでしまったのではなかろうな)

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