第8話 ケサランパサラン
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【ケサランパサラン(けさらん-ぱさらん)】
江戸時代以降の伝承に登場する、空気中をふわふわと飛び回る白い毛玉のような物体。正体は不明で、妖怪とも未確認生物とも言われる。所有者に幸福をもたらすとされ、その姿を探し求める者も多い。
「あら、どうもありがとうございます」
百貨店の二階だった。
その日、ボクはやんごとない事情があって、普段多用するDQN御用達の大型雑貨店ではなく、この高級かつ煌びやかな世界で買い物をしていた。
まあ、ようは知り合いに買い物の代行を頼まれたのだ。
百貨店の床は塵一つ落ちておらず、滑らかな石造りのタイルがつやつやと光っている。
それもそのはずだ。その百貨店では買い物客の邪魔にならないようにしながら、常に複数の作業員が清掃を行っていた。
高級な空間に目が慣れていないせいか、ボクはつい周囲のウインドウに並べられた服や鞄より、その作業服の人たちのほうに視線が向いてしまう。
その中でも、円形の大きなブラシをつけた芝刈り機みたいな機械が一番ボクの目を引いた。ブラシは小さな唸りを上げて回転し、それによって床を水拭きしているらしい。
機械はかなり大きく、取り回しが難しそうに見える。しかし小柄なおばさんがその機械を手慣れた様子でスムーズに動かしていた。
おばさんはお客さんたちの邪魔にならないよう、人通りの少ないエリアを選んで機械を動かしていく。ボクはちょうどそのおばさんの進行方向にいた。
ボクはおばさんがボクを避けて方向を変える前に、自分から道を譲った。何のことはない。ボクは電車にくぎ付けになる子供みたいに、機械がまっすぐにすべすべの床を這っていく様子をじっくり見たかっただけだ。
ボクが避けたことに気付くと、灰色の作業着を着たおばさんはにっこり笑ってお礼を言った。品のいい声だった。
ボクも頷いてそれに答え、壁際に立って機械が動いていくのを見つめる。しかしその時、おばさんの腰に挟まれていた黄色いタオルがぽとりと床に落ちたのに気付いた。
「あ、もしもし」
ボクはおばさんに声をかけ、近づいてタオルを拾い上げた。
「これ、落ちました」
ボクが黄色いタオルを差し出すと、おばさんがまじまじとボクの顔を見た。
「あら、まあ」
それからおばさんはにっこり笑って言った。
「お待ちしていました」
「へ?」
もちろんボクにはそのおばさんと何か約束した記憶も、待ち合わせをした記憶もない。ボクが首をかしげると、おばさんは口元に両手を添えてころころと笑った。
「すみません、何のことやら分かりませんよね。でも、私は個人的な用件であなたを待っていたんです」
「前に会ったことありましたっけ?」
ボクが聞くと、おばさんは薄く丁寧な化粧を施した顔を綻ばせて笑った。
「いいえ、今日が初めてです。でも私はずっとあなたを待っていました」
そう言うと、おばさんはポケットから小さな可愛い封筒を取り出した。
「そろそろ来るだろうと思って用意してたんです。これ、私の連絡先です。私はまだ仕事があるのですぐには抜け出せません。でもこの封筒の中に、電話番号と、メールアドレスと、SNSのIDを書いた紙を入れてあります。ご都合の良いものを選んで、あとで連絡をとっていただけないでしょうか」
ボクがぱちぱちと瞬きしていると、おばさんは綺麗な仕草で頭を下げて言った。
「突然不躾なことばかり言って申し訳ありません。でも、あなたが連絡をくれることを信じています。これもきっと、縁でしょうから」
それでは、と言い、おばさんは再び黄色いタオルを腰から下げて機械を押して行った。ボクは肩をすくめた。
斬新なナンパだ。
間違いなく変わった人ではある。だけどおばさんが持つ清潔な空気感と人の良さのせいだろうか、怪しげな感じはしない。何より、面白そうだ。
ボクは筆不精な方ではあるけれど、珍しくすぐさまおばさんの連絡先にメッセージを残した。
その日の夕方、さっそくボクは百貨店近くの喫茶店でおばさんと待ち合わせをしていた。
ボクが店に入ってすぐ、灰色の作業着から深緑色の丈の長いスカートに着替えたおばさんが現れた。おばさんは席に着くとボクに頭を下げた。
「本当にごめんなさいね。急にあんなことを言って、随分怪しかったでしょう? それにお時間もお取りしてしまって」
「いえ。どうせ暇だったので」
事実だ。無職のボクには、金はないが有り余る時間はある。
そこで店員が注文を取りに来た。おばさんはボクに向かって微笑んだ。
「もちろん、ここのお代は私が持ちますから、好きなものを頼んでちょうだいね」
お言葉に甘えて、ボクは普段は飲めないキャラメルマキアートを頼んだ。おばさんは紅茶を注文する。
すぐにそれぞれのドリンクが机の上に置かれ、ひとまずボク達は先にそちらに口をつけた。
おばさんは六十代くらいなのだろうか。年齢は重ねているけれど、背筋が伸びていて、紅茶を飲む仕草がとても優雅だった。
紅茶のカップを丁寧に置き、おばさんは口を開いた。
「せっかくこうして時間をいただいたけど、私にうまく説明できるかしら」
おばさんがほんの少し眉間に皺を寄せて言った。ボクは頷きながら答える。
「時間はあるので、ゆっくりどうぞ」
「親切にどうも」
おばさんは小さく頭を下げ、それから言葉をたぐるように続けた。
「私はずっと、『あの子』を受け継いでくれる先を探していたんです」
「『あの子』、ですか」
「ええ。私が体を壊したり死んでしまったりする前に、私は『あの子』の引継ぎ先を探す必要があったから。だから『あの子』に、どこに行きたいか聞いたんです。そしたら『あの子』は夢の中で教えてくれました。
その人はもうすぐ現れるって。
それから『あの子』は、その人は私が身に着けている黄色いものに関連して関わりを持つって教えてくれたわ。まさか、それが職場の掃除用のタオルだとは思わなかったけれど」
おばさんはそこで小さく笑い、それから続けた。
「でも、まさかではあったけれど、あなたの顔を見たら私も納得しました。きっとあなたが、『あの子』の求めていた人だって。言葉にはできない感覚だけど」
「『あの子』っていったい、なんですか?」
おばさんはふふっと笑って答えた。
「そのことを説明するため、差し支えなければ私の家まで来てもらえないかしら? この喫茶店から出てすぐ近くです」
ボクは頷いた。
おばさんの家は、喫茶店から歩いて十分くらいの場所にある小さなアパートだった。ボクの住んでいるあのおんぼろのアパートよりは当然綺麗だけど、それほど大きい建物でもない。
だけど、ボクはおばさんの後について部屋に入った瞬間、目を見張った。
そこには深呼吸をしたくなるほど清潔な空間が広がっていた。部屋の中は隅々まで掃除が行き届いて磨かれ、机の上に活けられた新鮮な花からいい匂いが漂っている。
家具や家電は全く高価なものではない。だけど愛着をもって、よく手入れされているのが分かった。
おばさんはボクを部屋に通すと、キッチンでやかんに火をかけながら言った。
「さっき喫茶店で飲んだばかりだけど、よろしければ何か飲み物をいれますね。コーヒー、紅茶、緑茶、それからココアなんかもありますけど」
「あ、じゃあココアで」
おばさんは手際よく粉を練ってココアを淹れ、そのカップを皺ひとつないテーブルクロスの上に置いてくれた。それから「ちょっと待ってくださいね」と言って、おばさんは奥の部屋に消えた。
リビングに戻ってきたおばさんの手には、小ぶりの桐の箱があった。
「これです」
おばさんはボクの前に箱を置いた。年月を感じさせる桐の箱の表面には、きりで開けたような小さな丸い穴がいくつか空いている。
「これは?」
「私も正確なことは良く分かりません。でも、世間ではケサランパサラン、なんて可愛い名前で呼ぶみたいですね」
ボクは箱の穴を覗き込んだ。だけど穴は小さすぎて、中の様子は見えない。
「あまり箱を開けてはいけないんです。開けていいのは一年に一度か二度だけ。見た目はなんというか、鳥の羽のような、うさぎの毛のような。とにかく小さくてふわふわとした、丸い毛の塊です。箱を開けると空気中をふわふわと飛び回って、本当に綺麗ですよ」
「引き継ぎたいのはこれですか」
「ええ」
おばさんは頷き、それから愛おしそうに桐の箱を撫でた。
「私も母から『この子』を受け継ぎました。母は、そのまた母から。ただ、受け継がれるのが親子間とは限りません。親子のときもあれば、そうじゃない時もあります。縁をたどって、はるか昔から『この子』は何人もの女性たちの間で受け継がれてきました。
といっても、難しいことはありません。たまにこの箱にあけた穴から上質なおしろいを与えてあげて、年に一度か二度外に出し、その他の時間は桐箱の外から大切に慈しんであげる。そうすれば、『この子』はゆっくりと成長します。
そして、『この子』は自分を育ててくれる女性に、小さな幸せをもたらしてくれるんです」
ボクはしばらくの間桐の箱を見つめ、それから顔を上げて聞いた。
「あなたも、幸せにしてもらったんですか?」
「ええ」
おばさんはにっこりと笑って頷いた。
「十分な幸せをもらいました。
世間様から見れば、私の人生なんて、取るに足らないつまらないものだろうと思います。学があるわけじゃなし、仕事もたいそうなものじゃありません。結婚もせず、子供を持つこともなかった。
それでも私は自信を持って言えます。私は幸せだ、と」
ボクは頷いた。
「ええ。見ていて分かります」
それを聞くと、おばさんは少女のように可愛らしく笑った。そして少しだけ真面目な顔をする。
「だけどね、一つ困ったことがあったの。
子供を持たなかったことに後悔はないけれど、子供がいないから『この子』をどこに受け継げばいいかが分からなかったの。それで、私は直接『この子』に聞くことにしたんです。
私が老いてどうしようもなくなる前に、あなたが次に行きたい場所を教えてって」
それからおばさんは桐の箱をそっとボクの方に向かって押し出した。
「そして、『この子』はあなたを選びました」
話は分かった。だけど箱を見ながら、ボクは正直困惑していた。しばらくの間桐の箱を見つめた後、ボクは答えた。
「受け取れません」
「どうして?」
「何となく、分かるんです。ボクはきっと『これ』にふさわしくありません。
それにあなたほど、『これ』を大切にしてあげられる自信もない」
「あら、勘違いさせてしまったわね」
おばさんはそう言って、またころころと笑った。
「あなたは『この子』に選ばれた。だけど、あなたに受け継いでほしいというわけじゃないの。『この子』は、あなたの手に渡ることで、あなたが別の必要な人に縁をつないでくれるはずだって思ってるみたい」
それからおばさんは机の上に置いていたボクの両手にそっと自分の手を添えた。おばさんの手は細く、温かかった。
「お願いよ。『この子』を受け取ってちょうだい。それから、あなたがこの人だと思う人へ、『この子』を受け継いでほしいの」
やがて、ボクは頷いた。
家に帰り、玄関で靴を脱いでいると電話が鳴った。電話は母さんからだった。
「もしもし」
「ああ、母さん。久しぶりだね」
「久しぶり。元気にしてる?」
「うん。それなりに」
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
「もちろん」
「野菜も摂ってるんでしょうね?」
「あー」
ボクは自分の食生活を振り返って言葉に詰まった。電話の向こう側で母さんが溜息をつく。
「まあ、生きてればそれでいいわ」
我が親ながら、ハードルが低くてありがたい。
「どうも。それで、どうしたの? 何か用?」
「ああ、そうだった。あんたの従姉の美咲ちゃんの話よ」
「うん」
しばらく会っていないけれど、美咲ちゃんはボクの六つ上の従姉だ。
「ずっと不妊治療を頑張ってたらしくて、やっと子供を授かったんだって。それも、双子の女の子。安定期に入ったからってうちにも報告しに来てくれたの」
母さんの声が嬉しそうに華やぐ。ボクも小さく笑顔を作って頷いた。
「そっか」
ボクは彼女の顔を思い浮かべた。彼女はボクと違って、おっとりとしていて性格のいい、素敵な女の子だ。
「それでお祝いの相談をしようと思って電話したのよ」
「うん」
ボクはしばらくの間母さんの話に相槌を打った。それからふと思いつき、最後に言う。
「そうだ、美咲ちゃんに伝えて欲しいことがあるんだ」
「なあに?」
「美咲ちゃんに渡したいものがあるから、今度そっちに行ったときに持っていくって、そう伝えておいて」
ボクの胸元で、桐箱の中のそいつがふわふわと揺れる気配を感じた。
―第8話 ケサランパサラン 【完】
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