第7話 以津真天
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【以津真天(いつまで)】
その昔疫病が流行した際、その死体の周囲に怪しげな鳥が現れ、死体をいつまで放置するのか、との意趣で「いつまで、いつまで」と鳴いたとされる。また疫病に限らず、戦争や飢餓で多くの人々が亡くなった際にも現れるようである。
―いつまで、いつまで。
珍しい鳥が飛んでいた。
新しく売り出したスイーツ目当てに、いつもと違うコンビニに向かう途中だった。鳥の鳴き声につられてボクが顔を上げると、頭上を小鳥が飛んでいた。
セキセイインコやカナリアなんかを一回り大きくしたサイズの鳥だ。だけど小鳥にしてはやけに嘴が鋭い。さらに羽は血のように鮮やかな赤色で、目の周りだけがくっきりと緑色の羽で覆われていた。
鳴き声といい、見た目といい、見たことのない鳥だ。ボクは思った。
また幻覚か。
さすがに、そろそろボクも自分の幻覚には慣れっこになってきていた。
―いつまで、いつまで。
そいつはまた独特の鳴き声をあげ、ボクの横をついっと飛んで近くの家の塀に止まった。
ああ、この家か。
その家は普段引きこもりがちなボクでも知っている、いわゆるゴミ屋敷だった。
朽ち果てそうな木造の壁とブロック塀の間に、これでもかというくらい壊れた家電や満杯のゴミ袋が積み重ねられている。恐らく家の中も同じ状態なのだろう。すりガラスの窓越しにも、雑多な物たちのシルエットが積みあがっているのが見えた。
さらにそのゴミ屋敷は、普通のゴミ屋敷よりももっと異様だった。ゴミが積んであるだけではなく、家の周囲のそこかしこが異様な装飾でデコレーションされているのだ。
最初に目につくのは無数のCDだ。雨どいから数えきれないほどのCDが吊り下げられ、家の周囲の光をちかちかと乱反射させている。
もう一つの特徴的な装飾は、これまた無数に置かれた動物の置物だった。
よく家の庭先に置いてあるような陶器の犬に始まり、招き猫、木に描かれた虎、果ては木彫りの熊まで、すべての動物が家の外を見張るようにぐるりと外を向いて置かれている。
さらにゴミ屋敷だけあって、当然家の周りにはゴミとその他雑多な汚物を煮詰めたような、何とも言えない悪臭が漂っている。できることならあまり近づきたくないタイプの家だった。
しかし赤い鳥はそんなことお構いなしといった様子で、涼しげな顔をして塀の上でくつろいでいる。鳥は羽に嘴を突っ込んで毛づくろいをした後、また顔を上げて高らかに鳴いた。
―いつまで、いつまで、いつまで。
「ああ、うるさいうるさい」
突然、がらっと大きな音を立ててゴミ屋敷の引き戸が開いた。そこから出てきたのは、昔話に出てくる山姥みたいな老婆だった。
着古してボロボロの服を羽織り、白髪交じりのくせ毛があっちこっちに向かって伸びている。老婆の顔面では、皺だらけの皮膚が重力に負けて垂れ下がっていた。
老婆は手に持っていた箒を頭上に掲げ、その先を赤い鳥に向けて振り払った。
「ちくしょう、あっちへ行きな」
老婆に追われて赤い鳥が飛び上がる。しかしそいつはゴミ屋敷から離れる気がないようだ。赤い鳥は老婆の手の届かない高さで弧を描くように飛び、再び鳴いた。
―いつまで、いつまで。
「黙れ、黙れ黙れ」
老婆が地団太を踏んで叫んだ。その顔が怒りのせいで赤黒く変色する。
ふと老婆がボクの方を振り返った。ボクが無遠慮に彼女のことを見ていたのに気付いたらしい。
「ふん」
老婆はボクのことを鋭い目つきで睨み、それからゴミ屋敷の引き戸の向こう側に消えていった。
老婆が去り、再び赤い鳥がゴミ屋敷の塀に止まる。
ボクはまじまじと鳥を見た。別に悪さをしそうにもない、ただの鳥なんだけどな。ボクは思った。
そんなに目の敵にすることないのになあ。
コンビニからの帰り道、ボクが再びゴミ屋敷の横を通ると、ちょうど誰かが老婆のもとを訪ねて来たところらしかった。
地味なスーツに、首からバインダーを下げた男だった。見た目からしていかにも役所か何かの人間らしい。
「あのですね、何度も申し訳ないんですけれども」
役人らしき男が眼鏡の上の眉を八の字に下げ、腰を低くして言う。
「また近隣の住民の方から苦情が来ていまして。やっぱりこれだけのゴミがありますと、臭いや虫の問題もありますし、それに放火のリスクも…」
「うるさいね」
老婆は役人に向かって唾を飛ばしそうな勢いで叫んだ。
「ゴミだなんて、なんて失礼なんだい。この家のものは全部必要なものなんだよ」
「そう、言いましても」
男が言葉に詰まった隙に、老婆が怒涛のように主張を始める。
「人の必要なものをゴミだとかなんだとか馬鹿なことを言ってないで、もっと役に立つことをしたらどうだい。何度も言ってるだろう? さっさとあの邪魔な鳥を駆除しとくれよ」
そう言って老婆は鋭い動きで塀の上の赤い鳥を指さした。
「ずっとうちの周りを飛び回って、うるさくってしょうがないんだ。追い払っても、鳥よけを置いても、何をしても効きやしない」
その言葉を聞いて合点がいった。
ゴミ屋敷を取り囲むあの奇妙なオブジェたち―無数のCDや動物の置物たち―は、鳥よけだったらしい。でも老婆の言う通り、あの鳥に対して全く効果はなさそうだ。
赤い鳥が悠々と鳴く。
―いつまで、いつまで。
「あああ」
老婆が目玉をひん剥いて髪を掻きむしった。
「ああ、また鳴いた。うるさいうるさいうるさい。早く何とかしとくれよ」
役所の人がぐったりと疲れたように言う。
「前にも言いましたけど、おばあちゃんの言う鳥なんてどこにもいませんよ。おばあちゃんの気のせいです」
「そんなわけないじゃないか」
老婆が爆ぜるように激しく言った。
「役に立たない男だね。誰が払った税金でお賃金もらってると思ってんだい。何もできないならとっとと帰りな」
そう言って老婆は物凄い剣幕で役人の男を追い返した。
役人が姿を消すと、老婆の目が今度はくるりとボクの方を見た。老婆はしわがれた高い声で叫んだ。
「またあんたかい。いつまで見てるんだ。見世物じゃないよ」
「はあ」
ボクは大人しく立ち去ろうとした。けれど、その前にふと気になって足を止める。
「ただの鳥なのに」
「ああん?」
老婆がうっとうしそうに答える。ボクは続けた。
「ただの綺麗な鳥なのに、何がそんなに癪に障るんですか?」
老婆は一瞬の間のあと、吐き捨てるように言った。
「うるさいからに決まってるじゃないか」
ボクは首をかしげた。
「そんなにうるさいですかね。確かに、聞きなじみのない鳴き声ではありますけど」
それからボクは半分独り言のように言った。
「『いつまで、いつまで』って、あれはどういう意味なんでしょう」
老婆は何も答えない。ボクは一人で呟き続ける。
「いつまでそうしているの? ってことなんでしょうか」
その瞬間、老婆が目を見開いてわなわなと震えた。だけどボクは老婆の様子を心配するより、自分の知的好奇心を優先した。
「そういえばあの鳥、特に二階の角部屋のあたりを気にしているみたいねすね」
ボクは鳥の視線を追って言った。しかし老婆は答えない。ただ固唾をのんでボクを見ている。
ボクは老婆に向かって聞いた。
「あそこに、何かあの鳥の気を引くものがあるんですか?」
「やめて」
老婆はそれまでの威勢のよさをどこへやったのか、急にか細い声を出した。
老婆の背がさっきよりも一回りも二回りも縮んでしまったように見える。老婆は震えながらボクに向かって両手を合わせた。
「堪忍してちょうだい」
「堪忍? 何をです?」
ボクがそう聞くと、老婆は合わせた両手に力を込め、震える唇を動かして言った。
「うちの家の中のことを、これ以上見ないでちょうだい」
さっきまでとは凄い変わりようだ。老婆は小さな背中を丸め、血の気の失せた顔を伏せて両手を合わせ続けている。
ボクはなんだか可哀そうになって、それ以上問い詰めるのをやめた。黙って頭を下げ、その場を立ち去る。
少し歩いた先でこっそり振り返ると、老婆は紐が切れて地面に落ちてしまったCDをせっせと結びなおしていた。
多分失礼な話ではあるけれど、ボクはつい考えてしまった。
あの老婆は何が楽しくて生きているんだろうか。
悪臭とゴミにまみれた家に一人で暮らし、役人から注意を受け、怒鳴り返し、鳥の鳴き声にノイローゼになりながら生きる。
ボクにはその人生の喜びが分からない。それでも老婆はその生活にしがみつき、守り抜こうとしているように思えた。
いったい何がそうさせるのだろう。何か後戻りできない事情でもあるのだろうか。
そこまで考えて、ボクはふっと肩の力を抜いた。
まあ、そんなの人の勝手か。
ボクは歩きながら腕を伸ばして肩のストレッチをした。
世の中にはいろんな人間がいる。ボク以外の人間の考えなんて、分かろうとする方がおこがましいに違いない。
その日の夕方だった。ボクがベッドの上でだらだらスマホをいじっていると、近くで消防車のサイレンが聞こえた。
あまりに音が近かったので、ボクはベランダに出て外の様子を伺った。確かに、少し先の住宅街から黒色の煙が上がっている。ボクの方向感覚が間違っていなければ、どうもあれはあのゴミ屋敷の方に思えた。
燃えているのがあのゴミ屋敷だと決まったわけではないけれど、ボクは瞼にあのゴミ屋敷を思い浮かべて思った。
あの家、いかにも良く燃えそうだもんなあ。
しかしボクはそれほど善人というわけではない。その後すぐに他人の家の火事のことなど忘れてしまった。
再び火事のことを思い出したのは、夜に風呂に入った後、夜食の袋ラーメンをすすっている時だった。
テレビをつけたまま流し見していたニュース番組に、あの老婆が住んでいるゴミ屋敷が映ったのだ。ボクは思わずテレビに目を向けた。
ニュースの主眼は火事そのものではなかった。火事自体はすぐに消し止められ、周囲のゴミと外壁が燃えた程度ですんだらしい。しかし、消火にあたっていた消防隊員が見つけてしまったのだ。
あのゴミ屋敷の二階に、一部が白骨化した死体が横たえられているのを。
スタジオの中年のレポーターが喋る。
「警察はこの家に住む五十代の女を死体遺棄の容疑で逮捕しました。遺体は容疑者の父親である高木幸之助さんとみられ、警察は娘の高木景子容疑者に詳しく事情を聞いています」
画面の右に容疑者の顔写真が映った。平凡な、優しそうな顔の女性だ。今の容貌とはかけはなれているが、目鼻立ちにあの老婆の面影があった。若いころの写真なのかもしれない。
ボクはあの老婆が五十代だったことに驚いた。老婆の見た目は八十歳と言われてもおかしくなかったからだ。
中年のレポーターの説明を受け、落ち着いた雰囲気の若い女性アナウンサーが続ける。
「亡くなった高木幸之助さんの年金を不正に受給するため、遺体を届け出ず家の中に放置していたとの情報もありますね。しかし住宅街で遺体が長期間そのままにされ、周囲の人が気付くことはなかったのでしょうか」
「容疑者の家は近隣でも有名な、いわゆるゴミ屋敷だったようです。近所の方の話では、高木幸之助さんを見かけなくなった時期と、容疑者の家にゴミが溜まりはじめた時期とが一致するそうです。容疑者は遺体をカモフラージュするため、家にゴミを溜めていった可能性もあります」
「なるほど。さて、ここで現場から中継です」
画面が切り替わり、投光器で照らされたゴミ屋敷の様子が映る。マイクを持ったレポーターが大きな身振りでゴミ屋敷を指し示した。
「こちらが高木景子容疑者の自宅です。御覧の通り、自宅周辺には私の背丈以上のゴミが積まれ、その一部が黒く焦げています」
おや、とボクは眉を上げた。
焼けて崩れ落ちた外壁とゴミの間に、赤い羽根が見えた気がしたからだ。
目を凝らして画面を見ていると、その場所の瓦礫がかたかたと動いた。
何となく気になり、ボクは立ち上がった。
ゴミ屋敷の周りはテレビクルーや野次馬、それから警察でごった返していた。
家の周りには黄色い規制線が張られている。ボクはそのぎりぎりまで近づいて家の様子を伺った。
目を凝らしたけれど、テレビで見えた気がした赤い羽根は見つからない。やっぱり気のせいだったのだろうか。
ボクが家に帰ろうとした時だった。
瓦礫の一つがかすかに動いた。気のせいじゃなかったみたいだ。
ボクは規制線のテープをくぐって瓦礫のもとへ駆け寄った。
「おい、こら。何をやっているんだ」
近くにいた警察が鋭い声をあげる。ボクは警察がこっちまで来る前にそっと瓦礫を持ち上げた。
ボクの思った通り、そこには赤い羽根の鳥が横たわっていた。火事で崩落した外壁に巻き込まれたのかもしれない。ボクが両手で包み込むようにそいつを持ち上げると、そいつは弱々しく目をあけてボクの方を見た。
「線の向こうに戻れ」
警察がボクの肩を掴む。ボクは両手でそいつの体を隠して立ち上がった。
「すみません、なんか間違えちゃいました。今出まーす」
ボクは警察にそれ以上言われる前に、さっさと駆け足でその場を後にした。
家に帰って足を引っかけて靴を脱ぐと、ボクは洗面所からタオルを取り出した。そのタオルで鳥をくるみ、リビングの床に置く。ボクはぐったりと横たわるそいつの体を確かめた。
そいつの羽は先の方が一部焦げ、瓦礫に挟まれたのか右足に血の付いた傷があった。大きな傷はないようだけど、長時間瓦礫の下に閉じ込められて体力を失ったのだろう。
いつの間にか、四つ足のボサボサ髪のやつが、ボクがタンスの奥にしまいこんだきり忘れていた消毒液と包帯を口にくわえて持ってきていた。ボクはそれを受け取り、鳥の足の傷を処置してやった。
それからペットボトルのキャップに入れた水を差しだすと、そいつは弱々しい動きで嘴の先を水につけて飲み、そしてボクの方を見て小さく鳴いた。
―けきょ、けきょ。
随分と普通の鳥らしい鳴き声だ。ボクは気が付いて言った。
「そっか。もう『いつまで』って鳴く必要はないもんな」
多分あいつは、あそこに死体があることを教えるために鳴いていたのだろう。
いつまで死体を置いておくの? 早く埋葬してあげて、と。
水を飲み終わると、そいつは横になったまま羽に顔を埋めて眠りについた。
それを見て、僕も電気を消して眠ることにした。
「おやすみ。早く元気になれよ」
そして翌朝、ボクはいつもよりもかなり早い時間に目が覚めた。
キッチンから響く元気な鳴き声に起こされたからだ。
―いつまで、いつまで。
寝ぼけ眼でキッチンに向かうと、どうやったのか赤い鳥が冷蔵庫を開け、その中に体を突っ込んでいた。冷蔵庫の周りにはボクがしまっていた食材が放り投げられ、散らばっている。
―いつまで、いつまで。
そいつは鳴きながら、新しく納豆のパックを外に放り出した。
「ちょ、やめろ。散らかすな」
ボクは床から納豆のパックを拾い上げて気付いた。
「もしかしてお前、賞味期限切れのものを取り出してるのか?」
ボクが聞いている間に、随分前に買ったわさびのチューブがぽいっと放り投げられた。
ボクは反抗してわさびを冷蔵庫の中に戻す。
「わさびなんてな、薬味だから腐らないんだよ。それに一人暮らしでわさびのチューブを使い切るのがどれだけ大変か、分かってるのか?」
そいつが諦めずにまたわさびのチューブを投げ捨てる。ボクはそれが床に落ちる前にキャッチして言った。
「納豆もだぞ。納豆はな、もう腐ってるから賞味期限なんか関係ないんだ」
しかしそいつはボクの言い分を聞き入れる様子はない。
―いつまで、いつまで。
こうしてボクの家に、新たに賞味期限警察が誕生した。
―第7話 以津真天 【完】
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