第6話 猿神(後編)

※YouTubeで本作の朗読動画を視聴可能

 リンク:https://youtu.be/Cw6nziLdN08

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「ちょ、ちょっと、休憩させてくれい」


「もうすぐウチに着く。我慢しろ」


 ボクは背中にひもで括り付けた本棚を背負い、家に向かう坂を上っていた。


 大猿はボクが背負った本棚の下にもぐりこみ、腰を低くかがめながら本棚の全重量を支えて這っている。


「この体勢、無理が、ある、ぞ」


「周りから変に思われずに運ぼうと思ったら、これしか無かったんだ。ほら、ここがボクのアパートだ。階段上るぞ」


「ひいい」


 大猿はその体格に見合わないか細い悲鳴を上げた。




「ただいま」


 ボクがドアを開けると、部屋の住民たちが物珍しそうに大猿のことを見上げた。


 ボクは大猿に指示を出して本棚を設置させ、それからやっと冷蔵庫から出した麦茶を片手に床に座ってくつろいだ。


「ああ、疲れた」


「それはこっちのセリフだ」


 大猿が肩を揉みしだきながらボクの前で胡坐をかく。それからふと思いついたように居住まいを正し、ボクに向かって烏帽子を被った頭を下げた。




「遅くなったが、改めて礼を言う。あのままでは本当に危ないところだった」


 ボクはコップの麦茶を飲み干し、それから聞いた。


「なんだってあんなことになってたんだ?」


 ボクがそう聞くと、大猿は何となく気まずそうな顔をした。それを見て、ボクは大猿のことを睨みつけた。


「なにか悪どいことを考えていたのか?」


 大猿は慌てて両手を振った。


「いや、違う。違うんだ。ただ、恥ずかしながら、何というか。我ら眷属は、どうも女好きでな」


「はあ」


 話の流れが見えず、ボクは曖昧に頷いた。


「俺達は基本は山にいるが、時折人間の里に下りてくるのだ」


「人間に用があって?」


「その、えーと。人間の可愛い女の子とデートとかしたいなー、と思って」


 ボクはねじ切れそうになるまで首をひねってから答えた。


「そいつは無理じゃないか?」


 大猿は上等な着物と烏帽子を着こんでおり、身なりこそきちんとしていたが、その中の本体は毛むくじゃらで赤ら顔のただの猿だ。あと臭い。


「いや仰る通りで、このままの姿じゃ無理だ。そこは否定しない。


 そもそも普通の人間には俺たちの姿が見えないからな。


 だから俺たちは人間の男に憑依して、その男に女の子とデートしてもらうんだ。憑依をすれば感覚も一体化するから、俺も臨場感たっぷりで女の子とのデートを楽しめる」


 ボクは腕組みをして眉間に皺をよせた。


「それって、覗きじゃないか」


 どうあがいてもコンプラ違反だ。ボクが睨みつけると、大猿は目じりを情けないほど下げて答えた。


「そう言うな。昔はもっと過激なことをする同胞もいたんだが、いろいろと人間とやりあった末に、これが一番平和的だということで落ち着いたんだ」


「まあいい。それで、なんで女の子とデートしたいドスケベ猿が、通り魔の背中に張り付いてたんだ?」


「実は一週間ほど前、俺は久しぶりに街に降りてきて憑依先の男を見繕っていたのだ。その時、俺の前を通りがかったのがあの男だった。


 あの男、身なりには気を使っていないようだが、よくよく見るとイケメンじゃろ?


 それに、俺が中に入ることのできる人間は限られている。ある程度波長が合う人間でなければ憑依できないのだ。幸い、男と俺の波長は合うようだった。


 俺はちょうどいい憑依先を見つけたと喜び、早速中に入った。


 だが、それから何日経っても、男は一向に女と遊ぶ様子がない。朝から晩まで女のいない職場で機械を触り、安い飯を食って家で寝るだけの生活だ。


 しびれを切らした俺は、とうとう男を少し操ることにした。といっても、中から俺ができることは限られている。


 男をほんの少し情熱的にさせてやったのだ。


 知り合いの女に声をかけたり、ナンパしたりしやすくなるようにな。


 いつもだったらそれで上手くいっている。だがあの男は違った。


 あの男は、俺が想像もしない黒々とした穴を心の中に隠し持っていたのだ。


 俺が男に手をかけた瞬間、その穴が周囲の憎しみや恨みを次々に吸い込んで膨れ上がり、果てには俺のことまで取り込もうとした」


 そこで大猿はさっきのことを思い出したのだろう。ぶるりと毛皮を震わせた。


 ボクは大猿に聞いた。


「その黒い穴ってなんだったんだ?」


「あの男は、心の奥底で女を憎んでいた。お前が気付いていたかどうかはしらないが、刃物を振り回している時、あの男は女ばかりを狙っていた」


 大猿は重たいものを吐き出すように深く息をつき、それからまた続けた。


「あの男はかなり苦労の多い人生を歩んできていた。どういう星のもとに生まれついたのか、その苦労には、何らかの形で女が絡んでいたんだ。


 奴ははなかなかの上流家庭の生まれだった。しかしあいつは年子の妹とずっと差別されて育てられた。あいつは成績優秀だったし、家の資金も問題ない。それなのに、あいつは大学に行くことも許されなかった。


 妹が金のかかる私学に行くのは一も二もなく許されたにも関わらず、だ。


 あいつは高校卒業とともに家を追い出され、それでも就きたい仕事につくためいろいろと苦労して面接を受けた。だがそこで、面接官はあいつをけんもほろろに扱った。


 どうやら、その職場が求めていたのは女の社員だけだったらしい。求人票に女性限定と書くと行政から指摘が入るので、表面上は男女ともに募集するし面接もする。


 だが実際には、男のあいつに面接をするのは時間の無駄だってわけだ。


 女だったらすぐに採用したのに残念だったな、とにやにや笑いながら言われたらしい。


 だがあいつはそれでもめげずに就職活動を続け、希望職種には就けなかったものの正社員として働き始めた。勤勉な勤務態度が認められ、昇格も見えていたらしい。


 しかしそのタイミングで、あいつは通勤途中の電車の中で金目当ての女に痴漢冤罪を仕立て上げられ、示談金を分捕られた。それだけではなく、そのことが会社の耳に入ってせっかくの仕事をクビになった。


 それからは非正規の職を転々とし、今は低賃金にも関わらず長時間労働を強いられる仕事で、ぼろぼろになりながらも何とか食いつないでいる。


 そこに母親から電話が入った。妹が大学時代の同級生と結婚することになったらしく、母親はあいつに妹のための多額の祝儀を用意するよう要求した。


 しかし男にそんな金が用意できるわけはなかった。何とか減額してもらえないかお願いすると、母親は怒って言った。


 結婚もできない甲斐性なしなんだから、祝儀ぐらい出して人に貢献しなさい、と」


 大猿は膝の上に置いた手にぐっと力を込めた。


「俺が奴の中に入ったのは、ちょうどそのタイミングだった。


 だが奴は自分の心に巣食うヘドロを何とか閉じ込めようと、必死に自分の気持ちに蓋をしていたらしい。だから俺も最初は気付かなかった。


 俺がやっと気づいたのは、俺の手出しのせいでアイツが暴走を始めてからだ」


 そして大猿は小さく首を振った。


「中に入ると分かるんだが、アイツは根がいいやつなんだ。アイツの境遇からすると信じられないくらいに。


 いろいろな苦労をしながらも、アイツは常に、女のすべてが自分勝手で悪い人間なわけではないと自分に言い聞かせていた。


 女にもいろいろな人間がいて、あいつみたいに苦しんでいる女もいれば、様々な事情を抱えた女もいる。女を一括りにして恨むのは、あまりに不合理だ、と。


 だが頭ではそう思っていても、抑えきれない思いは心の中で燻ぶる。そしてその燻ぶりを俺が燃え上がらせてしまったのだ。


 あいつは自分の境遇に負けず、必死に『人間』であろうとしていたのに」


 そして大猿は拳でどしんと自分の膝を叩いた。


「俺が変なちょっかいを出さなければ、アイツはぎりぎりのところで耐えていたのかもしれない。だとしたら、俺があいつの人生を狂わせたも同然だ」


 それから大猿はボクの方に向き直り、深々と頭を下げた。


「頼みがある。あいつに謝りにいきたいんだ。力を貸してくれないか」


「えー」


 ボクの口から気の進まないことがまるわかりの声が出た。大猿が慌てたように言葉を続ける。


「俺の姿が見えるのはお前くらいだ。俺があの男を操った時、男も俺の存在くらいはなんとなく感じたかもしれない。だがあの男は俺の姿を見ることも、声を聴くこともできない。だから、お前に橋渡しをして欲しいのだ」


「うーん」


 ボクは座ったまま手を後ろに伸ばして上を向いた。そして天井を見上げたまま呟く。


「エアコンの掃除」


「はあ?」


「壊れた本棚の運搬。あと布団もそろそろ干すか」


 困惑する大猿を前に、ボクは続けた。


「全部終わったら付き合ってやるよ」


 猿はボクの意図に気付いたようで、一瞬顔をしかめた。


「これでも曲りなりにも神の眷属なんだが、良いように使ってくれるな」


「女好きの猿なんて、神っていうよりコメディの登場人物だろ。いや登場猿か。気取ってんじゃねえぞ」


 ボクがそう言うと大猿は呆れた顔で僕を見て、それからくつくつと笑った。


「まあ、人間に成敗された同族達よりはマシだな」


それから大猿は僕に毛深い手を差し出した。


「交渉成立だ」


 ボクもその手を握り返そうと、自分の手を伸ばす。だが途中で手を止める。


「臭い」


「え?」


「臭すぎて、正直触りたくない」


 大猿が袖を上げ、くんくんと脇の下あたりを嗅ぐ。


「そうか?」


「交渉成立に異論はない。だけど先に風呂で念入りに体を洗ってこい」


 それからボクは言った。


「そしたら握手してやるよ」


 猿はがっくりとうなだれて頷いた。


「分かった。湯を借りよう」




 大猿が風呂場に入ると、中で大猿が喋っているのが聞こえた。


「なんだ? 他の部屋に比べて、やけに風呂場だけ綺麗だな」


 次の瞬間、大猿は情けない叫び声を上げた。


「なんだお前。やめろ、舐めるな。そこはやめてくれ。いたたたた」


 あちゃあ。


 生き物は舐めないと思ったけど、生き物と認識できないくらい汚かったんだろうか。


 ボクは唇をへの字に曲げた。


 排水口の汚れを舐めるくらいだから大丈夫だと思うけど、腹を壊さないか、ちょっと心配だ。しばらく様子を見ておいてやることにしよう。




 三日後、ボクと大猿は留置所を訪れた。事件の容疑者として逮捕され、拘留されているあの男に面会を申し込むためだ。


「こちらの部屋にどうぞ」


 諸々の手続きの後、ボクは警官に案内されて殺風景な小部屋に入った。真ん中に透明な板の仕切りがある。しばらくして、仕切りの向こう側に、あの男が警官に連れられて入ってきた。


 男はもうあのイッた目はしておらず、落ち着いた目を大人しく伏せていた。前に見た時より髭が伸び、頬がこけている。


 男はボクの前に腰を下ろし、そこで初めて顔を上げた。その途端にはっとした表情をする。


「あなたは」


 男は言った。


「実を言うと犯行当時の記憶が曖昧なのですが、あなたのことは薄っすらと覚えています。僕を止めてくれた方ですよね?」


 ボクは返事をしない。それでも男はアクリル板越しに深く頭を下げた。


「ありがとうございます。お陰様で、僕は誰も傷つけずにすみました」


「それは何より」


 ボクが頷くと、男は眉を下げて不思議そうな目で聞いた。


「それで、今日はどうしてここに?」


「伝言がありまして」


「伝言、ですか? どなたから?」


「獣臭い猿です」


 ボクがそう言うと、男の目が大きく見開かれた。


「あれは、僕の夢じゃ」


「夢か幻覚かはボクにも分かりませんが」


 ボクは腕組みをして言った。


「とにかく、力仕事をやってもらう代わりに伝言を言付かっちゃいましたからね」


 そこでボクは隣に立っていた大猿の方を向いた。大猿が頷き、男に伝えたい言葉をボクの頭の中に語り掛け始める。ボクはその言葉をそのまま口に出した。


「えーと。


『本当に申し訳ないことをした。今回の件はお前のせいじゃない。俺のせいだ。俺は人間の取り決めに詳しくないので、お前がどの程度の罪に問われるのか正直分かっていない。


 だがお前が塀の中から出てきた暁には、お前が自分の人生を取り戻せるようにできる限りのことをする。だから許してほしい』


 と。ん? 何? それからもう一つ? えっと。


『お前の境遇は確かにひどいものだった。だがその中で耐えていたのは、お前の理性の力だ。お前は気骨のある男だ。自信を持っていい。


 あと、自分じゃ気付いていないかもしれないが、お前は結構イケメンだぞ。落ち着いたらお洒落の一つでもしてみろ。その時は俺が何とかしてアドバイスをしてやる』


 だってさ」


 男は瞬きをして、それから頬をゆるめた。


「あっは」


 男の頬に急に光が差す。イケメンなのかどうかはボクには分からないが、確かにきちんと身なりを構えば爽やかな容貌になるような気がした。


「全部、僕の夢だと思ってました。随分都合のいい夢をみたもんだなぁって。自分の汚い心が起こした行動を、全部他人のせいにするための」


 それから男はしみじみと言った。


「不思議なこともあるものですね。


 僕は多くの人に怖い思いをさせてしまった。そのことは悔いるべきだと思います。


 ただ不謹慎かもしれませんが、こうしてあなたを通し、彼とお話しできるのは僕の人生の中で最良の出来事かもしれないと感じています」


「へえ、前向きだね」


「ええ。あの一件があったから、僕は改めて自分を見つめなおすことができました。

僕は自分なりに精一杯頑張っているつもりだった。それでもまだまだ、人としての器が足りていなかったんです」


 それから男はボクを見上げるようにして言った。


「あの、僕も彼に伝えたいことがあるんです。お願いしても良いでしょうか」


 ボクは頷いた。


「よろしくお願いします。彼に伝えてください。


『僕の人生が上手くいかなかったのは、すべて僕のせいです。でも僕はそれを認めたくなくて、独りよがりの憎しみや恨みを溜め込んでしまっていました。


 そしてそのせいで、僕の暗い心に彼まで巻き込んでしまった。


 確かに、きっかけを作ったのは彼かもしれません。でも、遅かれ早かれ僕はああやって醜い心を発散させていたと思います。僕がまだまだ、弱かったから。


 僕はしばらくの間、塀の中で自分を見つめなおします。


 罪を償った後、どうやればいいか分かりませんが、ぜひご挨拶にいかせてください』、と」




 留置所を出ると、ボクに付いてきていた猿が晴れ晴れした顔で言った。


「礼を言う。これで思い残すことはない。俺はまたしばらくの間山に籠ることにするよ」


「もう来ないわけじゃないんだな」


「そうだな。あー、やっぱり」


 そう言って猿は頬を書いた。


「人間の女と遊びたいからなぁ。山には雌猿しかおらんのだ」


 それから猿は懐に手を入れて葉っぱを取り出した。大猿が葉っぱにふっと息を吹きかけると、葉っぱがみるみるうちに畳くらいの大きさまで広がる。


 大猿はその葉っぱの上に乗り、ふわりと浮かびあがった。


「何かあったら呼べ。お前なら呼び方は分かるはずだ。いつでも力になろう」


 ボクは葉っぱにのった大猿を見上げて言った。


「換気扇の掃除とかでもいいか?」


 大猿が苦々しく笑って答えた。


「もうちょっと大事な用事の時だけにしてくれ」




 そして大猿は葉っぱを駆り、風のような速さで空を駆け抜けていった。


 あとにはボクと、獣臭い幻覚、いや幻臭だけが残される。ボクは思った。


 臭いも一緒に連れてってくれりゃいいのに。


 ボクは肩をすくめ、それから少しでも自分についた臭いを落とそうと、その場でぱたぱたと服をはたき始めた。




―第6話 猿神 【完】

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