第4話 おとろし
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【おとろし(おとろし)】
画図百鬼夜行や百怪図巻などの複数の文献で描かれるが、いずれも解説文は一切なく、詳細は不明である。但し、その姿は大きな顔を持ち、長い前髪を顔の前に垂らしたものとして現されることが多い。
「恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい」
私はただひたすら走った。何としてでもその恐ろしさから逃げ出したくて。
心臓が壊れそうなほどに脈を打ち、空気をうまく吸えなくなった肺が悲鳴を上げる。それでも私は足を止められない。
どこに逃げたって無駄なのに。
「あれ」はいつだって、ぴったりと私に付いてくる。家の中でも、道端でも、職場でも。
そして「あれ」は私を睨む。その目を見るたびに私の髪の毛はぞっと怖気立ち、背中を氷が滑っていくみたいに体中が冷たくなる。
それはきっと、死ぬよりももっと怖い。
すぐそばに交番があるのに気付き、私は転がるようにして中に駆け込んだ。
中にいた警官が何事かというように目を丸くして立ち上がる。その青い制服に向かって私は叫んだ。
「助けてください」
警官が咄嗟に私をかばうように駆け寄る。
「どうかしましたか?」
私はその警官にすがりつくようにして言った。
「恐ろしいんです」
警官が私を交番の奥の方へ寄せながら、注意深く交番の外を見回す。視線を外に向けたまま警官が聞いた。
「落ち着いてください。何が恐ろしいんですか?」
「『あれ』です」
私は震える指先で外を指さした。そこには「あれ」がいた。「あれ」は道沿いのブロック塀の上から私のことをじっと見下ろしている。
「あの黒い、恐ろしいものが、ずっとずっと私を追いかけて」
警官が私の指さす方を確認して、それから困惑したような表情で振り向いた。
「なんだ。ただのカラスじゃないですか」
私は体中の力が抜けるような絶望感に苛まれた。
この警官にも見えないのだ。
私以外の誰にも、「あれ」のあの恐ろしい姿は見えない。塀の上で「あれ」がぼさぼさの髪を揺らしながら私をせせら笑うのが見えた。
私は警官を体当たりするように押しのけ、交番の外に走り出た。
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
誰に聞いても、「あれ」が見えると答える人はいない。
私が「あれ」を指さすと、皆揃って呆れたように、あれは木だとか、ゴミだとか、雲だとか答える。それが分かっていながら、私はこの恐ろしさを一人では抱えきれない。
私は次々に人を頼り、そして当然のように誰にも助けてもらえないまま、ただ一人で逃げ続けていた。
必死に走っているせいで揺れる視界の先に、パーカーを着てフードを被った若い男の人の姿が映った。
私はもつれそうな両足を何とか操ってその人のそばに駆け寄った。
「助けてください」
男の人が、おや、というように立ち止まる。私は一息に叫んだ。
「恐ろしいんです。とても恐ろしいんです」
男の人が首をかしげる。
「何が恐ろしいんですか?」
想像したより高い声が私に向かって答えた。
男の人のような恰好をしていたけど、その人は女性のようだった。目深に被ったフードの中に、艶めく長い黒髪がしまい込まれている。
だけどその人が男だろうと女だろうと、私にはどうでもよかった。
私は「あれ」を指さして叫んだ。
「『あれ』が恐ろしいんです」
その人は、緩慢にも思える仕草で私が指さした方に首を向けた。それから少し頷き、呟く。
「ああ、確かにあれは」
そしてその人はこともなげに続けた。
「恐ろしいですね」
ああ、わかってくれる人がいた。
私は信心深い人がそうするように深く息をつき、胸の前で両手を合わせてその人を見上げた。
私はその時初めてその人の顔をきちんと見た。その人は人形のように綺麗な目をしていた。
その綺麗な目が私を見返す。
「あれは何なんですか?」
「『あれ』は」
私の喉が一瞬詰まる。私は絞り出すようにして言葉を続けた。
「私の子供です」
それから、それだけでは正しくなかったと思い直して訂正した。
「いえ、正しくは私の子供だったもの、です」
「ふうん」
その人はつまらなさそうにも聞こえるくらい、平坦な声で答えた。
「随分と恨まれているみたいですね」
「そんなわけありません」
自分でも驚くほど大きな声が出た。それでも抑えられない。私はまた大きな声で繰り返した。
「そんなわけないんです。だって私は、何もしてないんですから」
「でも、あれは」
その人は首をかしげた。
「あなただけを恨んでいるみたいですよ」
その言葉を聞いて、ぞわりと鳥肌が立った。
恐ろしさと、怒りと。その半々の思いが私に激しい声を出させる。
「そんなのおかしいじゃないですか」
叫び声が抑えられない。
「あの子は確かに、ひどい目にあって死にました。だけどあの子を殺したのは私じゃありません。別の男です。
そいつは今、罪に問われて懲役を受けています。だけど私は罪には問われなかった。つまり、私は無実ということじゃありませんか。
確かに、私はあの男を止められなかった。でも私は何もしていないんです。恨むなら手を下したあの男を恨めばいいのに。なぜ、『あれ』はあの男のところにいかないんですか?
どうして、私だけが」
その人が黙って私を見ているのに気付いて、私は口をつぐんだ。
私の感覚が確かなら、その目線には哀れみが含まれている気がした。
しばらくしてから、その人は小さく首を振って答えた。
「多分、どうしようもないことなんだと思います」
「どうしようもない?」
「この世で生きるということは、常に理不尽にさらされ続けるということです。あなたは多分、悪いことをした。だけどあなたが言った通り、あなただけが悪いわけじゃない。それでもあの子は、あなただけを恨んでいる。
すっきりとした説明はきっと誰にもできません。
この世界は理不尽だから、あの子の恨みはすべてあなたに向いた。ただ、それだけのことだと思います」
「理不尽、ですか?」
「ええ」
その人は頷いた。
「この世は理不尽なんです。あなただけじゃなく、ボクにとっても、誰にとっても」
目から鱗が落ちる、というのはこういうことを言うのかもしれない。
私は瞬きをして、フードの奥の整った顔を見上げた。
「そうか、そうですね」
この世に生きている限り、理不尽は存在する。考えてみれば簡単なことだった。
その人が私の顔を覗き込むようにして聞いた。
「まだ、恐ろしいですか?」
私は考えた。胸の中はまだざわざわと巣食う恐怖に蝕まれている。それでも私は微笑んで答えた。
「ええ、恐ろしいです。きっと、生きている限りずっと。でもそのことが分かったから、もう大丈夫です。どうすればいいか、分かりましたから」
それから私は頭を下げて、その人のもとを去った。
突然、ヒステリックなブレーキ音が響く。間髪を入れず、鈍くて大きな衝撃音が続いた。
ボクが振り返ると、ちょうど交差点に止まったトラックから運転手が飛び出してくるところだった。
周囲を歩いていた人々も、道に駆け出したりスマホを取り出したりと慌ただしく動き始める。集まってきた人たちに向かって運転手が叫んだ。
「俺は悪くない。この女が飛び出して来たんだ」
トラックの前に転がっていたのは、さっきまでボクと話していた女の人だった。
女の人の背中は逆向きに折れ曲がり、光を失った目が虚空を見上げている。
ボクは塀の上を見上げながら言った。
「お前のお母さん、死んじゃったな」
そこには、四つ足に大きな顔をつけた生き物がいた。
そいつの顔のほとんどはボサボサの髪の毛で覆われていたけど、そいつの隠れた目がじっとあの女の人の死体を見つめているのが分かった。
やがて、そいつは笑った。
だけどそれは今まで見せていた恐ろしい笑い方ではなくて、どこか寂し気な笑顔だった。
ボクはそいつに向かって言った。
「この後、お前はどうするんだ?」
そいつがボクの方を見て首をかしげる。ボクは答えた。
「またお母さんについていくのか?」
そいつはまたしばらく考えて、それから小さく首を振った。
「そっか」
ボクも少しの間考えてからそいつに向かって聞いた。
「行くところないなら、しばらくうちに来るか?」
そいつが驚いたようにボクの方を見る。ボクは言った。
「風呂場にいるやつが運動不足らしくて、夜中に一匹でどたばたうるさくてしょうがないんだ。昼間の間にやつと水遊びでもして、体力を削ってやってくれないか?」
そいつはしばらくの間不思議な色で光る眼でボクのことを見て、それから小さく頷いた。
「俺は悪くない。この女が悪いんだ」
交差点ではまだトラックの運転手が叫んでいる。ボク達は彼らに背を向け、家に向かって歩き始めた。
この世で生きるということは、即ち理不尽を生きるということだ。
自分が手を下してなくても恨まれることはあるし、自分は悪くないのに人を轢いてしまうこともある。
でも多分、それが生きるということなのだろう。
いつの間にかボク達はアパートの下までたどり着いていた。
ボクは階段を上りながらポケットに手を突っ込んで鍵を取り出した。
この部屋も大分にぎやかになってきた。だけど誰も家賃を払ってくれそうにはない。
それもこの世の理不尽の一つなのだろう。ボクは小さくため息をつきながらドアを開け、それから言った。
「ただいま。新入りが増えたぞ」
―第4話 おとろし 【完】
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