第3話 首かじり
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【首かじり(くび-かじり)】
生前に食事を与えられなかったために餓死した老人が、その恨みから妖怪に転じたもの。恨みの対象となる人物が死ぬと、その首をかじりに現れるとされる。
「おい」
それは、家から少し先にある大病院の前だった。
病院の門のところに立っていた爺さんが急にボクに話しかけてきた。ボクは爺さんの方を振り向いて足を止めた。
「俺をひまわりセレモニー会館に連れていけ」
「はい?」
急にどうしたんだ、この爺さんは。迷子か? ボクは爺さんを眺めた。
爺さんは白い着物を着ていて、そしてひどく顔色が悪かった。ボクは爺さんを見ながら少し迷った。
ひまわりセレモニー会館は、ここから歩いて十分くらいの場所にある葬儀場だ。もちろん場所も知っている。
だけど、ボクの手にはさっきコンビニで買ったばかりのカップアイスの入った袋があった。
ほんの一瞬考えた後、ボクは軽く頭を下げて答えた。
「すみません、場所を知らなくて」
こういうときは知らないふり作戦に限る。
迷子の爺さんより、新発売のカラメルミントフレーバーアイスの方が大事に決まってる。三百円近くしたんだぞ。
「それじゃ」
ボクは爺さんに頭を下げて歩き去ろうとした。
しかし次の瞬間、急にぐいっと後ろから引っ張られて足が止まった。
「待て」
爺さんがボクのフードを掴んでいた。
枯れ枝のように細い指先のどこにそんな力があるのか、爺さんに掴まれたフードはびくともしない。爺さんが低い声で囁く。
「幾人もの人間に声をかけた。だが、応えたのはお前だけだ」
ボクは首が締まりそうになりながら答えた。
「いやあ、でもボク場所知らないんで、無理じゃないですかね」
ダメ押しでそう言ってみたが、爺さんは諦める気配がなかった。
「人に聞いても、調べても構わない。とにかく俺を連れていけ」
爺さんがしわがれた声で続ける。
「ひまわりセレモニー会館に」
なんか、葬儀場にしては名前が可愛くて締まらないな。
ボクは天を仰いだ。
このまま押し問答を続けていても、爺さんはボクを解放してくれそうにない。
早歩きなら葬儀場まで八分、そこから家まで七分というところか。十五分の間、アイスが溶けずにもつのを祈るしかない。
ボクは溜息をついた。
「分かりました。こっちです」
ボクは肩を落として道を指さした。爺さんが怪訝そうな目でボクを見る。
「場所を知っているのか?」
そして爺さんはボクのことを睨みつけて続けた。
「さっきは知らないと言っていたようだが」
「あー」
これは気まずいやつだ。
まあでも、言ってしまったものはしょうがない。
後ろで「最近の若者は」とか「これだから」とか喋っている爺さんの声を無視して、ボクは歩き始めた。爺さんも何だかんだ大人しくボクに付いてくる。
黙って歩くのもなんだから、ボクは爺さんに世間話を振ってみることにした。
「最近あついっすね」
爺さんは答えない。しかし耳をすますと、聞こえるか聞こえないかの声で爺さんが何事か呟いているのが聞こえた。
「…さない…許さない…許すものか…八つ裂きに…それでも飽き足らぬ…」
ボクは肩をすくめ、それ以上爺さんに言葉をかけることなく歩き続けた。
「そこの角曲がったところっすね。あ、あれです」
想定より早いペースでボク達はひまわりセレモニー会館に辿り着いた。
白黒の建物に描かれた黄色いひまわりの絵がなんとも牧歌的だ。
「それじゃ」
ボクはそう言って立ち去ろうとした。しかし。
「んおっ」
また爺さんが後ろからフードを掴んだせいで、ボクは後ろにつんのめってしまった。
「なんすか。案内したじゃないすか」
「斉藤佐和子」
「へ?」
「この場所で斉藤佐和子という女の葬儀が行われている。部屋まで案内しろ」
「ええー」
ボクはアイスの袋をちらりと見た。くうう。もう溶け始めてるよなあ。
相変わらず爺さんの力は強くて、ボクでは振りほどけそうにない。
ボクは諦めた。押し問答をする時間ももったいない。
ボクは時間に追われる忙しい人間なのだ。
ボクはひまわりセレモニー会館に入った。
ありがたいことに、葬儀場は初めて来た人でも迷わないように入口に分かりやすく案内板が出してあった。ボクは内心思った。
爺さんも自分で読んで行ってくれよ。
「えーと、斉藤佐和子さん。第三ホールみたいですね。エレベーター上がってすぐだし、一人でもいけるんじゃないですか?」
ボクは気をとりなおして優しい声で爺さんに話しかけたけど、爺さんは答えない。代わりに早くいけ、というように顎をしゃくる。
「お?」
親切にしてやってるのに、なんだこのジジイは。
そこでとうとう、ボクはプッチンしてしまった。
「おい、ジジイ」
ボクはスニーカーの足を振り上げ、そのまま爺さんの足を踏みつけた。
「ぎゃっ」
爺さんが飛び上がった。言葉より先に足が出る。ボクの悪い癖だ。
「さっきから、それが人に物を頼む態度かジジイ」
爺さんが裸足の足先を撫でる。そういやなんでこの爺さん裸足なんだ。
爺さんはしゃがんだまま上目遣いでこちらを睨みつけながら言い返した。
「老人虐待だぞ」
しかしボクは堂々と答えた。
「いいや、関係ないね。ボクは平等主義者だ。爺さんが老人だろうが子供だろうが大人だろうが、同じことをしてた」
それからボクは仁王立ちになって続けた。
「ちゃんとした態度で頼むまで、ボクはここを動きません」
はったりだ。実のところ、時間に追われているのはボクの方だった。
だけど爺さんにそのはったりは効いたようだ。
しばらくの逡巡の後、爺さんは喰いしばった歯の間から絞り出すように言った。
「俺を第三ホールまで連れて行ってください。お・ね・が・い・します」
「よし」
ボクは大きく頷いて体の向きを変えた。第三ホールは二階らしい。
爺さんのご老体を考えて、エレベーターを使ってあげよう。決してボクが楽をしたいからではない。
フロント前を横切ってエレベーターに向かうとき、ボクはスタッフに声をかけられないか少し不安になった。だけど心配は不要だった。
フロントのスタッフたちは手元のパソコンや書類に目を落とすばかりで、ボク達には目もくれない。
葬儀場は人の出入りが多いから、多少変な人たちがいても見過ごしてもらえるのかもしれない。ボクは納得した。
ただ、それもこのへんまでだろう。
ボクはエレベーターに乗り込んだ後爺さんに向かって聞いた。
「さすがに部屋の中には入んないよね?」
爺さんが無言でボクのことを睨む。
「だってボクら喪服も着てないし。っていうかボク、パーカーだし」
爺さんにいたっては変な白い着物だし。
そこでふとボクは気付いた。
あれ、爺さんのこれって死装束じゃないか?
ボクが疑問を口にする前に、爺さんがにやりと笑って答えた。
「心配は無用だ」
チン、とエレベーターが二階に到着したことを告げるベルが鳴る。その瞬間、耳をつんざくようなサイレンが響き渡った。
「火災が発生しました」
ボク達がエレベーターから出るころには、慌てた参列者たちが会場から廊下にわらわらと出てくるところだった。
「なになに?」
「火事?」
サイレンが響き渡る中、喪服を着た人々が足早に動き回る。
「一旦避難しましょう」
参列者たちが揃ってエレベーター横の階段を駆け下りていく。爺さんはその様子を見て満足げに言った。
「ほれ、ドアを開けろ」
「ああん?」
懲りないジジイだな。
ボクは足を上げながら爺さんを睨みつけた。爺さんが顔を歪めて言い直す。
「…ドアを、開けてください」
「よし」
ボクは第三ホールの両開きのドアを押し開けた。今まで人が詰めかけていたであろう会場内はがらんとしていて、前方の祭壇前に棺桶だけが残されている。
それを見て、爺さんが唇を引き攣れるほど上げて笑った。
「やっと。やっとこの時が来た」
それから爺さんは祭壇に向かって一歩足を踏み出した。しかしふと思い出したようにボクの胸元に白い紙に包まれた何かを押し付ける。
「礼だ」
爺さんは言った。
「俺にはもういらんのでな」
そして爺さんは再び笑顔になってふらふらと祭壇の方へ歩み、祭壇の前に置かれた棺桶に両手をかけた。
そのまま釘打ちされた箱のふたを両手で握り、力を込める。
メキャメキャッという音を立て、みるみるうちに棺桶はただの木片になった。
ジジイ、ドアは人に開けさせるくせに、随分と怪力持ちじゃないか。
ちょっとイラっとしたボクを差し置き、爺さんは愉悦に満ちた顔で棺桶の中の死体を引きずり出した。
死体は七十代くらいと思われる細身の女性だった。爺さんが死体を両手で持ち上げ、唾のかかりそうな距離で吠える。
「俺がどれだけ飢えて、どれだけ苦しんで死んだか。ああ、お前には分かるまい。やっと。やっとこの時が来た。恨みを晴らす時が来たのだ」
次の瞬間、爺さんが勢いよく死体の喉に食らいついた。
ぼきり、と骨の砕ける音がした後、肉がぐちゃぐちゃと音を立てて噛みちぎられる。
首を引きちぎった爺さんが顔を上げると、どすんと音を立てて首を失った体が床に転がった。
女性の頭は爺さんに咥えられたまま逆さになり、その顔に首からしたたる血が垂れていた。
口回りを血みどろにした爺さんが女性の頭を抱えて叫ぶ。
「やってやった、やってやったぞ。首から下を失い、お前ももう何も食えまい。これでお前も同じだ。地獄で俺とともに、永遠の飢えに苦しむのだ」
その瞬間だった。
「お父さん」
かっ、と首だけになった女性の目が見開き、爺さんのことを見上げた。
「お父さん、お父さんなのね」
首だけになった女性が悲痛な声をあげる。
おお、親子なのか。こっそり部屋を出ようとしていたボクは、新しい展開につい足を止めてしまった。
女性の首は、ほとんど絶叫に近い声をあげて泣き始めた。
「ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい」
女性の目から血とともに、逆さまになった涙が流れる。
「私はただ、お父さんに少しでも長く生きてほしくて」
「何言ってやがる」
爺さんが血まみれの女性の頭を顔の前に掲げて怒鳴る。
「実の親を飢えさせて殺したのは、他でもないお前だ」
「違うの。あの時、もうすぐ子供が生まれるところだったの。だから、お父さんに一度でいいから孫の顔を見てほしくて」
「親に飢えの責め苦を味わわせて、何たる言い草だ」
爺さんはそう言うと、ぼんやりと二人のやりとりを見ていたボクを勢いよく指さした。
「ほら。そこのお前も、この親不孝な娘に何か言ってやれ」
「ええ?ボク?」
爺さんがボクを睨みつけて頷く。なんでだよ。二人で勝手にやってくれよ。
「っていうか、そもそも話が噛み合ってなくないですか?」
「へ?」
爺さんが虚を突かれたようにボクを見た。ボクは眉をひそめて続ける。
「じゃあ、まあ、一旦整理しますか?」
爺さんと女性の首が目を見合わせ、それから口をつぐんでボクの方を見た。ボクは頷き、司会進行を始めることにした。
「えーと、まず爺さんは餓死したってことで合ってます?」
「その通りだ」
爺さんは落ち窪んだ目元に憎しみを込めて女性の首を睨んだ。
「どれだけ俺が懇願しても、こいつは一欠片の食い物も寄こしてはくれなかった」
「それは」
女性が声をあげたのを手で制し、ボクは続けた。
「まずは爺さんの言い分を全部聞きましょう。確認ですが、爺さんは自宅で死んだんですか?」
「いや、病院だ」
「病院?病院で死んだんですか?」
ボクは首をかしげる。
「それは変ですね。病院だったら、医者や看護師も周りにいるはずです。その状況で患者が餓死するようなこと、日本で起きますかね?」
「それは…」
そう言って爺さんは黙り込んだ。次は女性の方だ。ボクは女性の逆さまの目を見て聞いた。
「爺さんにご飯をあげなかったのは本当ですか?」
「それは…そうです」
女性は唇をかみしめながら答えた。
「ほら、やっぱり」
爺さんが叫ぶ。だけどそれに被せるようにして女性が続けた。
「違うんです」
何が違う、と吠えた老人をボクは手で制して聞いた。
「どう違うんですか?」
「その当時、父はもう口から食事がとれない状況だったんです」
「なんだって?」
爺さんが上ずった声で言った。
「そんなわけはない。そんな記憶、俺にはないぞ」
爺さんがそう言うと、女性はためらいがちに答えた。
「そう、そうね。記憶にないかもしれないわね。だってその時、お父さんはもう認知症になっていて、いろんなことが分からなくなってたんだもの」
爺さんが目と口をぽかんと開けた。女性がボクの顔を見ながら話す。
「父は六十八歳の時、喉頭がんになって嚥下機能を失ったんです。その時には父は既に認知症になっていて判断能力がなかったので、私が意思決定をすることになりました。お医者さんからは、延命するなら胃にチューブを通す穴をあけて、直接栄養を流し込むことになるって」
「あー、胃ろうってやつね」
「ええ。よく、ご存じですね」
「うちの祖父も死ぬ間際にやるかどうかって話になったんで。ただ、本人が辛いだろうからって止めましたけど」
「そうなんです」
女性の目が再び涙で潤んだ。
「認知症の父には、チューブから胃に栄養が入ってるなんて理解できませんから。私の顔を見るたびに、ずっと何も食べてない。何か食べ物をくれって泣きつくんです。でもあげられるわけがありません。寝たきりのまま、食べる喜びもなく。父はその状態で半年生きました」
それから女性は声を詰まらせながら言った。
「ずっと、ずっとお父さんに謝りたかった。私があんな治療を拒否すれば、お父さんにあんな苦しい思いをさせることはなかった。お父さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
「そんな…」
爺さんは呟き、そして膝から崩れ落ちた。床にへたり込んだまま、痩せた胸に女性の首を抱え込む。
そのうち爺さんの口からは嗚咽が漏れ始めた。
「すまない。俺は馬鹿だ。見当違いの恨みで、お前に永遠の飢えの責め苦をもたらしてしまうなんて」
女性が涙交じりに答える。
「ううん、すべて私の過ちが招いたことだから。いいのよ、お父さん」
「すまない、すまない。ああ、時を、時を巻き戻せたら…」
二人はお互いの顔を見つめ、絶えることなく涙を流し続ける。それを見て、ボクは思った。
もうそろそろ、いいかな。
ボクは盛り上がっている二人に気付かれないよう後ずさりし、こっそりと部屋から出た。
あの爺さん、今考えてみると最初から怪しかったな。
もっと早くあの爺さんがいつもの幻覚だって気付けばよかった。わけのわからないことに時間を使ってしまったせいで、これだ。
ボクは手に持っていたビニール袋を持ち上げた。中のカップからはたぷんという液体の感触がする。
こりゃ完全に溶けてるな。
ボクは落ち込んだ。そりゃもうすごく落ち込んだ。
ボクにとって三百円のアイスがどれだけ大事か。何が時を巻き戻せたら、だ。時を巻き戻したいのはこっちだ。そしたらアイスが溶ける前のあの幸せな時間に戻れるのに。
心の中で爺さんへの恨みを呟いているうちに、ふと爺さんに押し付けられた白い包みのことを思い出した。
パーカーのポケットから包みを取り出し、手触りを確かめてみる。
包みは手のひらに納まるほどの小ささで、やけに硬かった。なんだろう。
包み紙を開くと、中から光る金属が姿を現した。
こ、これは。
ボクは興奮で息が荒くなるのを感じた。
五百円硬貨(三枚)だ!
ボクは手の中でちゃりちゃりと硬貨を振った。
千五百円もあれば、アイスも買いなおせるし、コンビニのチキンも買えるし、エナジードリンクも明日のパンも買える。
うっひょう。
ボクは急に軽くなった足で階段を降り、喪服の人々が騒めくフロントの横を通り抜けた。スタッフが葬列者たちに呼びかけているのが聞こえる。
「先ほどのアナウンスは非常ベルの誤作動によるものでした。式を再開しますので、皆さま会場にお戻りください。引き続き厳かに故人を見送りましょう」
葬儀場を出ると、さんさんと降り注ぐ太陽光がボクの顔を照らした。
ボクは景気よく五百円玉をちゃりちゃり鳴らし、それから明かりの下でうんと伸びをした。
やっぱり人助けは素晴らしい。それが現実だろうと、幻覚だろうとだ。
ボクは胸いっぱいの充実感とともに、手に提げていたビニール袋を振り回しながら歩き始めた。
さあ、コンビニに行こう。
―第3話 首かじり 【完】
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