第2話 あかなめ(後編)

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 部屋に戻って夕日を締め出すようにベランダの窓を閉めると、どこかからぺちゃぺちゃと水っぽい音が聞こえた。


 どうやら風呂場の方みたいだ。蛇口を開けっぱなしにしていただろうか。


 そう思いながら風呂場に向かい、暗がりの中手探りで電気をつけた瞬間だった。


 ボクの目と、急な明かりにぱちくりしているそいつの目とが合った。


 頭に黒い毛の生えた、小さな緑色のアリクイ。それが第一印象だった。


「な、な、な?」


 誰かのペットが逃げ出して入り込んだのだろうか?咄嗟にボクはそう思った。


 だけどそんなはずはなかった。だって、今までの人生でボクはそんな動物を見たことがなかったからだ。だとすると。


「また幻覚かあ」


 ボクは急に疲労感を感じて、がっくりと背中を曲げながらそいつを見下ろした。


 そいつの目は丸く、手足が短くて、どこかぬいぐるみじみている。


 まあ、幻覚にしては可愛いからまだマシか。


 だけどすぐに、ボクはあることに気が付いてしまった。


「お前、何舐めてるんだ?」


 そいつは口の先からピンク色の舌を出し入れして排水口の周りを舐めていた。


 ん?とボクが首をかしげる隙に、ボクがさっきシャワーを浴びた時に落としたのであろう髪の毛が、そいつの舌に絡めとられて、口の中に消えていく。


「おわっ」


 いやいやいや、気持ち悪っ。 


 自分の落とした体の一部を食べられるって、幻覚とはいえ物凄い破壊力だ。


「やめ、やめろ。吐き出せ」


 ボクは慌てて両手をそいつに伸ばした。しかしそいつの体に届く直前で手が空を切る。そいつは思いのほか俊敏だった。浴槽の中から四本足で飛び出し、壁を蹴りながら風呂場をあっちこっち逃げ回る。


「こんちくしょ、待て」


 ボクはやっとの思いで浴槽の一角にそいつを追い詰め、手を伸ばした。しかし次の瞬間、そいつは浴槽の排水口の中につるんと飛び込んで消えてしまった。


「へあっ?」


 思わず変な声が出た。いや、排水口の穴って何センチだ?物理法則を無視しやがって。


 上から排水口を覗き込むと、穴のサイズにしっかり縮んだそいつの顔と目があった。


 そしてそいつは排水口の中からちろっと舌先だけを出し、悠々と排水口の周りに残った水滴を舐めとった。


「こいつ」


馬鹿にしやがって。許さん。




 ボクは大股で風呂場を出て玄関に向かった。


 玄関には古びたビニール傘が立てかけてある。


 傘はうたた寝をしていたらしく、傘についた大きな一つ目は気持ちよさそうに目を閉じている。


 だけどボクが傘を引っ掴んだ瞬間、傘は驚いたように目を見開いた。だがそんなことを気にしている暇はない。


 ボクは傘を手にしたままずんずんと風呂場へ戻った。


 ボクが風呂場に入ると、アイツは排水口から上半身だけを出して浴槽の中を舐めていた。ボクの姿を見てまたぴゅっと穴の中に戻る。


 ボクはそれを追いかけるように傘の先端を排水口の中に突っ込んだ。


「おら、出てこい」


 ボクは傘でがつんがつんと排水口を突いた。そのたびに傘が目を白黒させる。


 すまん、諦めてくれ。


 ボクは心の中で謝りながら、何度も何度も排水口に傘を突き刺した。だけどアイツには届きそうにない。


 ボクはしばらくいろんな角度で傘を差し込んでみたけれど、結局諦めて傘を床に転がし、風呂場の床に座り込んだ。


 やっと自由になった傘が飛び上がり、ボクに向かって抗議するようにその場で飛び跳ねる。


 ボクはその目の上あたりを軽く撫でて機嫌をとってやった。


 久しぶりの運動ですっかり息が切れてしまった。ボクは何度か息を吸ったり吐いたりした後、最後に大きなため息をついた。


 まあ、掃除も換気もしないで綺麗な風呂場が維持されるって思えば、悪くないのか?


 ドクターフィッシュだっけ? 昔、足の皮膚を食べてくれる魚が流行った時代があるらしいしな。それと同じだと思えば。


 うーん、いけるか?


 その時、風呂場にぐううっとボクの腹の音が響いた。


 久しぶりに運動したせいだろう。ボクはそれ以上考えることを止め、自分の欲望に従うことにした。


 肉だ。肉が食べたい。


 ボクはふらふら立ち上がった。今日は贅沢してやる。




 財布を手に玄関のドアを開けたところで、外から人の話し声がするのに気付いた。


 珍しい。基本的にこのボロアパートに人が訪れることなんてないからな。


 そんなことを考えた瞬間、話し声は怒号に変わった。


「いい加減にしろ。そこにいるんだろう?」


 ドアを殴る音がアパートのぼろい壁に響く。ボクはドアの隙間から外の様子を伺った。


 訪問者の目的はお隣さんのようだった。


 お隣さんの部屋の前に、上品そうな身なりの初老の夫婦が立っていた。


 だけど上品なのは身なりだけみたいだ。


 夫婦の表情は渋く、目も口も吊り上がり、鬼みたいに赤らんでいた。


 髪をきっちりと結い上げた女性が甲高い声で叫んだ。


「ママたちが迎えにきてあげたのよ。早く出てきなさい。どれだけ親の親切を無碍にすれば気が済むの?ママたちはこんなに貴方のことを思っているのに。貴方は本当に、昔から親不孝な真似ばかりして。本当に、なんて子なの」


 突然女性がしゃくりあげるように泣き始めた。その隣で、上等そうなスーツを着たグレイヘアの男が怒鳴り声をあげる。


「ほら見ろ。お前はまた母さんを泣かせたんだ。お前は相変わらず自分勝手だな。分かっているのか?お前が皆を不幸にしてるんだ。ずっと言い聞かせて来たはずだ。お前は大人しく父さん達の言うことを聞いていればいい。これ以上周りを不幸にするな」


 それから初老の男は妻の肩を抱き、最後にもう一度どすの効いた声で言った。


「またすぐに来るからな。ちゃんと考えておけ」




 それから三十分後、駅前のフライドチキン屋でチキンを買い込んだボクは、靴を脱ぐのももどかしく部屋に駆け上がっていた。


 机の上にチキンの箱を広げ、ごくりと唾をのみ込む。そしてボクは熱いチキンを指先で持ち上げ、大きく口を開けてかぶりついた。


 ああ、アブラだ。したたる熱いアブラと肉。


 こんなのうまいに決まってるじゃないか。


 ボクは夢中でチキンにむしゃぶりついた。


 一本目、二本目。ボクは指をしゃぶりながらアブラを嚙みしめる。


 そして三本目。


 ボクはあっという間に後悔し始めた。


 調子に乗って買いすぎた。


 机の上にはまだ箱に入ったチキンが三ピース残っている。だけどこれ以上は胃が受け付けそうにない。見るだけで吐きそうだ。


 ふと思いついて、ボクはチキンを一本手に持って風呂場に向かった。


 手についた油で汚さないよう、足で蹴り飛ばすようにして風呂場のドアを開ける。


 そこには既に、後ろ足で必死に立ちあがったそいつがボクを待っていた。


 くりくりした黒い目が輝き、ボクが手に持ったチキンに向かって鼻をひくつかせている。


「どうだ、うまそうだろ」


 ボクはそいつの顔の前でチキンを振った。そいつの口元によだれが溢れる。


「ほれほれ」


 そいつが一歩、二歩と後ろ足を前に踏み出す。そしてもう少しでそいつの口がチキンに届きそうだというところで。


「はいざんねーん」


 ボクはチキンをさっと上に掲げ、そいつから遠ざけた。そいつはガビーンという効果音が合いそうな表情をしてチキンを見上げた。


 ボクは笑った。さっき散々ボクのことをコケにしたお返しだ。




 ボクはしばらくの間、チキンをエサにそいつを左右に振り回して遊んだ。


 そいつは後ろ足でぴょんぴょん飛び回り、必死にチキンに食らいつこうとする。そのたびにボクはチキンをそいつから遠ざけた。


 少しして、ボクは面白いことに気が付いた。そいつは目の色を変えてチキンを追ってくるけれど、決して風呂場の外に出ようとはしないのだ。


「どうした?」


 ボクがチキンを持って風呂場の外まで出ると、そいつは風呂場の境界線ぎりぎりに足をかけ、鉤爪のついた短い手をせいいっぱいチキンに向かって伸ばす。


 左右にチキンを振るとそいつも体を左右に伸ばすけど、決して風呂場から出ようとしない。


 しばらくそうやってチキンを振っていたら、そいつは急に拗ねたように背中を向け、風呂場の隅に小さく丸まってしまった。


「もしかしてお前、風呂場にあるものしか食べられないのか?」


 ボクがそう聞くと、そいつは背中をこちらに向けたまま、畳んでいた耳をぱたぱたと動かした。ボクは小さく肩をすくめた。


 律儀なやつだ。


 ボクは洗い場に向かってチキンを放り投げてやった。


 チキンが風呂場の床に落ちた瞬間、背中を向けていたそいつはがばっと振り向いてチキンに飛びついた。そのままチキンを抱えるようにして舌を出し、うまそうにチキンを舌で舐めとっていく。


 ボクはしゃがんでその様子を眺めた。


 すごいな。肉を舐め取るって、どんな舌してんだ。


 さらに、ボクの驚きはそこで終わらなかった。

 

 そいつが舌をぺろぺろとせわしなく動かしたと思ったら、チキンの骨がみるみるうちに削れて細くなっていったのだ。


 結局チキンは跡形もなく、あっという間に骨ごとそいつの腹の中に入ってしまった。


 満足そうな顔で口回りを舐めるそいつを見て、ボクは呟いた。


「これから生ごみの処理には困らなさそうだ」




 ボクはそれから、まだ残っている2ピースのチキンが入った箱を抱えて部屋を出た。


 身銭を切って買ったチキンだ。無駄にしたくはない。


 令和のこの時代に似つかわしくないかもしれないが、おすそわけ作戦に出ることにした。


 ターゲットはこのあたりでのボクの唯一の知り合い、昨日会ったばかりのお隣さんだ。ボクは隣の部屋のインターホンを押した。


 だけど何度インターホンを押してもお隣さんの応答はない。留守なのだろうか。


 ボクは何となくドアに手をかけた。


 ドアに鍵はかかっていなくて、するりと開いてしまった。


 さっきあの夫婦が来た時には鍵をかけていたみたいなのに、その後わざわざドアを開けて、鍵を閉め忘れたのだろうか。


 どうやら、お隣さんはなかなかのうっかりさんのようだ。


「もしもし、お隣さん?」


 室内は暗い。唯一、風呂場に続くドアから明かりが漏れていた。


「もしもーし?」


 ボクの予想通り、お隣さんはお風呂場にいた。


 でもやっぱり、お隣さんはうっかりさんだったみたいだ。


 浴槽には水が張られ、お隣さんは浴槽の淵に寄りかかるようにして座っていた。


 彼女の手首はカッターで深く切られ、水に浸かっている。お隣さんの顔は白く、対比するように浴槽の中の水は赤かった。


 お隣さんを見て、ボクはほんの少しの間目を瞑った。


 お隣さんは本当にうっかりさんだ。


 まだ死なないって言っていたのに、彼女はボクに生きて会うことなくうっかり死んでしまったらしい。


 ボクはお隣さんの頬に触れた。頬は固く冷たい。ボクは指先で綺麗な鼻筋をなぞり、そして最後に柔らかな黒い髪の毛を撫でた。


「お疲れさま」


 もしかしたら、彼女はわざとドアの鍵を開けていたのかもしれない。死体が見つかりやすいように。


 こんな部屋の中で死体が腐ったら周りに迷惑をかけてしまうから。


 何となくだけど、そういうことを気にしそうな子だった。


 だからだろうか。ボクは珍しく、彼女に協力してあげることにした。




 ボクは隣の自分の部屋に帰り、そのまま押し入れの中をがさごそ漁った。


 確か買ったはいいけど、ろくに使っていない洗濯ネットがあったはずだ。


 ボクは新品同様の洗濯ネットを見つけ、ネットを持って風呂場に入った。


 当然のようにアイツが排水口から飛び出し、きらきらした目でボクを見上げる。


 チキンの効果で大分なつかれたらしい。ボクはそいつに笑いかけ、それから勢いよく洗濯ネットを被せた。


 ピギャア、というかギキャア、というか、形容しがたい叫び声をあげてそいつはネットの中で暴れた。


 だけどボクは洗濯ネットの口を閉じ、ひょいっとそいつを抱え上げた。


 実家の猫を病院に連れていくとき、よくやっていた方法だ。


 ネットに入ってしまえば排水口に逃げられることもないし、鉤爪も怖くない。


 ボクはじたばた暴れるそいつを小脇に抱え、お隣さんの部屋に向かった。つっかけていたサンダルを脱ぎ、ボクの部屋と同じ造りの風呂場に入る。


 風呂場にはさっきと同じ姿のままの彼女がいた。


 ボクは彼女の死体の横に洗濯ネットを置き、チャックを開けた。


 キョトンとした顔のそいつが恐る恐るネットから顔を出す。


 ボクはしゃがんだままそいつを見守った。


 そいつは彼女の死体に気付くと、ふんふんと匂いを嗅いだ。それからくるっとボクの方を振り返る。


 ボクはそいつに向かって頷いた。


「うん、全部食べていい」


 そいつは興奮したような鳴き声をあげて彼女の足に飛びついた。


 そいつの舌が彼女の白い足を舐めあげる。それを見て、ボクは言った。


「骨も血も、全部食べるんだ。全部食べたら戻ってきていい」


 そいつはボクの話を聞いているのかいないのか、大喜びで舌を動かしている。この様子なら大丈夫そうだ。


 ボクはそいつを入れてきた洗濯ネットを持って、お隣さんの家を後にした。




 部屋にはまだチキンの匂いが充満している。


 ボクはとりあえず、余ってしまったチキンを箱ごと冷蔵庫の中に突っ込んだ。


 それから、ボクは大きなあくびをした。


 久しぶりに動き回ったせいで、体がくたくただ。


 ボクはゾンビのように緩慢な動きでベッドに向かった。布団にくるまれると、あっという間にまどろみがボクを飲み込む。その現実と夢の狭間で、ボクはぼんやりと考えた。




 すべてはボクの幻覚だ。


 お隣さんの死体も、緑色のアリクイみたいなアイツも。


 だけど幻覚だとしても、ボクは自分の行動に割と満足していた。


 彼女の死体は、彼女の望み通りこの世から綺麗さっぱり消えてしまうことだろう。


 ボクは普段、あまり人と接するタイプじゃない。だけど彼女には協力してあげたいと思った。


 多分、夕日に照らされた彼女の鼻筋がとても綺麗だったから。


―第2話 あかなめ 【完】

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