第2話 あかなめ(前編)
※YouTubeで本作の朗読動画を視聴可能
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【垢嘗(あか-なめ)】
画図百鬼夜行などに登場する日本の妖怪。その名の通り、風呂の垢を舐め取るとされる。赤子ほどの大きさに、ざんぎり頭で鉤爪を持つ姿で描かれることが多い。
その日、ボクは風呂場の浴槽の前で腕組みをしながら悩んでいた。
「最後に風呂掃除したの、いつだっけ?」
ボクは首を傾げた。風呂場が汚いからそんなことを考えているんじゃない。
むしろ、汚くないから悩んでいるのだ。
風呂場は浴槽の中も洗い場も、どこもかしこも見慣れないほど綺麗だった。
それこそ舐めたように。
床の色なんて、そういや元は赤茶色じゃなくてクリーム色だったな、と今思い出したほどだ。
当然、ボクに掃除した覚えはない。
いやまあ、ボクは医者のお墨付きをもらったおかしい人間だから、掃除をしたのにその記憶を無くすことくらいあるのかもしれない。それにしても、やっぱり違和感はあった。
だって、ボクだぞ? いくら無意識だからって、自発的に風呂掃除なんてするか?
残念ながら、ボクは自分のことに関しては負の方向に自信があった。
その時、安っぽいインターフォンの音でボクの思考は遮られた。
「あー、はい」
ボクは足をいつ洗ったかわからないバスマットに擦り付け、裸足のまま玄関のドアを開けた。
そこには不健康な感じに痩せた中年の男が立っていた。
「突然もうし…わけありません」
男が一瞬うっと顔をしかめ、そのあとかろうじて表情を戻して続けた。ボクは無意識にべとつく頭髪に手をやった。
そりゃあそうだよなあ。もう一週間以上風呂に入ってないんだから。
だけど男は我慢強かった。彼はボクの臭いに触れることなく、平然を装った様子で一枚の写真をボクに突き付けた。
「この女性をご存じですか?」
写真には取り立てて特徴のない、平凡な感じの少女が写っていた。
少女は制服を着ている。背景からして、割と田舎の方にある学校の前で撮られたみたいだ。だけど、少なくともボクにはその女の子の記憶はない。
「知らないです」
ボクがそう答えると、男は心なしか苛立ったように見えた。
「本当ですか?よく見てください」
男が写真をボクに近づける。だけどやっぱり、ボクは何も思い出せない。ボクが首を傾げると、男は諦めたように溜息をついて写真を胸ポケットにしまった。
そのタイミングで、ボクはふと思いついて聞いた。
「ところで」
喋りながらボクは頭を掻いた。その下で、壁に立てかけていたビニール傘が目を歪めて嫌そうに身を捩る。
「あなたは一体?」
すると急に男は気まずそうな素振りをして、ボクに背を向けた。
「いえ、なんでもありません」
「はあ」
「忘れてください」
男はそれだけ言うと、早足でアパートの階段を降りて行った。ボクはその後姿を見送った後、男の言葉に従うことにした。
うん。よくわからないけど、忘れよう。
自慢にならないけれど、ボクは忘れるのは得意だ。
ボクは首を左右に軽く振ってぽきぽきと音を鳴らし、それから風呂場に向かった。
風呂場は相変わらずぴかぴかに綺麗だ。だけど綺麗なことを気にしていても仕方がない。
ボクはずっと着のみ着のままだった服を脱いで裸になり、シャワーを浴びた。
普段からいい加減な生活をしているボクだけど、時折そのいい加減さに磨きがかかる時がある。この一週間がそうだった。
何をする気にもならず、ボクは風呂にも入らないままずっとベッドでごろごろしていた。
そして一週間ぶりにシャワーを浴びようとしたら、見違えたように清潔な空間が待っていた、と。
まあ、汚いよりは綺麗な方がいいに決まっている。風呂場も体も、だ。
ボクはシャワーを浴び終え、さっぱりとした体でリビングの洗濯済みの服の山から手頃なものを探した。だけど、お気に入りのパーカーは洗濯されていない。
ボクは諦めてTシャツを上から被った。
カーテンの隙間から日差しが漏れている。どうやら外はなかなかいい天気らしい。
濡れた髪を乾かすのに、外の風を浴びるのもいいだろう。
ボクはベランダに出て置きっぱなしのサンダルをつっかけた。そのまま手すりにもたれかかるようにして頬に風を浴びる。
「あの、さっきはありがとうございました」
「おわ」
突然横から声がして、ボクはほんの少し飛び上がった。
「すみません、驚かせるつもりはなかったんです」
声が慌てて謝った。
この風情のある、言い換えればボロっちいアパートのベランダはついたての幅が足りなくて、隙間からちょっと隣の部屋のベランダが見える。そこから小柄な女の子がボクの方を覗いていた。
黒髪で肌が白くて、一見大人しそうに見える女の子だ。だけど、耳中にじゃらじゃらとぶら下がるピアスの群れが、女の子を一筋縄ではいかない見た目に仕立て上げていた。
女の子はベランダの手すりから身を乗り出し、もう一度ごめんなさいと謝ってぺこぺこと頭を下げた。ボクは答えた。
「ああ、うん。ちょっと驚いたけど大丈夫。それで、ありがとうって何が?」
「さっき、私のこと、 知らないふりをしてくれましたよね?」
ボクは瞬きをした。さっき?
…なんだっけ?
「訪ねて来た男の人に見せられた写真です」
しばらくの間考えて、やっとボクはあの痩せぎすの中年男のことを思い出した。
「あ、あー」
「あの人に聞かれて、私のことを知らないって言ってくれたじゃないですか」
ボクはまた沈黙してしまった。それを見た黒髪の女の子が眉をひそめる。
「もしかして、あの写真に写ってたのが私だって気が付かなかったんですか?」
ボクは腕組みをして空を見上げた。女の子が苦笑する。
「まあ、お隣さんなんてそんなものかもしれませんね」
そう言うと、女の子はボクの方を少し眩しそうに細めた目で見た。
「私だって、お隣さんがこんなに綺麗な人だったなんて知らなかったですもん。いつもパーカーのフードで顔を隠してるから」
ボクはなんだか落ち着かなくなって、無意識に背中のフードを探した。だけど、あいにく今日着ているのはTシャツだ。ボクは諦めて手を下ろし、代わりに女の子に聞いた。
「さっきの男、なんだったの?」
「ああ、興信所の人ですよ」
女の子はさらりと答えた。
「興信所?」
「ええ。うちの家、結構複雑なんです。私はずっと親から逃げ回ってて、親は金に糸目をつけずに人を雇っては私を連れ戻そうと追い回してるって感じです」
「それは」
ボクは声を出したけど、なんて続ければいいか分からなかったので、とりあえず感想を言うことにした。
「大変だ」
その途端女の子が噴き出した。
「ありがとうございます。でももう慣れっこですよ。親に見つかりそうになるたびに引っ越すだけです。ここも突き止められちゃったみたいだから、また引っ越し先探さなきゃ」
女の子が笑顔のまま夕日を眺める。だけどその夕日の曖昧な光のせいか、女の子の横顔が急に影を帯びたように見えた。
「でも、なんだか疲れちゃったな」
軽い口調でそう言って、女の子が髪をかきあげる。その手首にはいくつも並んだ切り傷があった。
「たまに思うんです。いっそ死んじゃったら楽なのかな、なんて」
女の子が吸い込まれるようにアパートの下を眺める。だからボクは答えた。
「ここはやめた方がいいよ」
「え?」
「四階だから。人が死ぬかどうかの境界は四階の高さって言われてて、失敗すると面倒だから五階以上の建物で」
女の子がボクをじっと見つめた。それから顔をくしゃっとさせて笑う。
「死ぬのは止めないんですね」
「うん、まあ」
ボクは頷きながら答えた。
「いろんな選択肢があっていいかなと思うし」
ボクだって、いつ死んでもおかしくないし。
「なるほど」
女の子は楽しそうに笑い、それからゆったりと手すりに体をもたれさせた。
そのまま何となく、ボクたちは落ちていく太陽を並んで眺めた。
ちらりと横を伺うと、女の子の白くて細い鼻筋が薄暗がりの中に残った光に照らされていた。
ボクは少しの間、その幻想的な光景に見とれた。
「そういえば」
「え、ああ。どうしたの?」
一瞬、彼女の横顔を覗き見ていたのがばれたのかと思った。
でも違ったようだ。女の子は朗らかに答えた。
「さっきはああ言いましたけど、私、本当に死ぬつもりはないんで安心してくださいね」
「そうなの?」
「ええ」
それから女の子は干からびたような、乾いた笑い声を混ぜながら続けた。
「死んだら、死体が親のもとに返っちゃうから」
女の子の眼が笑った。だけどその目の中身は洞穴のように暗く、うつろだった。
「生きている間も、死体になってからも、絶対に親のところにだけは戻りたくないんです」
「そっか」
ボクは頷いた。
「じゃあ、うっかり死なないように気を付けないとね。何もできないけど、応援してるよ」
そう言うと、女の子は嬉しそうに笑った。
普段のボクは、どちらかというと人を避けるタイプの人間だ。だけど珍しく、彼女のことは本当に心の底から応援してあげたいと思った。
多分、彼女の鼻筋がとても綺麗だったからだ。
「それじゃ、また今度。生きて会うのを待ってるよ」
そう軽く言い合って、ボクたちはそれぞれベランダを後にした。
―後編に続く
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