第16話

「そろそろ小屋に戻ろうか。寒くなってきた」

 夕日が沈みきり辺りが暗闇に包まれると、青年が静かに小屋へ戻るように促してきた。

 青年は寒さを感じることはほとんどないだろう。昨日、あの時間に川に入っていたことを考えれば、ほぼ間違いない。

 それなのにそんな声を掛けてくれたのは、アーセタを気遣ってくれたのだ。

「うん。そうだね。でも、その前にちょっと」

 青年に笑みを返すと、青年と一緒に山に入って沸き水を汲んでから小屋に戻った。

 常に気を配ってくれる青年に対して、アーセタに出来る精一杯のお礼だったが、青年に「ありがとう」と微笑んでもらうと、幾らお礼をしても返しきれないような気がした。

 小屋は薪の倉庫の他にも、燻製や干し肉なども作って保管している。ここにいれば、しばらくは食べるものには困らないだろう。

 食事と言っても青年は水だけだが、終えて、二人は居間で寛いでいた。

 アーセタは紅茶を飲んで、青年はさっき山から汲んできた湧き水を飲んでいる。

「ねぇ、アーセタ、僕は明日、別の町に行くよ。君と一緒にいるのは楽しいけれど、僕には僕のやるべきことがあるから」

 青年は優しく微笑みながら、アーセタを見つめて静かに囁いた。

 微笑みを絶やさないのは、彼が微笑みしか知らないのではないかと思えた。

 こんな話をするのは寂しい気がするが、彼は新しい町で自分の役目を果たすのだ。笑って送り出すことが、今アーセタにできる唯一のことだろう。

「やっぱりここにずっと一緒にはいてくれないんだね」

 アーセタは泣いてはいけないと思い、代わりに笑みが浮かべた。

「うん。それが僕に課せられた使命だから。行かないと僕は生きている意味をなくしてしまう」

「うん。分かった。それなら私も一緒に行く」

「えっ?」

 アーセタが自分の意思を伝えると、青年が愕いた顔をした。ほとんど微笑むしかしない青年を驚かせたことに、アーセタは勝ったような気分になって内心でガッツポーズを取った。

 実はもうアーセタは一緒に行くのを決めていた。青年が次の町に行くというのは目に見えていた。どうすれば一緒にいられるか、この数時間考えて、そう答えを出していたのだ。

「そんなのダメだよ。家族の人とか心配するよ?」

「大丈夫。みんな、わたしのやりたいことを応援してくれるから。さすがに居場所も知らないと心配するから、手紙は書くけど」

「僕のために君の貴重な時間を使うのはもったいないよ」

「私がそうしたいの。ダメだって言ってもついて行くから!」

「だけど僕は……」

 青年はそこまで言って俯いた。自分が樹木になってしまうことを懸念しているのだろう。

 アーセタはその後に発せられる言葉が聞きたくなくて、背後から青年を抱き締めた。

「一緒にいられるだけいよ?」

「僕は、本当にいつ木になってしまうか分からない。一緒にいても辛いだけだよ?」

 腰に回したアーセタの腕に添えるように手を置くと、優しく撫でながら青年は囁いた。

「今離れるほうがずっと辛いよ。最後まで一緒にいたい」

 アーセタは抱き締める手に力を込めて力強く言うと、青年が静かに息を着いた。

「うん。分かった。その代わり、僕がいなくなったら僕のことは忘れて」

 静かな声で囁かれた、そんな悲しい言葉が、耳朶を撫でながら頭の中に入ってくる。

 それが青年の心遣いだと分かっていたが、アーセタには答えることが出来なかった。

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