第10話

 それまで穏やかに微笑む顔しか見てなかったアーセタは、この数分で色んな顔を見せてくれた青年を見て、少し大人しいだけで普通の人間となんら変わらないと思った。

「あの、まだお名前を聞いてませんけど……」

「え? 名前? みんなはメシアって呼ぶけど……、それは名前じゃないよね?」

 青年は再び目を丸くさせて、そんなことを呟きながら考え込んでしまった。

「これまでだってメシアって名乗っていたわけじゃあないでしょう?」

 アーセタが問い掛けると、青年は困った顔で必死になにかを考えている。

「考えたこともなかったな。名前か……。固体を表す尊称、または名称だね。

 僕たちは、個に意味を成さないから……」

 青年はそれまでと同様の穏やかな微笑みを浮かべて、当然のように言った。

 青年にとっては名前などないのが当たり前なのだ。

 メシアと言う言葉があれば事は足りる。固体の名称など必要ないのだ。

 だけど、それは酷く寂しいものだと感じた。

例えるなら、人間をすべて一括りにして人間と呼んでいるようなものなのだ。

 それを悲しいとも思わず、なんの疑問も感じずにいる青年は、やはり、人間とは異なるものなのかもしれないと、アーセタは思った。

「固体に意味を持たないって……。あなたはあなたでしょう?」

 必死で訴えるアーセタを見つめて、青年は微笑すると瞳を閉じて俯いた。

「ごめん。個を尊重する君の価値観は、僕にはやっぱり分からない。育ってきた環境なのか、それともやっぱり分かり合えない別の生き物なのか一概にはなんとも言えないけど、人間と言う種や世界を守ることが僕にとって何よりも尊重することであり、それがすべてなんだ。

 君の言う、自己の主張や個の幸せは概念にさえない。僕の心配をしてくれているのにごめん。僕たちは個で総、総で個なんだ。人よりも、動物に近い存在なのかも知れないね」

 青年は申し訳なさそうに説明をしてくれた。

群れを為すサバンナの動物は、鰐の住む運河を渡るとき、最初の一頭が襲われているうちに残りが渡ると言うのを見たことがある。

 救世主と呼ばれるものたちも、それと一緒なのだと言うのだろうか?

 それなら、彼らが生かしたいものとはなんなんだろう? 人間か、それとも世界か。

 どちらにしても、話が壮大すぎて、説明されてもアーセタには理解できないだろう。

 一つだけ分かっていることは、何も悪くない青年がそんな顔をする必要はないということだ。

「ごめんなのはこっちだよ。謝らないで。ぜんぶひっくるめてあなたなんだもんね」

 アーセタは微笑んで自分が出した答えを隠さずに言葉にすると、青年は優しく微笑んだ。

「本当に変わった人だね、君は。他人を認められる人間は少ないのに……」

 青年は、一度アーセタから離れて川沿いに行き洋服を着ると、河原を歩いて戻ってきた。

 その姿は何処から見ても人間と変わらぬ容貌で、彼が植物だなどとは思えない。

 さっきの話でされたことは全部嘘で、彼にからかわれているのではと思えるほどだった。

「これでいい?」

 青年が微笑んで、軽く笑いを含んだ声で問い掛けてくる。

「う……、うん……」

 アーセタは頷いたが、正直に言うと、水に濡れた青年は男とは思えないほどの色気を漂わせていて、正直、隣に立っているだけで鼓動が高鳴ってしまう。

「みんなのところに戻ろうか」

「う……ん……」

 微笑みを絶やさずに提案してくる青年に、アーセタは緊張しすぎてコクコクと玩具のように頷くことしかできなかった。

「こんな時期に水の中に入って寒くないの?」

 河原から祭りの会場に戻る途中、無言でいるのも空気が重くなるだけだと思い、今度はアーセタから話を振ってみた。

「言ったでしょう? 僕は植物だから、水に浸かっているのが一番気持ちいいんだ」

「そうなんだ。それじゃあ、物を食べたりもしないの?」

「うん。食事は必要ないよ。睡眠も取らなくて大丈夫。水と陽の光があれば生きていける」

「それじゃあ、お祭りとかももしかして迷惑?」

「そんなことはないよ。みんなの元気な姿を見ると僕も元気がもらえるし、僕を持て成そうとしてくれるその気持ちが嬉しい。勧めてもらっても食べられないのは辛いけどね」

「食べられないんじゃあ、薦められても困るだけだよね?」

「おいしそうって思えないのが一番ね」

「酷いっ」

 二人は並んで小さく笑い合いながら、月が淡い光で照らす河原を歩いていた。

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