本能寺の変【後編】
「斯様に上手く事が運ぶとは……。洛中はもはや目と鼻の先でござります」
右近が感心したような、呆れたような声音で呟く。
一つ目の木戸を通り抜けて以降、新たな木戸に出くわす事もあれば、惟任殿の兵に
一戦に及ばざるを得ぬ事もあろうと覚悟していたが、拍子抜けとはこの事か。
右近の感心半分、呆れ半分の呟きも頷けると申すもの。
だがしかし、上手くいったと喜んでばかりもおれぬ。
混乱に紛れて多少のハッタリが効くとは思うたものの、ハッタリだけでここまで上手くいくものでもない。
何かがおかしい。
「殿、妙ではござりませぬか?」
「藤左衛門も左様に思うか?」
「如何なさいました?」
右近が不思議そうに尋ねる。
「右近は武田攻めが初陣であったな。とすると、惟任殿の戦を間近に見た事はなかったか」
「惟任殿の戦にござりますか?」
「うむ。惟任殿は万事に渡って備えを怠らぬ御仁。木戸を設け、物見を出したからには、気を配るべき事柄を十二分に言い含めるはず。だが、俺達が出会った者共は、仔細が分からぬままに木戸を守り、物見をしているように見えた」
行き合った者は悉く、誰が敵で、誰が味方か、理解しておる様には思えなかった。
でなければハッタリが効き続けている理由が分からん。
何かの
思えば一つ目の木戸では「引き返せ」としか言われなかった。
街道を閉ざした理由を尋ねても答えはなかったが、あれは知りながら答えなかったのではなく、知らなかったからこそ何も言えなかったのではあるまいか?
そんな疑念すら浮かんでくる。
「……まあ、この先も同じとは限らん。黒煙の元まで間もなくよ。気を引き締めねばな」
「「はっ!」」
「――――御注進!」
「竹腰! 町の衆から話は聞けたか!?」
「はっ……。ようやく確かと思える話が……。しかし……」
竹腰の顔色が悪い。
これは……悪い報せのようだな……。
「……覚悟を決める時間は道中に十分あった。構わぬ。申せ」
「……夜明け前、上様御滞在の本能寺に惟任勢乱入。上様は御討ち死に……。三位中将様は二上御新造にて御腹を召されたと……。所司代の村井春長軒様をはじめ、御馬廻衆、御小姓衆も討ち死に数知れず……」
藤左衛門と右近が言葉を失う。
だが、俺自身は思いの他に心がさざめく事はなかった。
「左様か。黒煙は本能寺と二条御新造か……」
「はっ……」
「惟任勢の数は? 洛中におるのか?」
「洛中は惟任勢で溢れ、数は万を下らずとの事。各所に兵を配し、落ち延びた者を狩り出しております。また、本能寺にも未だ多数の兵がおるようにござります」
「それだけか? 上様と三位中将様の
「町の衆は何も知らぬようにござります」
「分かった。ならば本能寺に向かうぞ!」
俺が申すと、藤左衛門と右近が血相を変えて腕を掴んだ。
「お、お止めください! 上様の後を追われるおつもりか!?」
「惟任様の謀反は明白! ここは恥辱に耐えて引き退き、上様の弔い合戦を!」
「案ずるな! ここで死ぬつもりはない!」
「では何故!?」
「決まっておる! 弔い合戦に勝つためだ!」
皆が目を白黒させた。
敵中に飛び込んで弔い合戦に勝つとはこれ如何に?
殿は気が触れたかと目が訴える。
「俺は正気だ! 兎に角行くぞ! 着いて参れ!」
「いかん! 殿を御一人にするな!」
「続け続け!」
馬を走らせるとなし崩しで皆が後に従う。
目に付いた惟任の兵には、
「斎藤内蔵助の家中にござる! 斎藤内蔵助の加勢にござる! 火急の用なり! 通されよ!」
と嘘八百を叫び、呼び掛けも無視して進む。
本能寺は下京西方の
周囲に町家は少なく、ほとんどが畠だ。
往来を妨げるのは難しい。
駆け抜けてしまえば遠くからず辿り着く!
だがしかし、こちらは五百の小勢。
対する敵は万余の軍勢。
本能寺を目前にして、長柄を並べた足軽衆によってついに止められてしまった。
「お待ちを! お待ちあれ!」
長柄の組頭らしき
「どけい! 手前は斎藤内蔵助が縁者である! 火急の用があって参った! 直ちに通せ!」
「な、なりませぬ! この先はなりませぬ!」
「やかましい! 四の五の申さずそこをどけい! 我が名は斎藤新五郎! かの斎藤山城守道三の末子を存ぜぬか!? 分家の内蔵助が呼びつける故、本家の俺がわざわざ出向いてやったのだ! それをならぬとは何だ!? 無礼極まる! 斬り捨てられたいか!?」
息を切らせて従った槍持ちに「槍を!」と手を差し出す。
槍持ちは息を飲んだが、藤左衛門が溜息交じりで「お渡しせよ……」と申すと、恐る恐る差し出した。
受け取るや否や、組頭の鼻先に突き付ける。
ハッタリに次ぐハッタリ、虚勢に次ぐ虚勢も、真に迫れば信じてしまう。
己に累が及ぶと知れば、腰は引けてしまう。
組頭は「と、取り次ぎまする……」と消え入りそうな声で絞り出し、何度も転びながら、足軽衆の後ろへ走り去った。
残された足軽衆は、脂汗を流して互いに顔を見合わせるばかり。
近辺にいた惟任勢も「何が起きた?」と集まり始めたが、俺が放つ怒気に気付いてか遠巻きにして近寄ろうとはしない。
しばし待ったが、組頭は戻って来ない。
まったく何をしておるか……!
「遅い……遅いわ! もう待てん! 藤左衛門!」
「はっ! ははっ!」
「内蔵助は年取って耳が遠なったようだ! 鉄砲の用意をせい! 盛大に撃ちかけてくれる! 年寄りも鉄砲の音には気付こうぞ!」
「はあ…………承知……承知致しました! 鉄砲衆!」
頭を抱えながらも鉄砲衆に命じる藤左衛門。
俺が本気だと悟った足軽衆の列が乱れる。
周囲の惟任勢も浮足立った。
どこかから「内蔵助様を早うお呼びせい!」だの、「新五郎殿をお止めせよっ!」だの、「道三公の御子ならやりかねん!」だのと、悲痛な叫び声が聞こえて来る。
それに交じって、馬蹄の響きが耳に入った。
「待たれよ! 待たれよ新五郎殿!」
陣羽織を羽織った将が馬を駆って姿を見せた。
誰あろう、斎藤内蔵助利三であった。
「おう! 久しいな内蔵助殿! 待ちくたびれたぞ!」
「新五郎殿……これは如何なる
咎めるような声で問う内蔵助。
「何故ここにいる?」、「加勢など頼んでおらぬ!」と口にせぬのは、同じ美濃斎藤故のせめてもの情けか。
それともこの場の混乱を余計に広げぬためか。
まあ、内蔵助の意思はこの際どうでも良い。
俺の目的はそこではないのだ。
「如何なる仕儀だと? それはこちらの台詞だ。此度の企て、何の故あって起こしたものか?」
「……………………」
「……答えられぬのか? それとも答えを持たぬのか? 己の大義も示せぬ――――」
「――――新五郎殿」
その時だった。
新たな声が俺を呼んだ。
覇気を感じぬ、しわがれた老人の声だった。
「……ほう? 御大将自ら出迎えていただけるとはな。恐悦至極に存ずるぞ、惟任日向守殿」
騎乗して姿を見せたのは、紛れもなく惟任日向守。
こ奴が自ら出張って来るとはな……。
内蔵助が「殿っ! お下がりをっ!」と諌めるのも聞かず、俺の前まで進み出た。
やはりおかしい。
あの頭が良く回る男が、自ら危地に身を投じる真似をするなど……。
間近にしたその顔には疲労の色が濃く、一層老け込んだように見えた。
そして、無理に作ったような表情で微笑を浮かべた。
「惟任日向守などと他人行儀にござるな。以前と同じ、十兵衛とお呼び下され」
「左様か? ならば遠慮なく十兵衛殿とお呼びしよう」
「結構にござる。ところで新五郎殿は美濃で養生しておられると聞いていたが?」
「病は癒え申した。毛利攻めに参陣するためここまで参った」
「参陣は不要。美濃へ戻られよ」
「これは異な事を申される。手前は上様より、毛利攻めが取り止めになったとは伺ってはおらぬぞ?」
「お気付きなのであろう? 上様が命を下される事は、もはやござらぬ」
上様が命を下さる事はない……。
その言葉が何を意味するか、その場にいた者には明らかであった。
藤左衛門、右近、竹腰……。
背後に控える者達が息を飲む音が聞こえた。
「…………よう分かった。ならばせめて、上様と三位中将様の御前に参りたい」
「…………」
「十兵衛殿、頼む」
「………………叶わぬ事にござります」
十兵衛が首を振る。
叶わぬ事…………叶わぬ事……か。
「許さぬ」ではなく、「叶わぬ」か……。
「……ならば結構。代わりに今一度問う。内蔵助は答えなかったのでな。此度の企て、何の故あって起こしたものか?」
「…………不慮の儀」
「……は?」
「
「不慮の儀、だと? 思いも寄らずに起こしたと申すか? 十兵衛殿、それは本心か? 斯様に大それた事、思いがけずに起こしたと申すのか? ではこの後は如何になされるおつもりか?」
「我が子・十五郎に差配を任せる所存」
「……己が始めておきながら、己で始末を付けぬと申すのか? 答えよ! 十兵衛殿!」
「…………」
十兵衛は答えない。
いや、もう十兵衛の答えなど要らぬ。
聞くべき事は全て聞いた。
あとは、弔い合戦に勝つ種を蒔くだけだ。
俺は今日一番、声を張り上げた。
「小心なり! 惟任日向守!」
内蔵助が「何を申されるか!?」と叫ぶのを捨て置き、言葉を続けた。
「『三郎めに天下人の器量なし! 我こそは天下人なり!』 亡き我が父! 山城守道三ならば斯様に言い放ったであろう! 天下人に弓引いておきながら、己の器量を誇れぬかっ!?」
周囲が大いにどよめくのと対照に、十兵衛は俺を止める事も、声を発する事もない。
「行くぞ! この小心者にもはや用はない!」
「……何処へ?」
「知れた事! 毛利攻めに決まっておるわ!」
「上様は――――」
「上様は御健在だ!」
どよめきが一層激しくなった。
「何を根拠に申されるか……」
「ならば
「…………」
「またも答えぬか?」
「…………」
「さらばだ十兵衛! 次に
内蔵助が何かを指示しようとしたが、十兵衛が止めた。
如何なる存念であろうか?
俺達は何事も無くその場を離れた。
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