野心

「……き、肝が冷えましたぞ……」


「……寿命が縮まりましたな……」


 一里ばかり進んだ所で、藤左衛門と竹腰がようやく言葉を発した。


 右近は未だに青い顔で小さく頷く。


 いや、藤左衛門と竹腰以外は大概がそのような顔で、表情もガチガチに固まっておる。


「殿っ! あそこまで申されるとは聞いておりませぬぞ!?」


「斬り捨てられてもおかしゅうはござりませんでしたな……」


「はっはっは! 済まなかった!」


「笑い事ではござりませぬぞ……」


「済まぬ済まぬ! だがのう、危地を脱するには敵の心を乱すのが一番よ」


「惟任様の御器量を散々に扱き下ろしましたからな……」


「しかし不可思議にござる。惟任様は何故に殿の御言葉を打ち消されなかったのでござりましょう?」


「あれでは己に対する悪口雑言に頷くも同然じゃ」


「言葉を返す気力も無かったのであろうよ」


「何かお気付きになったので?」


「十兵衛めの覇気のない顔を見たであろう? 弱々しき声を聞いたであろう? あれはもう、腑抜けてしもうたわ」


「ま、まさか! 謀反を起こした当人が謀反のその日に腑抜け!?」


「上様を討ち取った事のみで満足し切ってしまったのかもしれん」


「上様を討つためだけの謀反ですと!? 天下人たらんと野心あっての謀反ではないと!?」」


「一片の野心もなかったとは申さぬ。だが十兵衛の様子、そして不慮の儀なる言葉。そこから察するに、後の事をよくよく考えて及んだ挙とは思えん」


「真に……真に思いも寄らずに上様を討ったと!? 何故にござりますか!?」


「そこまでは分からん」


 藤左衛門と竹腰が愕然たる表情を浮かべる。


「さて、分からぬ事も残ったが、此度は成果も十分に得た。事の仔細を確かめた上に、危地を脱する事も出来た。おまけに十兵衛の家中には不信の念を植え付けることも出来たであろう? 大将が悪口あっこう雑言ぞうごんを言われるままになったのだからな。弔い合戦に勝つ種が、多少なりともけたかのう?」


 すると、右近が「殿……」と口を開いた。


「勝つ種と申せば、殿は上様が御健在と……。真にござりますか?」


「うむ、口から出まかせだ」


「えっ!?」


「で、ござりましょうな」


「だと思いました」


 年若い右近が驚くのとは対照的に、戦の経験が豊富な藤左衛門と竹腰はしたり顔で頷く。


「十兵衛めが上様と三位中将様の御首級みしるしを出せなんだのでな。出せぬならば御健在に違いなし! ……とまあ、左様な論法よ。証があった訳ではない。正直なところ、御健在か、それとも討ち死になされたか、真の処は俺にも分からん」


「で、では……今後は御首級が出てくる事も……」


「右近は焼けた死体を見た事があるか?」


「は? いえ……」


「火に焼かれれば身体は真っ赤に膨れ上がる。長く焼かれれば赤を通り越して真っ黒になり、焼け焦げた薪のようになってしまう。誰が誰やら顔の見分けはつかず、男か女かも分からなくなるのだ」


「…………」


「本能寺も二条御新造も焼け落ちた。上様と三位中将様があの場で討ち死になされ、未だに御首級がないとなれば、おそらく御遺体は炎に焼かれてしまわれたに違いない。御首級なぞ用意出来るはずも無し。首が出て来たとすれば偽首ぞ」


「な、なるほど……」


「十兵衛はしくじったわ。本能寺と二条御新造に火が掛かった時点で不利を得たのだ。御首級を示す事が出来ねば『上様御健在』の話は消えぬ。これに付け込む者もおるであろうな」


「殿は早速付け込まれた訳でござりますな? 勝ちの種となさるために……」


「十兵衛に対する不信の念を助長すれば御の字、程度の話ではあるがな」


「ところで殿。この後は如何なさいます?」


 藤左衛門が渋い顔をして尋ねた。


「とりあえず下京から離れて西に進んでまいりましたが、真にこのまま毛利攻めに向かわれるので?」


「出来れば三野へ戻りたい所ではあるが、これから戻るのは難しかろう。京の周囲は十兵衛が押さえておるし、近江も十兵衛の手が及んでいよう。南へ向かおうにも、大和の筒井は十兵衛の寄騎だ。信用出来ん」


「では、摂津・和泉の神戸かんべ三七さんしち様の元に? 畿内近国で惟任様に抗する事が出来るとすれば、三七様の軍勢にござります」


「そちらもダメだ。副将格の津田つだ七兵衛しちべえ殿は上様の甥御だが、妻は十兵衛の娘。おまけに父君の勘十郎殿は、かつて上様に楯突き誅殺されておる。十兵衛に通じているかもしれん。摂津の池田殿は……」


「池田様は上様の乳兄弟でござりましたな。謀反の事を知ればさぞお怒りになるでしょう。ただ、惟任様に抗するだけの手勢をお持ちではござりませぬ。摂津には高槻の高山右近様、茨城の中川瀬兵衛様と、惟任様の寄騎も多い……。良い場所ではありませぬな」


「……遠くなるが羽柴殿を頼るしか道がなさそうだ。とりあえずは播磨の姫路を目指し、羽柴殿の御判断を待つとしよう」


「致し方ござりませんな……。しかし――――」


 藤左衛門は言葉を切り、目を細めた。


 馬を間近に寄せ、右近や竹腰にも聞こえぬように声を落とした。


「――――織田の家中は荒れまするな? はて? いつ収まることやら……」


「長うなるやもしれん。長くなれば――――」


「――――またとなき好機、でござりますな?」


 藤左衛門の言葉に小さく頷く。


 そう、これは好機だ。


 三十年来の悲願を叶える時は今を置いて他にない――――。


「――――三郎めも勘九郎も死んだ。勘九郎の子は幼子おさなご。北畠の茶筅ちゃせんは伊賀攻めの失態甚だしく衆望はない。三七さんしちは国衆の当主に過ぎず、三郎めに泣きつかねば大軍の采配など思いも寄らぬ。他も小者か年若き者共ばかり……。三郎に代わって、天下を差配する器量有る者はおると思うか?」


「思いませぬ」


 藤左衛門はどこか楽しそうに首を横に振った。


「……三野へ密使を出す」


「はっ……」


「佐藤の爺に三野城の守りを固めるよう伝えよ。一族郎党、伝手の有る者は、隠居に至るまで根こそぎ掻き集めてな。そして美濃・尾張・飛騨の衆に調略を仕掛けるのだ。上様と三位中将様は京にて惟任日向守の手により横死。謀反人の手から三国を守るため、心有る者は集え、とな」


「大義は如何に?」


「俺の姉は帰蝶……三郎めの本妻だ。義弟が恩義ある義兄のため、謀反人に抗すべく旗を揚げる……。義弟である事を利用し尽くせと申しておけ」


「承知致しました。密使は佐藤殿のみでよろしゅうござりますか? 玄蕃助げんばのすけ様には……」


「兄上には大役を担ってもらう。岐阜城を盗れと伝えよ」


「三位中将様の御城にござります。よろしいので?」


「主が不在の城よ。余人に盗られてはまずかろう? ならば義理の伯父たるこの俺がもらってやる」


「お悪い顔をしておられます」


「目の上の瘤は失せた。もはや耐え忍ぶ事もあるまい」


 思えば恥辱に耐え続けた人生であった。


 三十年前の事。


 我が父・道三は、尾張の正徳寺にて三郎めと対面し、こう申した。


「無念な事よ。我が子らは、たわけの門外に馬を繋ぐ事になろう。必ずそうなる」


 門外に馬を繋ぐ……要は、俺達が三郎めの臣となるのは間違いないと申したのだ。


 斯様な辱めがあろうか?


 我が子には器量が無いと、家中の者共の前で放言したのだ。


 後年、父は兄・義龍に背かれ攻められるや、三郎めに美濃一国の譲状ゆずりじょうしたため加勢を頼んだ。


 ところが、我が子を差し置き持ち上げた三郎は、尾張一国の平定にも苦心し、兵は足りず、加勢は間に合わず、父は討ち死にした。


 ……これも子を蔑ろにした報いか。


 地獄に落ちて当然だ。


 三郎は三郎で、義父を救えなかったくせをして、譲状を大義名分に美濃を攻め取り我がものとした……。


 父が死した時、俺はまだ幼児に過ぎず、事の仔細を承知したのは後年になってから。


 理解するにつれ、激しい怒りを覚えざるを得なかった。


 三郎めには、命を救われ拾われた恩義がある。


 しかし、恩義で恥辱の念は消えぬ。


 当世は未だ乱世である。


 一朝事あらば我が恥辱をそそぐ機会を得んと、野心を秘めて雌伏し続けた。


 それももう、今日で終わりだ。


「さあ、国盗りを始めるぞ」


 十兵衛の天下が終わりを告げたのは、今日よりわずか十日余り後の出来事であった。

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