閑話

本能寺の変【前編】

「ゴホッ! ゴホゴホゴホッ!」


「と、殿っ!」


「大事ござりませぬかっ!?」


 馬上で咳き込んでおると、家臣が慌てた顔で馬を寄せた。


 家老の加治田かじた藤左衛門とうざえもんと近習の佐藤さとう右近うこんだ。


 揃って不安そうな顔をしておる二人に「大事ない」と手を振った。


「少しばかりむせただけよ。案ずるな」


「し、しかしですな……」


「病が癒えておられぬのでは……?」


「だから案ずるなと申すに。上様から三月みつき近く暇をいただいた。十分に癒えておる。上様は既に京へ入っておられる。早く追い付かねば……」


「数日でもよろしゅうござります。京で養生なさっては? 京ならば曲直瀬まなせ先生もおられますし……」


「それがよろしいかと……」


「くどい! この斎藤さいとう新五郎しんごろう利晴としはる、左様にやわな男ではない!」


「いえ、軟かどうかではなく……」


「咳一つでいちいち寝込んでおっては、亡き我が父、山城守道三も地獄の底で笑っていよう!」


 藤左衛門と右近は目を丸くして顔を見合わせ、苦笑しつつ小さく頷き合った。


 む? 亡き父が地獄におると申したは冗談であったが、そこには一言も無いのか?


 妙に納得した顔をしておるが……まあよいか。


 俺もあの父が御仏の御許みもとに行けたとは、到底思えぬからな。


「父の事はさて置き、此度の毛利攻めこそは是が非でも上様と三位さんみの中将ちゅうじょう様の供を致すのだ。先達ての武田攻めでは全くお役に立てなかったのだからな」


 今年の二月、上様は年来の仇敵であった武田四郎勝頼を滅ぼした。


 俺は三位中将様に従い信濃まで攻め入ったものの、甲斐に入る手前で病を得てしまい、十分な働きが出来なくなってしまった。


 その後は上様より御暇をいただき、三位中将様からは名医の曲直瀬まなせ道玄どうげん殿まで遣わしていただき、領地の三野にて養生する事となったが、身体が持ち直すまで三月以上も要した。


 しかし、俺が悠長に寝込んでおる間にも世上は刻々と動いておる。


 北国では柴田しばた修理しゅり殿が上杉を攻め立て、摂津・和泉では神戸かんべ三七さんしち様が惟住これずみ五郎左ごろうざ殿と津田つだ七兵衛しちべえ殿を従えて四国攻めの準備を整えておる。


 そして中国では、羽柴はしば筑前ちくぜん殿が毛利の本軍を引きずり出す事に成功。


 これこそ毛利を打ち倒す好機だと、上様の御出馬を願い出たのだ。


「俺は上様の馬廻……。上様が御出馬なさるなら、御供をせずして如何にせよと申すのか!? 此度は惟任これとう日向守ひゅうがのかみ殿も上様に付き従って出陣なされるのだ。織田を挙げての戦に等しいのだぞ!?」


「承知しました! 承知しましたから……!」


「殿は上様が関わると途端に意固地になられますな……」


「当然であろう! 上様には拾っていただいた大恩がある! 我が父・道三が討ち死にし後、兄・義龍は力なき童に過ぎぬ俺の命まで狙い、食うや食わずで――」


「いかんな右近。変な所をつついてしもうたわ」


「これはまた話が長くなりまするな」


「とりあえず頷いておけ。聞き流しても内容はいつもと同じだ」


「もはや耳にタコが出来てござります。聞かされずともそらんじられる程に……」


「わしは上様の大恩の話よりも此度のまかないを如何にするかで頭が痛い……。当家の身代は三千貫文そこそこ。だのに手勢五百はちと多過ぎる……。武田がのうなったとは申せ、国許くにもとにも人は残さねばならぬし……」


「上様に対する詫びの念故にござりましょう。殿はお気に入りの茶器を売り払って銭を用意なされたと伺いましたぞ?」


「左様。結構な額じゃ。だがのう……此度の行き先は備中びっちゅうであろう? 播磨はりまのさらに先じゃ。信濃や甲斐よりなお遠い。事によると備後びんご安芸あきまで進むかもしれん。三野へ帰るまで銭がもつかどうか……。戦が早く終われば良いが……」


「上様が米や玉薬を下されるのでは? あるいは上様の御出馬を願った羽柴様が御用意下さるやもしれませぬ」


「羽柴様が御用意なさるのが筋とは思う。とは申せ、あちらに行ってみなければ詳しい所は分からんな」


「ならば、三野の留守居をしておる我が父・紀伊守に金策を任せるとしましょう。手前も文を書いておきます」


「そうしてくれると――」


「――――上様は我が姉・帰蝶を……おいっ! 聞いておるか!?」


「「はっ! しかと!」」


 藤左衛門と右近は声を合わせて即座に答えた。


 馬廻や口取から「くっく……」と笑い声が漏れる。


 ええい! こ奴らめ!


 上様の有難い話を聞き流しておったな!


「其方ら――――」


「――――御注進っ! 御注進にござりますっ!」


 長く伸びた列の前方――京の方向から騎馬武者が一騎、猛然と駆けて来る。


 物見に出しておいた使番つかいばん竹腰たけごし次郎兵衛じろべえだ。


 京も間近のこの地にて、急ぐ事も無ければ慌てる事も無い。


 何か報せがあるという話も聞いていない。


 にも関わらずあの急ぎ様……尋常ならざる事が起こったに違いない!


「何事だ!?」


 竹腰は尋ねる俺に馬を寄せ、藤左衛門と右近を招き寄せて声をひそめた。


「京より黒煙が幾筋も上がってござります……!」


 藤左衛門と右近の顔にも緊張が走る。


「黒煙が幾筋も……大火でも起こったか……!?」


「それが……俄かには信じ難く、要領を得ぬ話ではあるのでござりますが……」


 竹腰が言い淀むなど珍しい。


 それほどまでに大事なのか?


 俺は「構わん! 申せ!」と答えを促した。


「然らば申し上げます。この先では京より逃げ出した町衆が列を成しております。その者共が申すには、洛中へ数多の兵が乱入し、御所や寺を焼き討ちしたとの事」


「ら、乱入だと……!? 畿内で左様な無法を働く者なぞ今となっては……。三好も松永も荒木も、もうおらぬ……! 一向門徒共も大坂を退去したではないか……!?」


「そのいずれでもござりませぬ……!」


「では何者だ……!?」


「……京より逃げて参った者共が口々に申すには、乱入した兵の旗指物は水色桔梗……!」


「み、水色桔梗……!? 明智の旗ではないか……!?」


 共に毛利攻めに向かうはずの惟任日向守殿――かつての名を明智十兵衛。


 かの者の掲げる旗に相違なかった。

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