第99.5話 ヴィルヘルミナの独白 その玖
「うげぇ~……すんごい臭い……」
「うっぷ……は、吐きそうです……」
クリスとハンナが両手で口と鼻を押さえた。
ビーナウの商人達は、ある者は震えながら顔を背け、またある者は我慢出来ずに路上で嘔吐している。
ヨハンを始めとする騎士達も青い顔をしていた。
一方、お父様やクリストフ殿は顔をしかめながらも目の前の光景から目を逸らさずにいる。
私もまた、その光景から目を離す事なくじっと見守り続けた。
私達の目の前には火にかけられた大釜――異世界の「釜茹で」という処刑が行われている。
大釜には大量の油がなみなみと満たされ、カラカラと軽快な音を立てて白煙を上げる。
そして、赤黒く爛れた腕が助けを求める様に天へ向かって突き出されていた。
つい先程まで、ブルームハルト子爵とオットー・モーザーだった物……に他ならない。
辺境伯の娘でなければ、商人達と同じく目を逸らし、嘔吐していたかもしれない。
ただ責任感だけで立っているだけなのだ。
あるいは、恐怖のあまり動く事すら出来ないだけなのか……。
ずっと膝が震えているのが分かる。情けない。
長い……長い時間を経て、大釜から聞こえる音が小さくなった。
サイトー家の兵が大釜の横に据え付けられた台の上から、長い棒で大釜の中を突く。
モチヅキ殿も台へ上がり、大釜の中をのぞき込んだ。
「若っ!」
「良しっ。終わったか」
腕を組み、顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに「釜茹で」を見詰めていたシンクローは、一つ頷くとお父様に向き直り、その場に片膝を突いた。
「辺境伯へ申し上げます。逆徒の首魁共は成敗いたしました」
「……大儀でした」
とそこで、トーザ殿が「御注進致します!」と駆け込んで来た。
ブルームハルト子爵とモーザー以外の反逆者はミドリ殿とカサンドラが相手をしていた。
どちらかに勝てば命を救うという約束だったはずだが、たった三人で音を上げてしまったと言う。
二人の常識を外れた戦いぶりに心を折られ、完全に戦意喪失。
あんな死に方をするくらいなら、さっさと首を斬ってくれと泣き叫んでいるらしい。
「若、如何致しましょう?」
「意気地なき者を無理に戦わせることもあるまい。強いて戦わせれば嬲り者に他ならぬ。当家の名に傷が付くわ」
「では?」
「いや、待て」
シンクローはトーザ殿を待たせると、再びお父様に向き直った。
「辺境伯、残る者共は改めて沙汰してもよろしゅうござりますか?」
「何故です?」
「首を斬れと申す者の首を斬り、願いを叶えてやる事はありますまい。沙汰が下るまで、せいぜい震えてもらう事と致しましょう。逆徒にはよい報いかと」
さらに「生かせば他に使い道があるやもしれませぬ」と言い添えた。
他の使い道?
処刑をせずに?
一体何だと言うんだろうか?
お父様はシンクローの意図を理解なさったのか、苦笑しつつお答えになった。
「……サイトー殿も人が悪い」
「お気に召しませぬか?」
「いえ、そうしましょう」
「流石は辺境伯にござります」
シンクローは「よくお分かりでいらっしゃる」と言いたげに笑うと、トーザ殿やモチヅキ殿に指示を始めた。
その後の展開は非常に早いものだった。
捕虜の武装解除や投獄、収容が行われる傍ら、新たに軍の編成も行われた。
敵対した者達の領地を押さえるための軍だ。
今夜の内に各地へ派遣し、反撃の芽を完全に摘むのだと言う。
昼間、あんなに激しく戦っておきながら気力がもつのか疑問だったが、私の心配など無用の長物だった。
サイトー家の兵達は、せっかくの戦なのに敵に手応えが無く、手柄を上げる機会に恵まれなかったと大いに不満を抱いていたのだ。
特にキューシューの兵達の不満は凄まじい。
異世界での初戦だと、大いに士気が高かった裏返しだろう。
シンクローが軍の編成を発表するや否や、大地が割れてしまうのではないかと錯覚するほどの雄叫びが上がったほどだ。
ちなみに、ミドリ殿も例の凶悪極まる棍棒を振り上げて軍に加わろうとしていたが、モチヅキ殿とヤチヨ殿に組み伏せられ、泣く泣く断念したのだった。
日がとっぷり暮れ、真夜中になる頃には、松明を片手にした兵達が、次々とビーナウの門をくぐって出陣していった。
早ければ、夜明け頃には目的地へ到着する軍もあるだろう。
きっと、敵方は守る準備も出来ていないだろう。
敗報が届いていていない所もあるかもしれない。
サイトー家の兵達には悪いが、抵抗らしい抵抗もなく、攻め落とす事になるのではないかと思う。
果たしてどれほどの手柄があげられる事か……。
シンクローはよく命令に従って戦った者には褒美を上乗せすると宣言したが、無茶をする者が出ないか心配だ。
なお、命令違反者は例によって「イッセンギリ」となるらしい。
多少の歯止めにはなるだろうか?
出陣する兵を見送った後、本陣近くの宿に宛がわれた自室に戻る。
疲れた……。今日は本当に疲れた……。
今回の戦、ゲルトとの戦に比べれば私自身の役割は限られたものだ。
自身で剣を振るう事もなかった。
だが、釜茹でのせいで精神がゴリゴリと荒っぽく削り取られた気がしてならない。
まさかあんな恐ろしい光景を目の当たりにする事になるとは……。
処刑するならてっきり「ウチクビ」だと思っていたのだが――――。
「――――ん? この音は……笛の音?」
近くではない。
どこからか、風に乗って笛の音……らしき音が、かすかに耳に届いた。
聞いた事ない笛の音、聞いた事のない曲……。
「……もしかして、異世界の笛?」
こんな時間に、戦があったばかりの場所で誰が?
気になった私は宿の外へ出た。
サイトー家の兵がそこかしこに見張りに立っているが、笛の音を気にする様子はない。
おかしいな。
今もかすかに聞こえているんだが……。
手近な兵に声を掛けてみると、意外な答えが返って来た。
「あの笛の音は若にござります」
「若? シンクローか!?」
「はっ。あちらにおられます」
兵は本陣の向こう側――海の方向を指差した。
礼を言って兵に教えられた方向へ歩いて行くと、音はだんだんとハッキリ聞こえるようになった。
やがて、海を臨む位置まで来ると、岩に腰を下ろして横笛を吹く男の後姿があった。
「シンクローか?」
「ん? おう、ミナか? 如何した?」
「宿の方まで笛の音が聞こえて……」
「何? それは済まぬ事をした。起こしてしまったか?」
「いや、まだ起きていたんだ。それに迷惑を言うほど大きな音でもない」
「左様か」
「しかし驚いたな……。シンクローは音楽の心得があったのか?」
「下手の横好きよ。大して吹けぬ。
「アツモリ? また知らない名が出て来たな……」
「うむ。ならば聞かせてやろう。平家物語と言ってだな―――」
「ヘーケ?」
「……九郎判官と同じ時代を生きた武者の話、と申した方が分かりやすいか」
「ホーガン様!? その辺り詳しく!」
「お、おう……。分かった……」
シンクローから聞かされたヘーケ物語、そしてアツモリの最期は驚くべき内容だった。
驚かざるを得なかった。
ホーガン様と同じ時代と言うならば、この物語は四百年近く前に作られた事になる。
四百年前にこのような壮大な物語が成立しただと?
我が国でも四百年前の詩や伝承は数多伝わるが、こんなものは聞いた事が無い。
驚きを口にすると、さらに古い時代に成立したゲンジだとか、タケトリとかいう物語もあると聞かされた。
こちらは五百年か、六百年前と言う。
「な、何という事だ……。異世界は
「おい。何か失礼な事を申しておらぬか?」
「そ、そんな事はないぞ?」
「声が裏返っておるぞ」
「それは仕方ない! シンクローの口から恋愛小説の話が出るなんて思わなかったんだ! 意外過ぎて声も震える!」
「驚くような話か? 物語を読む事も教養の内ではないか」
「こ、この上さらに恋愛小説が教養……」
「異界では違うのか?」
「娯楽ではあっても教養とは思われていないな……」
私自身は、素晴らしい物語を読む事は十分に教養になると思うのだが……。
世の常識はそうではない。
物語は女子供の娯楽と思われている。
教養と言えば、歴史書や法学書、哲学書を読む事。
帝都では文学の研究も行われているが、一段下に見られているような状況だ。
「物語から得られる教訓は多いぞ? 先達の心根を知る事もまた教養だと思うがのう」
「やはり異世界の者とは根本的に価値観が違うらしい……」
「そのようだな。だが、相通ずる事もある」
瞬間、シンクローに片腕を掴まれ強く引き寄せられた。
「シ、シンクロー……?」
「戦場で
「え?」
「昂った兵が
「そ、そんなつもりは……」
「其方の意思はどうでもよい。他人が如何に見るかだ。俺ももう、忍耐叶わぬやもしれぬ……」
「あっ……!」
さらに強く腕を引かれ、抱き寄せられてしまう。
力が強くてビクともしない……振りほどけない……!
「やめろ……! シンクロー……!」
「もう遅い」
「ダメっ……!」
シンクローの手が私の頬に伸びた。
徐々にシンクローの顔が近付く。
恐怖で目を開けていられず、ギュッと強く瞼を閉じた。
……………………?
なぜだろう?
待てど暮らせど、来ると思っていた感触は訪れない。
薄っすらと瞼を開けてみた。
「……シン……クロー?」
「……とまあ、斯様に危なき事もある。味方の陣でも気を抜かぬ事だ」
「えっ……!」
シンクローがスッと手を離した。
意地悪そうな笑顔でニヤニヤしている。
「くっくっく……。観念した顔にもそそるものはあったが……」
「シ、シンクロー! からかったな!?」
「人目のある所で
「は!? 人目……!?」
「俺がたった一人でいると思ったか?」
シンクローがそう言うと、周囲の物陰から一人、二人……五人、六人と次々と人影が現れた。
モチヅキ殿とヤチヨ殿の姿もある……!
「若は総大将にござりますからな、御身は忍衆と近習衆にて常日頃固くお守りしております」
「今宵は笛の邪魔をせぬよう姿を隠しておりましたが……。うふふふ……。とても面白いものを拝見出来ましたね……」
ヤチヨ殿がクスクスと笑う。
「あ……あ……ああああああ……恥ずかしいっ!」
「はっはっは! 八千代! ミナを宿まで送ってやれ!」
「承知致しました」
こうして、私は手痛い教訓を得る事となった。
その夜は、ベッドの中で悶え苦しんだのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます