合戦 ~三野の戦い~

第84.5話 母は強し

「じゃあ戻るわ。ミドリ、あとは任せたわよ」


 朝霧が薄く立ち込める庭先で、カヤノ様が気もそぞろなご様子で告げられました。


「はい。新九郎には心配無用とお伝えください」


 申しあげると、カヤノ様は片手をヒラヒラと振りながら、巨木へと溶け込むように消えて行かれました。


 具足姿の奉行衆が「おおっ……」と畏れ敬うかのように声を漏らします。


 黒衣の下に腹巻を着込んだ利暁りぎょう和尚――義兄上あにうえ様は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」と手を合わせて題目をお唱えになりました。


「ほっほっほ。幾度目にしても不可思議なものにござりますな。正に神仏の成せる御業みわざにござる」


 丹波様はさして不可思議とも思っておられないご様子で笑っておられます。


 ですがその御言葉を耳にした奉行衆の数人が、義兄上様と同じく手を合わせ「南無阿弥陀仏……」などとやり始めました。


「さあさあ皆様。神仏を敬う事はいつでも出来ますよ」


「お方様?」


「敵が襲い来るのです。いくさ評定ひょうじょうと致しましょう」


 手を打って促すと、「もっともにござる」などと申されつつ、皆様が評定の間へ戻りました。


 畳も調度ちょうども片付けられ、殺風景な板の間となった評定の間の床には、畳一枚近くある絵図が広げられていました。


 異界に来てから作り直した三野郡の絵図です。


 集まった十人ばかりが絵図を中心に車座になって腰掛けました。


 わたくしは留守居の大将として上座に、左右には義兄上様と丹波様がお控えになります。


「翠殿、始めてもよろしいかな?」


「はい、義兄上様」


「うむ。ではまず敵が何処いずこから三野へと入る腹積もりであるか。……まあこれは、議するまでなく南、かつては岐阜へと繋がっておった道筋からであろう」


 丹波様や奉行衆が小さく頷きます。


 敵は港町ビーナウ近くの、ネッカー川の河口を渡っているそうです。


 渡河した場所から最も近い三野への入口は南の木戸口きどぐち


 河を渡り切った後、北へ向かえば西の木戸口にも達しはします。


 ですが、北へ向かえば余計な時を掛ける事になります。


 時があればこちらの守りも当然固くなるもの。


 それに西の木戸口はネッカーから程近い場所にあります。


 三野へ入る前に新九郎が横槍を入れるでしょう。。


 南の木戸口を素通りし、東の木戸口へと大回りする事も出来はしますが、こちらは西の木戸口へ向かうより、さらに悪手です。


 素通りした後に我々が背後を突くやもしれませんし、何より東は魔物が跋扈ばっこする荒地が広がります。


 戦を控えた軍勢が通る様な場所ではありません。


 よって、敵は南から来るのです。


 まあ、敵の中に九郎判官や木曾義仲の如き名将がいればこの限りではありませんが……。


 そんな事を考え始めれば切りがないのです。


「――――敵は南から来る。これでよろしいかな、翠殿?」


「はい。兵の数は限られているのです。見込みを立てねばどうしようもありません」


「うむ。ならば敵を迎え撃つてだてを如何にするかじゃ」


 二千の敵が渡河し、軍勢を整え終わるには、あと一刻か二刻は必要でしょう。


 冬間近のこの季節に、橋のない河を徒歩かちで渡っているそうですから、あるいはもっと時間が掛かるかもしれません。


 この時間を活かして有利な場所へ兵を配し、切所せっしょと成すのです。


「ほっほっほ。定石ならば、南の木戸口を固めて迎え撃つところでございますな。領内が荒らされても困りますからのう」


 奉行衆から「道理ですな」とか、「異論はござらん」とか、賛同を示す声が聞かれます。


「――――じゃが、お方様は左様なお考えではおられぬご様子」


 丹波様のお言葉に、奉行衆が訝しそうな視線をわたくしへと向けました。


 他に如何なるてだてを講じるつもりかと、目が問うています。


 義兄上様が一同の想いを代弁してお尋ねになりました。


「翠殿、何ぞ考えがあればお聞かせ下され」


「カヤノ様より敵の動きを聞かされてから、ずっと考えていたのですが――――」


「うむ」


「――――敵を三野領内へ引き込みましょう」


「何と! それでは領内が戦場となるではないか!」


「分かっています。ですが、己が身を斬らせねば目的を達する事が出来ません」


「目的?」


「――――三野へと襲い来る敵を、ことごと根切ねぎりにするのです」


 わたくしが「根切り」と申すや否や、義兄上様も奉行衆も息を飲まれました。


 根切り――――要は鏖殺みなごろし、ですね。


 唯一人丹波様だけが、それはもう楽しそうに笑っておられます。


「根切り……か。翠殿、何故左様に?」


「此度の戦、敵は七千の兵を集めました。我が方の三倍の兵です。新九郎はそれでも自信があるようですが、戦は水物なのです。天の時、地の利、人の和を得たとえしても勝てぬ時には勝てぬもの。百戦百勝など夢のまた夢。ならば、勝ちの分を僅かなりとも増やさねばなりません」


 わたくしが申し終えると、丹波様が「ほっほっほ!」と笑い声を上げられました。


「皆の衆、お方様はこう申されたいのじゃ。二千の敵を撫で斬りにし、三倍の敵を二倍に減らせば勝ちの分は大きく増えよう、とのう。いや恐れ入った! 恐れ入り申した! 女子おなごとは思えぬ肝の据わりようじゃ!」


「丹波様は御賛同下さるのですか?」


「お方様が申されねば、この爺めが同じことを申しておりました」


「ありがとうございます。皆様? 如何でしょう?」


 一同に尋ねると、奉行衆から「迎え撃つなら兎も角、根切りには兵の数が……」と弱気な声が聞こえました。


 義兄上様も渋いお顔です。


 確かに三野に残された兵は多くありません。


 三野城の番衆ばんしゅうや奉行衆の手勢を集めて二百程度。


 義兄上様も三野中の寺社から僧や神人じにん、山伏を集めて下さいましたが、数は百ばかりです。


 領民達から兵を募れば多少は集まるかもしれませんが、先のゲルトとの戦と違い、領内が戦場となるならば領民達は自身の村を守らねばなりません。


 御国おくにの大事であっても無理強いは出来ぬのです。


「――――ですが、やってやれぬ事は無いはずです」


「翠殿?」


「ミナ様をはじめ異界の方々は、三野に残された者が役人ばかりと耳にされ、こう申されたそうにございます。曰く、『役人だけでは戦えぬ』と」


 瞬間、奉行衆の目が異様に鋭くなりました。


 直ちに異を唱える声が上がります。


 真っ先に口を開いたのは、山奉行の鷲見すみ新兵衛しんべえ藤保ふじやす殿です。


「我らのお役目は確かに役方のもの。手前も日頃は山造やまづくりの者共を相手に、あるいは木を伐り出し、あるいは木を植え、土に汚れる日々にござる……。しかしっ! 戦陣を忘れた事など一度も無い!」


 すると「鷲見殿に同意ですな」と、公事くじ奉行の伊勢いせ兵庫介ひょうごのすけ氏貞うじさだ殿が続きます。


「役方にあっても武士は武士にござります! 丁度良い! 目安めやすに目を通す事にも飽いておったところにござる。手傷の一つも負えば、煩わしい訴訟ともしばしのお別れじゃ!」


 伊勢殿に続き、三野みの郡代ぐんだい北條ほうじょう常陸介ひたちのすけ直高なおたか殿が「田畑が荒れると次の作柄さくがらが……」とぼやきつつ、


「若は河越の合戦を引き合いに出され、勝てると申されたのでしたな。北條の末座にあった者として、河越の合戦を出されては是非も無し……! 何が何でも勝たねばならん!」


 矢倉やぐら奉行の日根野ひねの和泉守いずみのかみ利就としなり殿が握り拳で胸を叩きました。


「弓鉄砲に矢玉、長柄だろうと持槍だろうと十分に用意しており申す。当然ながら首桶くびおけも。各々方、存分に手柄てがらする好機ぞ!」


 奉行衆から喚声が上がります。


「……やれやれ。翠殿には敵わんのう」


義兄上様が坊主頭をペシリと叩いてお立ちになりました。


「ミナ様は非道ひどいお方じゃ。役人の事は口にされたのに、坊主の事は口にされておらぬ。坊主はそもそも数の内にすら入っておらぬのじゃ。なんたる恥辱か!? この上は、我ら三百で敵二千を根切りとせん! 日根野殿が用意された首桶は、一つ残らず使い果たしてご覧に入れよう!」


 奉行衆から「おうっ!」と同意の声が上がり、軍評定は熱を帯び――――。


「――――御注進!」


 近習衆の一人が駆け込んで来ました。


「何事ですか?」


「はっ! 飛騨ひだ郡代ぐんだい望月もちづき信濃守しなののかみ様、御着到にござります!」


「はっはっは。戦を前に何やら賑やかにござりますな」


「望月殿っ!? こんなに早く着到なさったのですか!?」


「はっ! 飛騨衆三百、着到してござります!」


 望月殿が任されているのは天正てんしょうの大地震で荒れ果てた旧内ケ嶋領。


 山深く、軍勢の素早い行き来が難しい土地なのですが――――。


「若から送られた木の種が、一夜で大木となった事には肝を潰しましたな」


「飛騨にもカヤノ様が?」


「はい。魔物退治で各所に散った者共を集める事に手間取りましたが、どうやら間に合ったようで」


「大手柄ですよ望月殿。今は一人でも多くの兵が必要です。飛騨衆三百、百万の味方を得た思いです」


「勿体のうござります。これで孫共に笑われずに済みまする」


「左馬助殿も八千代も笑うものですか。もしも笑うなら、わたくし自ら折檻しましょう」


 あら? どうしてでしょう?


 望月殿も義兄上様も、奉行衆も、皆そろって青い顔をしています。


 丹波様も押し黙ってしまいましたね。


 まあ、よいでしょう。


 そんな事より兵の数はこれで六百。


 打てるてだてが増えました。


 いざ出陣です!

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