第84話 「離れたくないわ」カヤノは新九郎に身体を寄せた
「……カヤノ様。そろそろお離れになっては?」
ミナが険しい顔で口を開いた。
やはり険しい視線の先には、俺の首に腕を回し、しな垂れかかるように抱き着くカヤノの姿。
「やあよ。離れたくないわ」
「ここは軍議の場ですから……」
ミナが後ろを振り向く。
ネッカー辺境伯邸の広間には、主だった者達が戦支度を整えて勢揃いしていた。
佐藤の爺、左馬助、弾正、山県、浅利、小幡、竹腰、長井隼人と九州衆。
ヨハンやクリストフ達、異界の騎士の姿もある。
いずれの顔も、ミナと同じく一様に険しい。
だが、咎め立てする気配はない。
険しい事は険しいが、咎め立てすると申すより何かを案じるような顔付きだ。
ただし、神たる身のカヤノには、咎めるにしても、案ずるにして、人間の顔色など考慮の内に入らないらしく――――。
「あたしはちゃんと働いたの。シンクローの望みを叶えてあげているの。だから見返りはもらうべき」
「……シンクローの顔色がどんどん悪くなっていますが? 白を通り越して今は青くなっています」
「そりゃあねぇ。色々と吸い取っているし」
「カヤノ様っ!」
「よ、よいのだミナ……」
「シンクロー!?」
「俺ならまだ耐えられる……。今はカヤノがもたらす敵の動きこそ重要だ……」
辺境伯領の各地に植えたカヤノの樹の種。
今はどの種も芽吹き、天を突かんばかりの巨木になっておる。
如何なる理屈か知らぬが、カヤノは各地の樹を通して周囲の景色を見る事、音を聞く事が出来るらしい。
俺達は物見を放つまでも無く、敵軍の仔細を
代償として、俺は何かを吸い取られ続けている訳だがな…………。
せ、戦勝の為ならこれしきのこと………屁でもないわ!
「そ、それでだ……。敵勢は如何しておる? 領都の近くから動かぬままか? 数は?」
「そうね…………」
カヤノから敵の動きを知らされたのは昨晩の事。
敵の兵が領都へ集結しているのだという。
直ちに出陣し、夜明け前にはネッカーとその周辺に軍勢を配する事が出来た。
ネッカーには斎藤家の兵が千五百。
他にも辺境伯への出仕を願い出た騎士や兵士が五百。
合わせて二千の兵が集結しておる。
町の外には伏兵も配した。
地元の地理に明るいクリスやハンナ達も付けた。
ネッカーに近付く敵を各所で待ち伏せ、弓鉄砲で盛大に出迎えてやるつもりだ。
やるつもり……なのだがのう……。
連中め、いつになったら動くつもりだ?
このままでは昼になってしまうぞ?
「ど、どうなのだ?」
「う~ん……………………あっ、動き出したわ」
「動いたかっ! 数は如何程かっ!?」
「ちょっと待ってよ。アリを数えるみたいで大変なのよ……」
「ひ、人を
「似たようなもんでしょ?」
カヤノは事も無げに言い放つと、何やら眉根を寄せて目を閉じて唸り始めた。
これは……敵の数を数えておるのか?
「う~ん……………………数え終わったわ」
「本当か?」
「もちろんよ。七千二百五十三」
「は?」
「だから七千二百五十三だってば」
皆がどよめき、顔を見合わせる。
俺達が数を数えるとすれば、敵兵の集まり具合をざっと見渡し、二千だ、三千だなどと、
一人に至るまで細かく数え尽くすなぞ、人の成せる業ではない。
「……つくづく神仏の類よな、お主は」
「ん? 何の事?」
「何でもない。それよりもだ。敵は七千か……。ちと多いのう。手持ちの兵を根こそぎ掻き集め、銭を
「ねえちょっと」
カヤノが袖を引いた。
「て、敵に新たな動きでもあったか?」
「違うわ。あんたに聞かされていた旗とはちょっと違うのが見えたのよ」
「旗? 如何なる旗か?」
「えっとね……」
目にした旗の色や模様を次々と挙げるカヤノ。
その言葉に、ミナやヨハン、クリストフが反応した。
「カヤノ様が目にされた旗は近隣の貴族のものばかりだ!」
「いずれもブルームハルト家やモーザーと繋がりがある貴族です!」
「
「なるほどな……。挙兵が遅くなった理由はこれか……」
「どうする? 作戦を練り直すか?」
「慌てる事はない」
「だが、敵は三倍近い。数の上でここまで優位に立たれては……」
「確かに。戦は数が物を申すからな」
「なら!」
「だから落ち着け。戦は数が物を申すが、此度の敵には隙がある」
「隙?」
「急ごしらえの軍勢だ。た、大将格の思惑も自ずと異なろう……。果たして一糸乱れず動けるものか?」
「若の申される通りにござります」
「サトウ殿?」
「若、関東の衆から聞かされた河越の戦を思い出しますな」
河越の戦は五十年近く前に起こった合戦だ。
関東で勢力を広げる小田原の北條に抗するため、関東に根を下ろす名族――
噂では、北條の三倍とも四倍とも、あるいは十倍とも言う兵が集まったと聞く。
だが、
名立たる将が討死し、古河公方と両上杉は没落。
国衆らは次々と北條の軍門に下ったと言う。
負けた理由は明らか。
思惑の異なる者達が、己が利の為に北條憎しの一念のみで集まった軍勢だったからだ。
対する北條は御家の危急存亡の
雲泥の差よな。
「――――とまあ、日ノ本では、こんな戦があった訳だ。やり様はいくらでもあろう」
左様に申すと、ミナ達は戸惑いつつも「そんなものだろうか?」と落ち着きを取り戻した。
「さ、さて……。敵の数は兎も角として、カヤノよ、敵は何処に向かっておる?」
「南に向かっているわ。一人残らず」
「南? 真か? 領都からネッカーへ向かうには東へ進まねばならんぞ?」
「疑うの? 方角なんて間違えっこないわ。だって太陽に向かって進んでいるもの」
「太陽……。もうすぐ昼だ。太陽に向かって進むと申すならば確かに南か……」
「シンクロー。もしかすると、敵はネッカーではなくビーナウを目指しているのでは?」
「ああ、南に向かったと申すならばそうかもしれん。左馬助!
「はっ!」
使番が
伏兵は思い切って取り止めだ。
ビーナウの守りに就かせる。
その後も、カヤノから刻々と敵の動きが伝えられた。
南に向かっていた敵は海岸に達した所で野営。
翌日早朝には東へ向かって進軍を再開。
昼頃には敵軍先鋒がビーナウに姿を見せ、町近くの小高い丘に陣を敷いた。
さあ、戦は明日からだ。
この日は兵を早めに休ませ、戦に備えた。
ところが翌朝、事態は急変した。
「ねえちょっと。敵が川を渡っているわ」
「川? 川とはネッカー川か!?」
「そうよ」
カヤノのもたらした報に、出陣を直後に控えた
「ビーナウには攻め寄せておらんか!?」
「攻めてないわ」
「川を渡っておるのは如何程だ!? 全軍か!?」
「う~んと……」
「
「注文が多いわね……。うん、二千ってところね」
「奴ら、主がおらぬ三野を狙うつもりか」
「シンクロー、ミノへ援軍を送るべきではないか?」
ミナが立ち上がって進言した。
「サイトー家の軍勢はネッカーとビーナウに集結している。ミノ衆もカントー衆も、タケダの旧臣もキューシューも、兵は皆連れて来たんだろう? ミノに残っているのは役人達ばかりと聞いたぞ? ミノには精強な村人達もいるが……さすがに本職の騎士や兵士相手では……。敵軍には魔法士もいるんだ。これではとても守り切れない」
「うむ……」
「早く決断しなければ間に合わないぞ!」
「まあ待て。カヤノよ。今一度尋ねるが、川を渡る敵は二千で良いのだな?」
「正確には二千百七十四人」
「さて、大凡二千だ。各々、如何に考える?」
俺の問いに、重臣連は涼しい顔をして慌てる素振りすらない。
それどろこか「援軍は必要ありますまい」とか、「
「ほ、本当に良いのか!? ミノを守る兵は――――」
「ミナ、お主は先程、『兵は皆連れて来た。残るのは役人ばかり』と申したな?」
「え? あ、ああ。そう言った。間違ってはいないだろう?」
「大きな間違いだ。役人が戦えないと、誰が申した?」
「えっ!?」
「ついでにだ、当家の兵が美濃衆、関東衆、武田旧臣、九州衆だけだと、誰が申した?」
「えっ!? えっ!? ど、どういうことだ!?」
「敵は策を弄し、せっかく集めた兵を割った。阿保め。飛んで火にいる夏の虫よ」
さあ、敵には地獄へ入ってもらおう。
地獄で摺り潰されてもらおう。
ちなみに、三野城を守る留守居の総大将は、この場に居らぬ
丹波の奴でもない。
母上だ。
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