第2話 圧倒的実力。波音茉莉
「波音茉莉!」
澄華は大声で茉莉に呼びかけた。
茉莉は立ち止まり、澄華を見つめる。
「なんですか? 阿住澄華」
「なっ!?」
茉莉の声はさながら水のようだった。そこにわずかでも隙間があれば染み渡る声。彼女のアンニュイな表情も相まって、もはや聴く水分である。
澄華は何故か喉が潤った。それもそのはず。茉莉の声は脳を揺さぶる。澄華の脳は茉莉の声によって、惑わされていたのだ。
「ぷはぁっ! 喉に水が生まれた……!?」
「私の声にそこまでの反応。随分と耳が良いですね」
「波音さんの声が良すぎるんだよ」
「それで、何の用ですか?」
「私と野良VSMRをやろう!」
「お断りします。他を当たってください」
「私に負けるのが怖いの!?」
「安い挑発。そんな語彙力で私が震え上がるとでも?」
氷の視線を送る茉莉。一瞬怯んでしまった澄華だったが、それでも彼女は一歩踏み出した。
「私と戦えば、常識が変わるよ?」
「常識が変わる……?」
茉莉は足を止めた。
いつもの彼女ならば一笑に付すところだった。だからこれは、茉莉の気まぐれだった。
それだけ阿住澄華の言葉に、興味を抱いてしまった。
「阿住澄華。貴方は私に今、常識が変わると言いましたね。それは本当ですか?」
「もちろんだよ。それが海を視せてくれた私なりのお礼」
「いいでしょう。野良VSMR、やりましょう」
「いいの!?」
「ASMR女子に二言はありません」
二人は無言で距離を詰め、そしてゼロ距離になった。
これはASMR女子にとって、必殺の間合い。
二人の合戦が、今開始する。
しかし、阿住澄華は大きな勘違いをしていた。
無論、彼女の声は天才的な素質が秘められている。
だが、これはVSMR。いかに心を震わせられたか。
これに尽きる。
『なんだか私達、世界で二人っきりみたいだね』
澄華は畳み掛ける。
『好きだよ』
そして、最後の一声をかけた。
常人ならば一瞬で骨抜きになる。そんなとろけるような体験を与えた。
しかし、茉莉は眉一つ動かさない。
「なるほど。言うだけはありますね。心に染み込んで、そしてかき回す。蠱惑的な声でした」
「なっ……! 私の声が効いていない!? あっ!」
茉莉が澄華の腕を掴んでいた。そしてグイと引き寄せる。
澄華の耳は、茉莉の口元まで一気に近づく。
「次は私の番ですね」
「来るか、最強……!」
『たんぽぽ』
「あああああ!」
最高の音楽体験によって、その者は曲の世界観を実際に視ることができた。
あまりにも素晴らしい音楽とは、時に人間に幻覚を与える。
ならば声は?
原初より存在する概念によって、最高の体験をしたらどうなるのか。
「なにこれ!? 耳がざわざわして、脳がくすぐられている!? だけど不快じゃない、むしろ!」
その瞬間、澄華は吹き飛び、地面を転がっていた。
「気持ちいい~!!」
大の字になって地面に寝転がる澄華。気づけば、青い空を見上げていた。
澄華はそのからくりを見破っていた。
「
聴覚、または視覚に訴えかけ、脳へ反応を与える。これはASMRの単純にして、最奥の概念。
今、波音茉莉は最も聴覚に訴えかけられる最適な発声をしたのだ。
口の開き方、発声方法、耳元への距離。それらが適切ならば、“たんぽぽ”の四文字だけで、こうなってしまう。
ASMRの達人は“あいうえお”だけで、相手の脳を最高潮に揺さぶることができるのだ!
「……思ったより、正気を取り戻すのが早かったですね」
「そう、見えるんなら嬉しいね」
血の滴る澄華の手を見れば、それが彼女なりの強がりだということが分かるだろう。
波音茉莉の声を聞き、トリップする直前、彼女は無意識に自らの手に爪を食い込ませた。
それが気付けとなり、寸でのところで完全敗北を回避できたのだ。
「ですが、それだけです」
「待って! ねえ、どこへ行くの!?」
「宿に戻ります。野良VSMRを仕掛けて来たからにはどんな人間かと思えば、少々がっかりしました」
「ふざけるなぁぁぁぁ! 私はまだやれる! 私とVSMRをして!」
「手は強がりで滲み、足は震えている。貴方、それ以上やると、脳をやられて廃人になりますよ」
「VSMRで脳が気持ちよくなって廃人になるなら結構! 波音さん、私と戦って!!」
「くだらないですね。そんな感情論で私はVSMRを受けません」
「波音さん!」
「私は超えなければならないんだ。あの高い高い壁を」
そう言い残し、茉莉は去っていった。
澄華はその背中を追いかけることはできなかった。
やり場のない感情は、澄華に拳を振り上げさせていた。
「くそおおお! 私のことなんて一瞬しか見なかった!? こんな悔しいことあるか!?」
何度も地面に拳を叩きつける澄華。そればかりか、ゴロゴロと地面を転がった。
一通りわめき、当たり散らし、そして彼女は立ち上がる。
「よし、すっきりした。あとは波音さんをぶっ倒すために、何をしたらいいかだな」
阿住澄華の最大の強みは、折れないこと。
侍の魂である刀が折れないように、ASMR少女にとっての刀は声。
「波音さん。私は君の脳をとろけさせる。これは、絶対だよ」
その声のキレが錆びない限り、阿住澄華に真の敗北は訪れない。
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