塙団右衛門始末記

称好軒梅庵

塙団右衛門始末記

 塙団右衛門直之ばんだんえもんなおゆきは、加藤左馬助嘉明かとうさまのすけよしあきの鉄砲大将であった。

天下分け目の関ヶ原の戦いの折、主君たる加藤嘉明は塙団右衛門に次のように下知して送り出した。


「敵を誘き出してこい。既に敵陣が整うておるならば、何もせずにひき返してくるのだぞ」


果たして団右衛門が敵方を窺うと、既に陣が整っていた。

塙団右衛門はひき返そうと踵を返したところで、ふいに立ち止まった。

士卒が訝しんでその顔を注視する中、彼は硬直していた。

彼は何か口の中が渇くような感覚に襲われていた。

それは砂漠を放浪する旅人が慈雨を求めるように、人々の承認を求める渇きであった。

自分は何の勲功も上げられずにこのまま帰るのか。

敵を打ちのめして歓呼の声で迎えられるはずだったのに。


「火縄の準備をせい。合図をしたら、一斉に撃て」


ひとりでに口が動いていた。

足軽達が一斉に鉄砲を撃ちかけると、すぐに撃ち返しがあった。

撃ち返しが終わって敵が再度火縄の準備をしている隙に、塙団右衛門は槍を振り回しながら大音声で名乗りを上げ、それから急いで引き返した。

陣に戻った団右衛門を待っていたのは、歓呼の声ではなく主君たる加藤嘉明の叱責であった。


「お前は勇んでばかりで、兵の道理を弁えておらん。手柄を焦って配下を危険に晒すなど、大将の器ではない。お前のような輩に任せたのは、儂の不覚であった」


吐き捨てるように言う嘉明の前から退がった団右衛門は、その夜の内に出奔した。

嘉明の書院の床には、団右衛門の筆跡になる墨の大書が残されていた。


遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎


ーー江南のちっぽけな水に留まらず、孤高のかもめは天高く飛び去ったのであったーー


嘉明はこの書を見て赫怒し、奉公構ほうこうかまいの触れを回した。

奉公構とは、出奔した家臣を問題のある人物であるとか危険な人物であると触れ回り、再度の仕官を困難にさせる処置であった。


 奉公構は侮り難い威力を発揮して、団右衛門の仕官の道を暗く閉ざした。

嘉明よりも官位が上の大名が雇ってくれることも稀にあったが、神仏さえも奉公構に同意したものか、雇い主が急死するという不幸が相次ぎ、団右衛門は遂に乞食坊主にまで身をおとした。

彼にやっと天運が巡ってきたのは大阪冬の陣であった。

徳川との戦いが避けがたくなると、豊臣朝臣秀頼とよとみあそんのひでよりは豊臣恩顧の大名に助けを求めたが、加藤嘉明はじめ味方をする大名はいなかった。

なりふりを構っていられなくなった秀頼は徳川に恨みをもつ牢人ろうにん達を寄せ集めた。

その中に、我らが塙団右衛門の姿があった。

塙団右衛門は豊臣方に召抱えられ、直接には大野修理太夫治長おおのしゅりだゆうはるながの弟である大野治房おおのはるふさの配下となった。

大阪冬の陣では、真田丸の戦いによる勝利はあったものの、豊臣方は追い詰められて遂に和睦の交渉を始めた。


「何を弱気なことを。和睦など、この治房が潰してやる」


威勢のいいことを言う大野治房であったが、彼はかねてより徹底抗戦を主張していたので、和睦が成ったら立場を危うくすることになるのである。

大野治房は和平の交渉を妨害するために、徳川方への夜襲を計画した。


「夜討ちの大将は是非とも、この塙団右衛門にお任せあれ」


がらがらの声で迫る団右衛門は、幸いにもその役を任されることとなった。

団右衛門は本町橋に兵を密かに進め、徳川方の蜂須賀至鎮はちすかよしちかの陣に、夜襲をかけた。

夜襲の折、団右衛門は橋の真ん中に床几をおいて采配をふるい、夜襲が成功裡に終わったと見るや、馬に乗って屍の転がる現場に駆けていった。

団右衛門は死体の上に木札を一枚一枚置いていった。

木札にはこう記されていた。


本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也


ーー今夜の夜討ちの大将は、塙団右衛門直之なりーー


 大野治房、なかんずく塙団右衛門の妨害に関わらず、一時的な和睦が成った。

木札のおかげで団右衛門の健在を知ったかつての同輩が、彼のもとを訪れた。

大阪城に同輩達が訪問すると、今福口にでかでかと二尺あまりの看板が立っており、塙団右衛門の名が大書されていた。

なぜそんなことを、と問う同輩の黒川三郎右衛門くろかわさぶろうえもんに、塙団右衛門は満面の笑みを浮かべた。

よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに彼は答えた。


「嘉明の爺めが、それがしを誅殺してやると息巻いていると聞いてな。討ち手を待ち構えておるのよ」


加藤嘉明が直近で団右衛門に言及したことはないので、三郎右衛門は苦笑するしかなかった。

団右衛門はしかし、夜討ちの成功以来、得意の絶頂であった。

彼の喉は、今や敵味方の承認の慈雨で潤っており、渇きを覚えることは久しくなかった。


「ところで三郎右衛門よ。半右衛門はんえもんは、林半右衛門は来ていないのか。あやつは、我が断金の友ではないか」


果たしてそんなに親しかったか、と三郎右衛門の頭に疑問の符がついたが、目をきらきらと光らせる団右衛門にそのようなことをいえるわけもない。


「半右衛門は池田家に奉公し、いまは天満屋の陣にいるという。行って理由を尋ねてきてやろう」


三郎右衛門はその通りに半右衛門を訪ね、塙団右衛門に会いに来ない理由を問いただし、答えを得た。

団右衛門のもとに再びやってきた三郎右衛門はばつの悪そうな顔をしていた。

半右衛門は次のように語ったのだという。


「塙団右衛門はおれに『たとい大国を有したとしても、自ら槍を取って戦場に出なければ男ではない』と言っていた。それが、本町橋の夜討ちでは、戦いの最中は床机にひじをついてやりすごし、戦いが終わってからのこのこ出てくるなどと、あべこべな事をしていたそうじゃあないか。林半右衛門は男であるので、男の風上にも置けぬ塙団右衛門にはもう会いとうない」


これを聞いて、塙団右衛門は口の中が再び粘つくような渇きに襲われ、たまらず喉を掻きむしった。

伸びた爪に皮と垢と、そして血がへばりついた。


「あれはっ、あれは、嘉明にそれがしが大将を務められると示したまでのことだ。もう一度ひとたび、もう一度の戦があれば、それがしは槍をもって存分に戦ってみせる」


そのもう一度はすぐに来た。

堀の埋め立てる埋め立てないで和平が破綻し、たちまち大阪夏の陣となった。

樫井の陣で侍大将を務めていた塙団右衛門は柄杓でがぶがぶと水を飲んでいた。

彼は、同じく侍大将を務めていた岡部大学助則綱おかべだいがくのすけのりつなが抜け駆けをして敵に攻めかかったと聞くと、目の色を変えた。

彼は士卒に、行くぞ、とだけ下知を出すと馬に飛び乗って駆け出して行った。

士卒が混乱している内に、団右衛門の馬はたちまち遠ざかっていった。

慌てて飛び出した団右衛門は兜を阿弥陀に被っていた。

徳川方の田子助左衛門たこすけざえもんの放った矢が、団右衛門の剥き出しの額に突き刺さった。

落馬した団右衛門に、八木新左衛門やぎしんざえもんが組みついて、その首を掻いた。


大阪城は程なくして落城した。

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塙団右衛門始末記 称好軒梅庵 @chitakko2

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