前日譚 6話

傘を穿つ雨音が厭わしく静寂を退ける。


図書館の裏手、木々が鬱蒼としている裏庭に。

雨に濡れる白。


──……風邪引くよ。


『なんでいんの。』


──トンネル。開通したんだね。おかげで探したよ。


『ウソ。ここにいるってわかってたクセに。』


──なんとなく、ここじゃないかなって。確証は無いけど。


ユリがゆっくりと振り返る。


『なんの用。』


今は誰にも見せられる顔ではない。

傘を目深に下げ、視線を遮り、掠れそうになる声を振り絞る。



──キョウスケが死んだ。



──────



7月末日──。


吉村恭介よしむらきょうすけが永眠した。

午前10時、部屋から出てこない彼に声をかけにいった職員が、机に伏せて眠る彼を発見した。

先日彼が赴いた海の絵を遺し、その日の夢に微睡むように安らかな寝顔だった。



『ビショビショだね、どこにいたの。』


元気のないゴウシュウ。私たちを前に、やつれた笑顔を取り繕う。


『外。』


『だろうね、シャワー浴びてきな。』


『うん。』


ユリは毅然と立ち進む。

その姿に苛立ちが沸き立ち、私は彼女の腕を掴んだ。


『……何?』


──……。


『離して。』


ユリは私の手を振り払い、振り返ることなく浴室へ去っていった。


『怒ってはいけないよ。』


──……どうしてですか。


『あの娘も、もう散々なのさ。』


ここで怒りを露わにするのは傲慢か。

あるいはあと一月も残されていない彼女への愚弄かもしれない。


わかっている。

しかし。


──あんまりじゃないですか……!


『うん。でも、その気持ちをぶつけるのは、あの娘じゃない。』


想像していなかったわけではない。


元々、こういった仕事なのだ。


来るべき時が、ただ少しだけ早かっただけだ。


『ちょっと人手が足りなくてね、みんなをよろしくね。』


ゴウシュウはそう残し、通夜の支度があると奥の部屋へ向かった。


リビングでは子供達が映画を見ている。

何があったかはまだ知らず、食い入るように肩を寄せ合って見ている。


今の顔はこの子たちに見せれない。

私は逃げるように廊下へなだれ込む。


閉めた戸に凭れ掛かる。


『っ……!』


──……、カナエ。


カナエが、洗面所の陰に蹲って泣いていた。

この1ヶ月の間、2人を見ていて、まるで兄妹だと、そう感じるほどだった。

故に引っ込み思案な彼女には、大層響いたに違いない。


『……私も長いから。いなくなった人はいっぱいいた。』


──うん。


カナエの横に腰を下ろす。


『いつも泣いてた。我慢なんてできない。』


──うん。


『……いつも……キョウスケが、頭を撫でてくれてた。“大丈夫、怖くない”って。』


怖くない。

その意味が、苦しかった。


『どうすれば……いい……?』


歯を食いしばる。

私には、その資格はない。

私には、その言葉をかけられない。


カナエを抱きしめる。


──ごめん……。ごめんね……。僕は、一緒に泣くことしかできない。



ベタな映画に涙を溢すことはなかった。

いつしか、涙なんて枯れてしまったのだと思っていた。

今は、溢れる涙に、声を燻らせないように必死だった。



カナエは泣き腫らした眼を見せたくないと、自室に篭ってしまった。

何か掛けてあげる言葉はあったかもしれない。

だが、あまりにも表面的な言葉しか思いつかず、吐き気すら患い、飲み込むことしかできなかった。

2階のカナエの居室から降りてきたとき、奥の浴室からアイが出てくる。

優しい微笑みで私を迎えてくれた。


「タオル、なかったみたいで。ユリちゃんに渡してきたところです。」


──……そっか。


「落ち込んでますか?」


──キョウスケには、僕も支えられてたから。


「それもそうですけど……、カナちゃんのこと。」


──カナエ……?


アイは飄々と洗面所へ向かい、洗濯を始める。


「上手く元気づけられなかったこと。……ごめんなさい、盗み聞きするつもりはなかったんですけど。」


傷心のカナエを黙って見ていたのか、しかしアイならどうしたのか。

嫌悪と疑念が複雑に交錯する。


──どうすれば良かったのかな……。


「カナちゃん、キョウスケくんと仲良しでしたからね。本物の兄妹みたいに。」


私にもわかりません、とあくまで淡々と業務をこなすアイ。


「何もできないと言うのは、寂しいものですね。」


寂しい、か。私は悲哀と無力感に苛まれているというのに、物珍しい考えをする。


──君は強いね。


するとアイは頬を膨らませ私を睨む。


「すぐに皮肉を仄めかす。貴方の悪いクセですよ。」


──……ごめん。冷静じゃなかった。


アイはフゥーっと息をつき、表情を絆す。

そして、乾燥機から取り出したカゴいっぱいの衣服を私に押し付けた。


──ちょ……。


「お仕事、サボっちゃダメですよ?」


迫力のある笑みでウジウジとする私を一喝する。


「私も、中学生組に元気づけられちゃいました。みんな、想像以上に逞しいですよね。」


──君が……?


こくりと頷く。


「考えることは、悪いことではありません。でも貴方の思考それは、目先の反意に遺憾を唱えるばかり。それではいけません。」


あまり自分のことを分析したことはなかったが、図星を突かれてしまったことだけはわかる。返す言葉がない。


「見つけてください。貴方だけの答えを。他人を介するのは、その後です。」


ひと月程前、ゴウシュウから同じことを言われた。

まるで人生そのものを論ずるようで、幼い私には容易いことではなかった。


未だ、見つけられずにいる。


焦りばかりが募っていく。



──────



モヤモヤとした感情は依然として拭いきれなかったが、思案に耽ると横からアイがジトリとした目で睨みつけるので、一度頭を真っ白にすることにした。


リビングで映画を見ていた子供達と一緒に洗濯物を畳む。

途中、廊下から物音がしたが、おそらくユリが風呂から上がったのだろうと、その時は特に意に介さなかった。


まだ何も知らされていないこの子達は雨の憂いを嘆くばかり。


それが少しだけ、私を落ち着かせたように感じさせる。


その後、中学生組の洗濯物を届けようとアイと階段を登っている時。


事件は起こった。


階下でチラリと覗いたユリの部屋の電気が消えていた時、何やら嫌な予感はしていた。


2階への階段を登りきる直前。


何かを叩きつけるような轟音、そして少女のけたたましい叫び声が上がる。


慌てて駆け上がると、そこにカナエがユリにウマ乗りになって掴みかかっていた。


──な、なにを、


『ああぁああ! ぅぁあああ!!』


声にならない怒りを露わにするカナエ。


その形相に僅かに怯んだその瞬間。


仰向けに押し潰されているはずのユリの脚がカナエの首に後ろから絡みつく。

人間離れした身体能力を身に宿すユリは、あっという間に形勢を逆転させ、カナエの頭を床に擦り付ける。


もう無能な私ではない。


すぐさまユリを背後から羽交締めにし、カナエから引き剥がす。

解放されたカナエは、しかし臆することなく身動きを封じられたユリに牙を剥かんと襲いかかろうとする。

アイもすぐさまカナエを抱き止め、2人を引き離す。


ユリは少しもがいた後にカナエを睨みつけ、


『メソメソメソメソ! いつまで泣いてんだバーカ!!』


と罵倒する。


──ユリ!!


『泣いたって意味ねーんだよ! キョウスケは! 死んだ!!』


『うわぁあああああ!!!』


泣きつぶれつつも、荒ぶる怒りに我を忘れて噛みつこうとするカナエと、対するユリは私の腕の中で一切の抵抗をしていなかった。


その気味悪さや、彼女ユリの目的が測れずに、ただただカナエと距離を置くばかり。


『あんたは……あんたは……! バカァア!!』


言葉にならず、次第に脱力していくカナエを見ているのは苦しかった。

気を逸らした拍子、掴んでいるユリの腕に違和感を感じる。


──君は……なんで。


『気が滅入る。』


ユリは私と目を合わせなかった。まるで悟られるのを拒む子供のように。


『ユリ。』


静寂を裂いたのは深く低い声。


ゴウシュウが私の後ろに立っていた。


『……なに。』


『部屋に戻りなさい。』


ゴウシュウは怒っていなかった。

重く、無機質にユリに声をかける。


ユリもチラリとゴウシュウの顔色を覗くや否や、私の手を振り解き、階下へ降っていった。


『……カナエ、気分はどうだい?』


『……。』


『ココアでも飲もうか。落ち着くよ。』


小さく頷く。


『お部屋で待ってて。持ってくるから。』


カナエはアイに肩を借りながらフラフラと立ち上がり、覚束ない足取りで自分の部屋へ入っていく。


ゴウシュウは私たちに状況を窺うこともなく、すぐに下へ降りていった。


一瞬のうちに事が終わっていく。その刹那に圧倒されることはなく、寧ろ私はキョウスケの部屋に意識が吸い込まれていた。


半開きの戸を開ける。


──……?


私はすぐにユリの部屋へ駆け出した。



──────



──傘くらい持ちなよ。


『……しつこ。』


ドアを開いた時すでに遅く、ユリは部屋にいなかった。


件のトンネルのある押し入れを睨む。



雨なんだから、部屋に篭っていればいいのに。



『ジメジメしてるからやだ。』


──雨の日はそういうもんだろ。濡れながら、言うもんじゃないし。


迷いもせずに図書館裏の緑地に。

どうせここだろうと、私の勘も侮れない。


の家が。ジメジメしてる。』


──……? だから、雨の日なんだから、


『辛気臭い。とてもじゃないけど息が詰まる。』


言わんとすることは、わからなくもない。

この子の性格上、きっとあの重苦しい空気は耐えられないのだろう。

だからカナエと衝突した。

泣き腫らした彼女が気に食わなかった、なんとも自分勝手だろうか。

普段なら一方的に彼女に怒りをぶつけるところだが、今日は違う。


ユリは足元の何かをグリグリと踏み潰している。


──……君さ、素直じゃないよね。


『はぁ?』


──それ、踏み潰してるの。カエデの葉?


ピタリと動きが止まる。


──目を疑ったよ。夏が始まったというのに、かくも鮮やかなあかだ。


紅に染まるカエデの葉を手にあそぶ。

終の家から持ってきたこれも、見事なものだ。


『……持ってきたの? 不謹慎。』


──ひとひらだけ。キョウスケも許してくれるでしょ。


ユリとカナエの悶着の後、キョウスケの部屋に入ると言葉を失った。


辺り一面を満たす紅葉こうよう


カエデの葉が、初夏にも関わらず彩られていた。

幻想的で、見惚れるほどに。

手に触れて気づく。これは、作り物ではない。

目もこの手の感触すらも疑ったが、まごうことなくその紅は存在していたのだ。

そして、まるで疑うこともなく、まず先にユリの顔が浮かんだ。


根拠もない。


しかし、これをやったのはユリに違いないと、直感が騒いでいた。


──どうやったのかは、聞かない。どうせ教える気なんてないだろうからね。


『……じゃあ何が言いたいの。』


ユリの目を見る。


──カエデの花言葉は、“調和”、“美しい変化”。そして。


『……。』


──……“大切な思い出”。


家族に手向けるには、素敵な言葉だ。


特に、太陽のように皆を照らしていたキョウスケを体現する、誉高い赤であった。


──素直じゃないね。


辛気臭いものに耐えられない、虚言にしてはいとも稚拙だ。


ユリはため息をつく。


『当たりー、おめでとーう。とでも言ってほしいわけ? 家族なんだから、手向たむけくらい当然でしょ。』


家族。初めて、ゴウシュウ以外の人間をそう呼ぶところを見た。


──さっきの喧嘩の時。袖、濡れてたよ。


ピシャリと動きが固まり、甚平の袖を握りしめる。

予想通りだ。カナエと揉める前に彼女はキョウスケの部屋で──。

拭った涙は、すでに雨と混じって気配もない。

しかし、心の残滓は、染みついて消え去らない。


──人のこと言えないね。カナエに謝らないと。


『……お説教?』


──……いいや。それとは別に、一つ、聞きたくて。


あの部屋を満たすカエデの葉が、心を震えさせてしようがない。


──キョウスケが死んで、悲しかったんだろう。


『全然──』


──僕はね、悲しいよ。


『はぁ……?』


たった1ヶ月、キョウスケの遺した生きた証が、脳裏に焼きついて離れない。


──僕も君と同じだ。だから、お説教なんて、そんな余裕ない。


『じゃ、なに。』


悲しさが押し寄せるより、昨日まで元気だったキョウスケが突然死んで。

自分がいつ死ぬかなんて、わからないと思い知った。


──とっても怖くなった。僕は、春眠病ではない。だから、20歳では死ななかった。……20


『……。』


死に竦む暗闇。

あまりにも心細い。


──……君は、ずっとこの恐怖の中にいたんだね。


しかし彼女は是としない。

それが救いであるかのように、


『知ったような口を聞くな。』


遠ざけることで、我が身を守る。


──知らないさ。僕の感じた恐怖は、君に遠く及ばない。君の感じてきた恐怖は、きっとこの世界の誰よりも悍ましいから。


すべてが打ち砕かれた。

自己愛も、慢心も、偽善も、献身も。

ユリを見ていると、無知で稚拙な児戯と悔やむ。

痛烈な世界を遮る瞼の裏が、揺り籠だと思い知る。


開いた瞳を、彼女は睨む。


『あっ、そう! わかってくれてなによりですぅ! じゃあもういい機会だから、ほっといてよ!』


──できない……!


『ウザい!!』


──なおさら……君を助けたいんだ!


凍り付くような感覚。体が、危険を感じ取る。

一歩身を引いた瞬間、ユリの右足が目にも留まらぬ勢いで私の顔をめがけて弧を描く。

躱しきれず、どうにかガードを固めるが、勢い消せずに地面に叩きつけられる。


『なんなんだよおまえ! なんも……なんもできないくせに!!』


散々自らを刺し殺してきた現実を、ユリが言うと胸に刺さる。

なんとも……痛いものだ。


冷たい雨がひりつく腕の痛みを和らげてくれる。

だが、沸騰した頭ばかりはそうはいかない。


──なんも……できないさ……! そうして逃げてきたのだから!! 僕は、君の命を救えない……。


己の無力を知って。

不甲斐なさを知って。

何かをなせる者ではないと知った。


『じゃあ、失せろよ! どっか逃げだしちまえよ!!』


力なんてないから。

だから──。


──もう逃げないって……決めたんだ。独りで救えるなんて思い上がらない。一緒に闘うって決めたんだ!


再びユリの健脚が襲い掛かる。

身を捩って躱すが、勢い余って壁に背を強打する。


声を飲みこむのも束の間、ユリは怒りのままに私にのしかかり、胸倉を掴む。


『で? で? で!? だから、なに!! 御高い信念見せびらかして、……知ってるよ。アンタみたいなやつらは、同情してりゃ良い気になって自慰のように涙を流す……。』


あまりの気迫に息をのむ。


『ホントに……ホントに! ……クソッタレだよ。』


私の襟を掴む腕に力がなくなっていく。


そこで、私は知ってしまう。


散々人間離れした身体能力を持つこの子も、ただの一人の女の子なのだ。


私を潰す彼女の体は、あまりにもにも軽い。

恐怖に震える手は、あまりにも儚い。


ユリは奥歯を強く噛み締め叫ぶ。


『アンタだって同じでしょ? 同情してやるとでも言いたいだけ。散々カッコつけて……同情すんなら…………。』


まるでこの世の全てを忌み嫌うように。

無関心な人情というものに吐き捨てるように。


『同情……すんならぁ……!』


そんな彼女の声は。


『変わってよぉ……私の、クソみたいな人生と……!』


驟雨と共に消えてしまいそうに泣き濡れていた。


私から退き、項垂れるユリ。

初めて、泣いているところを見た。


ユリの行動原理は偏に矛盾に溢れている。

それでも一言で言い表すなら、“悪意”だ。

大切だった人たちからの、顔も知らぬ人たちからの、他を排する悪意だ。



──……どんなに酷くても。……独りぼっちじゃあなかっただろ。


『……アンタにはわかんないよ。ゴウシュウにだって。』



その“悪意”の始まりを知るとしたら。



『アンタたちは、死なないから。どこに居たって、誰と居たって、私は独り。』



ユリはポケットから何かを取り出し、おもむろに私に投げつける。

力なく投げつけられたそれに痛みは伴わなかった。



──……まだ、待ってるんだ。


『…………そんなわけないじゃん。ただの、呪いだよ。』



小銭だった。

散らばり私の胸の上に残ったのは、数百円。


これこそが、彼女の深層に眠る、“悪意あいじょう”だった。


いつかの誰かが取り残した愛情それは、彼女の言う通り、あるいは呪いだ。

迷いはない。


見つけた。ここに、いたんだ。


体を起こす。ユリの前に片膝をつく。


──……お腹、空いてない? なにか買っていこうか。


小銭のろいを掌で転がす。

こんなものに価値を見出すのは、薄汚れた大人たちだけで充分だ。



──寂しかったね。一緒に、帰ろう。



過去に藻掻いて、

命を潰して、

涙を枯らして。


善意とか。

        悪意とか。

幸福とか。

        不幸とか。


御託ばかり並べすぎた。


ここにいるのは、そんなどうでもいいものじゃない。


待ち焦がれる“遠き日の少女”だ。



──……思えば遠くへ来たもんだ。


『っ……!!』



頑是ない少女は、其れで尚、うたを欲す。


だから、手を伸ばす。




──待たせて……ごめん。迎えにきたよ。




それが、キミの求める“答え”のはずだから。




『うっ……くぅっ……! 遅いよぉ、バカァア!!』




ずっと、ずっとずっと。

待っていたのだ。



迷子の泣き声を、空は隠すことをやめ、光を差す。



いつかの誰かに向けられた悲鳴が、私に答えを導き出す。




この世界は悲しいほどに救いがない。



誰もが幸せになれるわけではない。



彼女のように、悪意にまみれてしまうかもしれない。





私は、そんな子に、手を差し伸べる事ができる人になりたい。



それくらいなら、できる気がした。





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