第2話

 野菊音矢のぎくおとやが我が家に来たのは、ゴドーがまだ弟子入りしていない、妻子の逃げたとある夏。

 一目見て、勘違いした。

 凝視して、勘違いに気付いた。

 若き美丈夫、ありえもしない来訪。

 奴は問うまでもなく名乗った。

「お初にお目にかかります、野菊音矢と申します」

 涼やかな声は、いつまでも聴いていたいと思うほどに好ましい。

「お約束もなく失礼しました。連絡をするべきとは思いましたが、いてもたってもいられず、つい」

「……ああ、つい。つい、か」

 俺に会いたくて、つい。

「……ついなら、仕方ない」

「ありがとうございます!」

 とびっきりの笑みを向けられて、ああ違うと自分の内なる声が聞こえた。

 あの人が俺にこんな優しげな笑みを見せてくれたことはない。ただ一度向けてくれたのは、嘲りの込められたものだ。

 あんなものを何故ありがたがると、麗しいあの声で言ったんだ。

「本日は、織口おりぐち先生にとある許可を頂きたく、お伺いいたしました」

「先生はやめてくれ」

 そう呼ばれるべきはあの人だ。

「では、織口さん」

「……」

 あの人は俺を織口と──いや、よそう。

 庭から現れたのはあの人ではない。野菊音矢、初対面の美丈夫だ。

 俺がするべきはあの人と奴を比べることではなく、縁側に座らせ話を聞くことだろう。

「仕方ない、それでいいか。立ち話もなんだ、隣に座ってはどうか。家内が出ていき、まともなもてなしもできないが、それでも良ければ」

「水筒のお茶があるので、お気になさらず。……その、大変な時に来てしまって」

「お気になさらず、だ」

 野菊音矢は乾いた笑い声を上げ、俺の隣へと近付き腰掛ける。肩から提げていた水筒も、ついでに縁側の上に置いた。俺と奴の間に置かれた壁のようで、しかし何も意味はない。

 手を伸ばせば簡単に触れられる。そうする気は毛頭ないが。

「俺はしがない悲劇作家、見知らぬ若人に何かの許可を求められるような、大層な人間になった覚えはないが?」

「……ご謙遜を。お弟子さんもいるような立派な方ではありませんか」

「世間では使いっぱしりを弟子と呼ぶのか?」

「無意味にこき使っているのですか?」

「たまに作品を読ませてくるから、直すべき箇所を教えたりはするさ」

「それを弟子と言うのですよ、織口さん」

 ふふふと奴が軽やかに笑うものだから、じっと見つめてしまった。

 似ていない、ちっとも似ていない。

 別人だ。

「で、用件は?」

「……実は織口さん。僕は役者をしているのです」

 涼やかな声と、端正な容姿。

 確かに、これほど役者にふさわしき美丈夫はいない。

「学業の傍ら?」

「いえ、仕事の傍らですね。まだこれ一本で食べてはいけませんから。その日暮らせるだけの銭を稼げればそれでいい、だったのに、その内稽古よりも仕事をしている時間の方が……なんて、脱線してしまいました」

 笑みを引っ込め、奴は俺を凝視する。


「僕が欲しいのは上演許可。織口さんの作品で、是非とも芝居をしたいのです」

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