恋愛恐怖症

人影

恋愛恐怖症

 他人から向けられる恋心に恐怖を感じるようになったのは中学生のころからだ。


 昔から私は恋愛感情に嫌悪感を抱いていた。それは恐怖とはまた違う、腐敗しきった泥が指先に絡まるような気持ちの悪さだった。


 きっかけは、中学二年生の冬にある男子から告白されたことだ。


 その頃の私は愚痴ばかりを話題に出すつまらない人間だった。自分に自信を持っておらず、周りがするようなキラキラした話題が嫌いだった。楽しいとかうれしいとか、夢だとか希望だとか。私には眩しすぎたのだ。そう言う話題を聞くと、胸に息ができなくなるような圧迫感を抱く。それは劣等感と言う感情によく似ていた。自分がつまらない人間だと思いたくないから、周りの価値観を幼稚だと言い張り、下に見る。


 しかしそれはただの嫉妬であり、どちらかと言うと私の方が幼稚なのだ。そのことに目をそらし続け、唾を吐き続ける私は周りからもさぞ嫌われていた。


 嫌味ったらしい私の話題を聞くのはさぞかし億劫だったことだろう。


 なのに。


 私は、中学二年生の冬に告白されてしまった。




「男子って、きもいよね」


 私はそんな話題を友達に振ったことがある。友達、とはいってもプライベートで遊ぶような友達ではなく、ただ暇を潰し合うだけの友達だったけれど。


「それなー」


 と、友達は笑って言う。その顔に苦笑いが滲んでいたことくらい、その頃の私にだってわかっていた。


 けれど、形だけの共感を得た私はさらなる共感を求めて口を走らせた。


「女子に近づいて、女子にだけ優しくしてる男子がいっちばんきもい。どうせ、身体目当てなんでしょうね。性欲にしか視界に入らないから、女子のことを身体で見てるんだわきっと。ほら、あの××君いるじゃん? 最近、なんかやたらと私に絡んでくるわけ。私が黒板消してるときとかに、俺が消すよとか言って。休み時間とかも、しつこいくらい話しかけてくるし。きっと女子がいないところではセックスしたいとか、卑猥なこと考えてるんだわ。ほんと、きもいよね」


「あはは。ほんとにね」


「しかもその××君が————」


 それから私はひたすらにその××君の嫌味をその友達に吐き続けた。


 でも、気持ち悪いと思っていたのは本当だ。


 性欲と恋をイコールで結んでいた私は、少なくともそれが綺麗なものだとは思っていなかった。




「好きです。付き合ってください」


 そう私に告白してきたのは××だった。


 ある冬の放課後の、誰もいなくなった教室でのことだった。


 今でも鮮明にあの頃の情景を思い出すことができる。教室の体温がまだ少し残っていて、外からは野球部の掛け声と、カキーンとバットの当たる音がぼんやりと聞こえていた。


 そんな静けさの中で聴いたその言葉は、私の鼓膜を突き刺すようだった。


 その言葉に、私が真っ先に感じたのは気持ちの悪さだった。その後にどうして? という疑問が血液に駆け巡った。


 私はいつものように、嫌味を言おうと口を開こうとした。


 けれど、私は××の顔を見て硬直した。


 その時に感じたのが、恐怖だ。


 その時の××の顔は、私が今まで見たことのない種類の顔だった。


 瞳は私を射抜くように、私を映している。少しうるんでいて、窓から差し込む飴色の光が染み込んでいる。頬は薄紅色に染まり、口は今にも泣きそうな、何かを堪えるように力が込められている。肩に力が入っていて、それで緊張しているんだなとわかる。


 ——怖い。


 その顔を見たとき、私はそう思った。


 私が、今まで下に見てきたものが初めて綺麗に見えてしまった。


 私の今まで履いてきた言葉が走馬灯のように蘇り、目の前の男に降りかかる。でも、それはむなしく砕けて、××の表情が変わることはない。


「……どうして、私なの? 罰ゲームならやめて欲し」


「罰ゲームじゃない! オレは本気なんだ!」


 私の言葉を遮って、××は叫んだ。


 その目には覚悟が宿っていて、その奥にかすかな緊張が滲んでいる。


「だって私、自分でもつまらない人間だって思ってるもの。人の悪口ばっかり言って、人を見下してきたのよ。もちろん、貴方のことだって。……逆に、どうして私のことなんか好きになったのか訊きたいくらいだわ」


「お前の、大人びた雰囲気が好きだ。普段は尖った言葉を吐いてるけど、時々寂しそうな顔をするのお前が好きだ。……どうしようもなく、好きなんだ……。お前と話してるだけで、胸が締め付けられるんだよ」


 外見じゃなかった。性欲なんかじゃなかった。


 積み重なり、高くなった足元が崩れていく感覚がした。




 綺麗だと思ってしまった。


 こんなに真剣に、まっすぐ私に思いを伝えて。それは性欲じゃなくて。もっと別の感情で。きっと、恋で。初めて感じる恋はなんだか自分には眩しすぎて。


 でも、私は××のことが好きではなかった。


 だから、断らなければならなかった。


「ごめんなさい」


 そう言葉を吐き出すと、同時に恐怖が私の身体を拘束した。


 私は、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。


 その時の情景を、私は忘れることができずにいる。


 彼の頬に、一筋の線が通っていた。


 紅潮した頬から、色が一気に抜け落ちていく。


 緊張していて、力んだ肩が震えだす。


 震えた唇が開いた。


「そっか、そうだよな。困らせて、ごめん」


 その時、私は初めて向けられた好意を踏みにじった。


 綺麗なものを、私は自分の手で壊してしまったのだ。


 その時に、私は恐怖を感じた。


 自分が自分じゃなくなるみたいで、恐ろしかった。




 それから、私は恋に恐怖を抱くようになった。


 アニメとか、ドラマとかでみる、あの恋心も怖くなった。なんだか、見るだけであのトラウマが走馬灯のように蘇り、私の心を啄んでいくのだ。


 自分が否定され、欠けていき、自分がなくなるような恐怖を覚える。


 男子に視線を向けられるだけでも、少しだけ怖かった。


 ××に告白されてから、私は孤独を選ぶようになった。愚痴を言う自分にうんざりした。自分が醜く見えた。過去を振り返る度、いかに自分が空っぽな人間か見えて、涙腺が傷んだ。




 高校生になっても、自分の居場所がわからなかった。


 クラスメイトと言葉を交わすたび、劣等感に苛まれた。


 もう、なにもかもうんざり。


 男子は気持ち悪い。


 そして、ちらっと眼が合うと恐怖を感じる。


 走馬灯のようにあの情景が蘇り、顔の皺が増える。


 いちいち過剰に反応する自分も嫌い。


 全部全部、もう嫌。





 もう、なにもかも。限界でしんどい。





 暗い何かに私は沈んでいた。辛いという感情に埋もれていると、変なくらい安心した。


「はい。金平糖」


 ある日の昼休み。クラスメイトの△△がそう言った。


 彼は右手の掌をこちらに差し出していた。その上に、小さな粒が三つ載っていた。


 私は恐怖を抱いた。


「あ、ありがとう……、でも、大丈夫」


 私は両手を自分の前で振った。


「僕は君に食べて欲しい」


「……どうして?」


「君がこれを食べているところを見てみたいから」


 私は瞬きのような逡巡の後、その金平糖を受け取った。


 すると、△△は嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


「まあ、どうも……」


 彼は私がそう言うと、そそくさとその場を去ってしまった。


 束の間の安堵が訪れ、私は手の内の金平糖に視線を下ろす。


 黄色と青と赤色。信号機みたいな色の金平糖。


 私はその金平糖をそっと鞄の中にしまい、机の上で小説を開いた。




 それからというもの、その次の日も、またその次の日も△△は私に金平糖を三つ渡し続けた。


 最初は不気味がっていた私だけれど、金平糖を渡すときの会話が徐々に長くなっていき、すっかり話し込むようになってしまった。


 私は△△に信頼を寄せていた。


 △△は、少し人とは変わっているところがあった。


 どうして私に話しかけてくれたのかと問うと、「君が休み時間に小説を読んでいたから。それと後、いつも一人でいるから、友達になれるかと思って」と答えた。


 いちいち言い回しとか、話し方が作り物じみていているけれど、それも一週間もすると慣れてしまった。


 彼は基本的には善人だった。


 頼みごとを断ると罪悪感を抱き、言葉遣いを間違えるとキチンとその場で謝った。それはもうしつこいくらいのおせっかいで、それもまた彼を特殊たらしめるアイデンティティだった。


 きっと、彼のことを誠実と呼ぶのだろうと思った。


 私は、△△の人間としての魅力にひかれていった。


 私たちの関係は高校を卒業するまで変わることはなかった。


 所詮、彼にとって私は友達だったし、私にとっても彼は友達だった。


 それ以上でも、それ以下でもない存在。


 互いにとって都合のいい存在。


 そんな距離感が私には心地よかった。




 中学の担任の先生ががんで亡くなっていた。


 そのことを知った時の私は大学生だった。


 同窓会をやるときに連絡できるようにと、残っていたクラスLINEをやっと開いた時に知った。


 そうだったのか、と思った。


 みんなお墓参りに行っていたらしいので、私も行くことにした。




 お墓は、中学校の近くにある墓地に立っていた。


 私は先生のお墓の前で手を合わせて、ご冥福をお祈りした。


 自分の偽善を形で埋めて、そこを後にしようとした。


 すると、気づいたことがあった。


 お墓の前に、金平糖がお供えされているのだ。


 探してみると、案外たくさんあった。


 どういうことだろうか。


 私はその場で、携帯で金平糖の意味を調べた。


 金平糖と聞いて、始めに思い出したのは△△だった。


 思えば、私は彼に救われたのだと思う。


 一人じゃない私を、二人にしてくれた。


 それは私の中では大きなことで、抱え込んでいた劣等感も彼と関わること掠れていったのだ。


 スマホにはこう書かれていた。






 金平糖には、永遠の愛という意味がある。






 そうか。彼は私のことが好きだったのだ。恋愛的に。


 恐怖は感じなかった。


 なぜか?


 △△と関わっていくうちに、私は恋愛恐怖症を克服していたのだ。


 恋愛恐怖症なのに、彼の恋心によってそれは治ったのだ。


 私は笑った。


 自分が惨めで、ちっぽけで今まで感じていた苦痛も全部くだらないものだと唾を吐かれた気がした。

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