彼女を殺しそびれた

 君はモン・サン・ミッシェルを見たことはあるか。そのタイトルが印刷された本を持つ、おそらく30歳ほどの女性が目の前に座った。彼女は短髪で眼鏡をかけ、既製品にはない独特のスーツを身にまとっていた。まさにその通り、彼女は目の前に座った。僕は飯田橋から三鷹へと向かう中央線の電車内で、職場から帰宅途中だった。座席は電車の中央に向けて配置されており、僕はその座席に座っていたのだった。


 しかし、彼女は電車の座席に座る代わりに、つまり電車のフロアの部分に、本当に僕の目の前に座り込んでしまった。終電に近い時間帯だったので、他の座席はまばらに空いていた。それにもかかわらず、彼女はあえてそこに行かず、僕の前でボケっとした表情で体育座りをしていた。何か見てはいけないものがあるような気がして、目をそらしたかった。しかし、彼女は目の前にいたので、見たくなくても見えてしまった。僕は腹立たしくなり、ついに彼女に声をかけてしまった。 


「どうしたんですか?」


 彼女は僕の顔を見上げて、

「こうして声をかけられるのを待っていたんです」

と言った。


 僕は「しまった」と思った。心の中で、彼女に声をかけるべきではなかったと反省した。これから起こる面倒なことには関わりたくなかった。そう思いながら、僕は席から立ち上がり、その場を離れようとした。しかし、その時、これまで微動だにしなかった彼女が素早く立ち上がり、僕の腕を強く掴んだ。その拍子に、彼女が持っていた「モン・サン・ミッシェル」の本が地面に落ちた。


 「お待ちください。どうしても、あなたが必要なんです。」


彼女はそう言い、僕が手を振り払おうとするのを、足まで使って僕を拘束するという意志を見せた。


「一体何なんですか?」


僕が半分怒りながら尋ねると、彼女は意味不明な言葉を並べて説明し始めた。異世界だの転生だの、自殺はダメだとか、コーヒーミルク理論がどうのこうのと、僕には全く理解できないことを早口言葉のように浴びせてきた。


 意味は理解できなかったが、彼女のクリアな瞳は、僕が彼女を助けたいという気持ちを引き立てた。


「次の駅で降りて、私をホームから突き落としてください」


 彼女はそう言った。それは確かに予想外だった。倫理的にはそんなことできっこないと理解していたが、彼女の真剣さは僕にも伝わった。そして、それは少し可愛らしかった。だから、僕は彼女にある提案をした。


「僕の家、来なよ」


「でも、今日転生しないと、魔王様が復活してしまうの。その期日が今日なの。だからお願い。言う通りにして!」


「わかった、本気なのはわかったから。一緒に飲んでくれたらその後、突き落としてあげるよ。」


 僕の提案に彼女は、渋々了承した。けれど僕が彼女との時間に浮かれていたせいで、その夜は彼女を殺しそびれた。そして東京は壊滅した。異世界で魔王が誕生し、それがはるばる東京までやってきて、焼き尽くしてしまったのだ。

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