だから言ったのに。~逃げ水~

熊と塩

だから言ったのに。~逃げ水~

男2・不問1

◇登場人物◇

【鷺山】男性。さぎやま。週刊誌に小説を連載している。やたらと怪異に縁がある。たぶん喋るのが一番面倒な人。

【サバ】不問。しゃべる猫。サバ柄だからサバ。子猫の頃鷺山に拾われた。たぶん喋り方に癖が必要な子。

【編集】男性。五十畑(いかはた)。鷺山の担当編集者。小太りで汗っかき。たぶん演じるのが大変な人(終盤)。


※商用・非商用問わず自由にお使いください。

2023/08/08 改稿


サバ:8月4日、金曜日……関東一帯は、えーっと、記録的なコ、酷暑?が続く予報となっており、熱中症対策を充分にとる必要があります。

鷺山:へえ。だいぶ読めるようになったじゃないか。

サバ:まあね。

鷺山:ではその調子で続けてくれたまえ。どうせ喋るしか能が無いんだから、新聞の読み聞かせくらいできるようになってくれなくちゃ。

サバ:先生、一言余計だよ。わたしゃ別に先生のために文字を覚えてるんじゃない。教養だよ。教養!

鷺山:猫に教養など必要あるかよ。お前は僕に飼われてる身だろう?だったらご主人様のお役に立とうって気持ちがあってもいいと思うんだが。

サバ:それじゃまるで奴隷だ。猫を奴隷みたいに扱う人間なんて聞いた事がない。

鷺山:そりゃ、猫が人の役に立たない動物だからだよ。愛でるくらいしか用がない。しかしお前みたいに喋る猫というのは気味が悪いから愛でることもできん。するとやっぱり役に立たないという事実だけが残ってしまう。……そう考えてみると、なんて悲しい生き物なんだお前は。ソファで爪を研ぐだけの哀れな生物だ。

サバ:はーぁ。先生って生き物こそ可哀想だ。自分と違うものの視点に立とうって発想がまるでない。そんなだからつがいが居ない。友達すら居ない。

鷺山:やかましい。

サバ:わたしゃね先生、先生がそんなだから、教養を磨いて独り立ちしようと考えてるのさ。

鷺山:なんだ?聞いてないぞ。

サバ:そりゃ初めて言ったからね。わたしだって3歳、青春の盛りだよ?ひとの毛並みを見て「サバ」なんて名付けるさ、例えるなら人の子供を見て「肌色」なんて名前を付けるようなさ、思慮の浅い人間から離れて……

鷺山:猫の名付けなんて往々にしてそんな感じだと思うがね。

サバ:それそれ!さっきからそうだけど、そういう下に見る扱いが気に食わない。だからわたしゃこんな所とオサラバして、わたしの青春を謳歌したいのさ。

鷺山:なるほどねぇ。お前にもそんな考えがあるなんて、いやまったく恐れ入ったよ。いや、ナメていて申し訳無く思う。お前はお前の生きる道を探しておくれ。……ところでお前、試しに「ニャー」と鳴いてみろ。

サバ:は?ニャー。

鷺山:フハハハ!そんな調子で鳴く猫などあるか!お前はやっぱり化け猫だ。化け猫が世間一般の猫と馴染めるものかよ。お前だってそこのところを承知しているから教養などという猫の社会に要らぬものを得ようとしているのではないか?そうして僕よりよほど物好きで、裕福な人間に取り入ろうと思っているに違いない。

サバ:……

鷺山:どうだ?図星だろう。

サバ:……先生、わたしゃ悲しいよ。先生とこんな諍いをするのも、もうじきできなくなっちまうなんて。

鷺山:ム……

サバ:先生は寂しくならないの?わたしが離れたら、話し相手すら居なくなっちまうんじゃないかね。

鷺山:そんな事は……ない。いや……

サバ:先生。

鷺山:……寂しくは、ある。多少は。多少はな?

サバ:そうかい……

鷺山:う、うん……

サバ:じゃ、終生世話になるかね。

鷺山:おい!今までの会話はなんだったんだ!

サバ:先生がふっかけた喧嘩でしょう。ひとを能無しだの役立たずだのと呼ぶ飼い主様は遠慮したいってのは本当だけどね、わたしゃ他じゃ食っていけないのも重々分かってるんだ。だからね、せめて暇潰しにと、こう話をしてる訳さ。どう?わたしと話すのは楽しいでしょ?それだけで価値のある友達だと思わない?

鷺山:ああ、そうかい。ああ、分かったよ。役立たずなんて言って悪かったな。お前はいい友達だよ。

サバ:ええ、そうでしょうとも。

鷺山:やれやれ……

サバ:それにしても、今日は随分と遅いねぇ。

鷺山:そうだな。教養と言えば、時計の見方も覚えるといい。もう5時になるところだ。

サバ:5時って言うと、そろそろ夕飯時だね。どおりで腹が空いてきた訳だ。

鷺山:あの編集、飯を食うのが遅いせいで遅れてくる事はあるが、こんなに遅いのはかえって珍しい。こちらから電話をしてみようか……と思ったが、噂をすれば影というところかな。

サバ:お。これは車の音……エンジン音ってやつだね。ところで先生、エンジンってなんだい?

鷺山:原動機の事だが、詳しく教えてやる知識も時間もない。こんど詳しい本を見付けてやろう。

サバ:やった。

編集:こんちわー。鷺山先生、いらっしゃいますかぁ?

鷺山:玄関が開いてるんだから居るに決まっているだろう。居間に上がりたまえ!

編集:あぁ、そっすね。お邪魔しまっす。

鷺山:まったく。いつまでマヌケで居るつもりだ。

サバ:先生、マヌケは風邪みたいには治らないよ。

編集:やぁ先生、どうもどうも。いやー、今日も暑いっすねぇ。ここはエアコンが効いてていいやぁ。

鷺山:車にだってエアコンは付いているだろう。いや、そうか。壊れているのだったか。いい加減、社に掛け合って直してもらったらどうだ?それくらいは稼がせてやってるつもりだが。

編集:いやぁ、そんなには儲かってないっすねぇ。

鷺山:冗談を正論で返されると腹が立つものだ。覚えておけ。

編集:あ、恐れ入りますぅ。しかし、先生。先生がスキャナなりFAXなりを使ってくだされば、おれがこんな暑い思いをしなくていいわけで。

鷺山:いやだよ。大事な原稿を機械なんぞに託すのは。だったら編集君に手渡す方がなんぼうかマシだ。

編集:五十畑(いかはた)っす。そろそろ覚えてください。まぁ、なんぼかでも信頼されてるなら光栄っす。

鷺山:じゃあ、原稿を見たらとっとと帰ってくれ……と言いたいところだが、そんなに汗だくだとなんだか不憫だ。アイスコーヒーを一杯馳走してやるから、そこに掛けて待っていなさい。

編集:あ、あざまっす。

サバ:ねえねえ、イカさんイカさん。

編集:お。サバちゃん今日も元気に喋ってるねぇ。ははは。

サバ:喋るくらいしか能が無いからね。それで、今日はどうしてこんなに遅れたの?

編集:あぁ、うん。それがねぇ……うーん。なんだか変なんだ。

サバ:変?

編集:伺うついでに蕎麦を食ってね、それでずぅっと車を走らせてたんだ。で、いつも通りの道を通ってたんだけど……その道が妙に長かった。

サバ:長かった?いつも通りの道が?

編集:そう。サバちゃんは知らないだろうけど、片手が林で反対がだだっ広い空き地になってる、真ぁっ直ぐ進む道があるんだけど、そこがねぇ、今日は長かった。

サバ:あのねえイカさん。道の長さってのは変わらないんだよ?

編集:そりゃそうだよねぇ。

サバ:マヌケだ……じゃあさ、イカさん。いつもこの家に来るまでどれくらいの時間がかかるの?

編集:30分くらい。

サバ:じゃあ今日は?

編集:蕎麦屋を出たのが1時過ぎだから……えっ!4時間!?

サバ:って事は……いつもの8倍時間がかかったって事?

編集:そんなっ、あり得ないよ!4時間も走ったら余裕で県外だよ?おれもそんなに走ってた感覚無いし……え?熱中症で気絶でもしてたかな?いや、それじゃ説明付かないよな……

サバ:まあ落ち着いて。

編集:や、だって……!

サバ:イカさん。怪奇現象なんてね、誰にでも起こりえるものなんだよ。

編集:う……先生の飼い猫さんに言われると……

サバ:でしょう?じゃあイカさん。他に記憶に残ってる事を教えてよ。そうだなあ……特に、そのいつもより長かった道で見たものについて。

編集:え。うーん、そうだなぁ……いつもより長いくらいで、見慣れた道だったとしか……あ。

サバ:お。なんだいイカさん?

編集:あれは、蜃気楼って言うのかなぁ?

サバ:「しんきろう」?

編集:道の遠く先がぐにゃって歪んで見えたり、ゆらゆら揺れてるように見える事だよ。あれは蜃気楼の仲間なんじゃないかなぁ。遠くの道がね、水溜まりみたいに見えるんだ。こんなカンカン照りなのにね。空を写して綺麗だったなぁ、って印象に残ってる。

鷺山:それは「逃げ水」だな。

編集:あっ、先生!どこから聞いてました?

鷺山:たった今だよ。編集君のご明察通り、逃げ水は蜃気楼の一種だ。なるほど、遅れて来た理由について話していたんだな?

編集:そうっす。あ、もしかして先生。先生はもう、おれの失われた4時間について答えが出てるんすね?

鷺山:失われた4時間というのは言い得て妙だ。失ったと言うより、すっ飛ばしたと言う方が正しいんだろうが。

編集:はぁ。

鷺山:逃げ水のような蜃気楼はただの自然現象だ。熱せられた大気が歪んで光が屈折するせいで、そう見えるというだけだ。ほとんど全ての場合な。

編集:じゃあ、そうじゃない場合があると?

鷺山:あるんじゃないか、というところだな。こういう表現は陳腐で好かんが、例えば、時空の歪みであるとか。ま、何でもいい。僕は知らん。

編集:先生ぇ……

鷺山:情けない声を出すな。よかったじゃないか、たった4時間で済んで。体験談でも書くといい。もっとも、つまらなすぎてどこも取り上げてくれないだろうが。

編集:はぁ。

鷺山:こうは言っているがね、僕は心底ほっとしているのだよ。本当にこの程度で済んでよかったな、編集君。

編集:おれの名前は五十畑っす……

サバ:もっと酷かったら、もっと時間が飛んじゃうって事?

鷺山:さてね。何が起こるかは僕にも分からんよ。

サバ:分からんって……

鷺山:知らない、分からない、理解できない。常識の外から突然やって来て、理不尽に僕たちを弄ぶ。それが怪異というものだ。僕たちはきっとこうだと推測し憶測するが、実際のところは何一つ分かりはしない。常識の埒外(らちがい)に居るお前自身が承知している事じゃないかね。怪異そのものでさえ、何ゆえかを知らない。

サバ:……たしかにそうだ。わたしは、わたしがどうして「わたし」なのかを知らない。

鷺山:まあ時間がすっ飛ぶくらいならまだいい方じゃないか?もっと恐ろしいのは……ああ、いや。やめておこう。編集君が怯えている。

編集:は、はぇぇえ……

鷺山:きみは随分いい鳴き声を上げるな。うちの猫にも見習って欲しいものだ。

サバ:猫はこんな鳴き方しない。

鷺山:ま。今日はもうしばらく涼んで帰るといい。流石にそろそろ日差しも弱まっているだろう。

編集:は、はぁ。助かります……先生、もし次にその逃げ水を見たら、どうしたらいいっすか?

鷺山:どうしたらいいか、か……難しいな。分からん、と匙を投げたいところだが……そうだな。せいぜい、追い抜かないことじゃないか?

編集:追い抜く?蜃気楼をっすか?

鷺山:それが蜃気楼なら追い抜くことは不可能だ。だがもし蜃気楼ではなければどうか、とね。そこが見分けるポイントになるかも知れん。まあ、思い付きだが。

編集:な、なるほど?まぁ、対処法が分かっただけいいっす。

サバ:よかったね、イカさん。

編集:五十畑っす……


サバ:(N)1週間後、8月11日。午後1時半。

サバ:イカさん、今週はちゃんと来られるかな?

鷺山:今日もこの日差しか……サバ、天気予報は読んだか?

サバ:相変わらずの酷暑が続くでしょう、だって。来週までびっしり太陽の絵だったよ。

鷺山:そうか。心配だな……

サバ:え?意外。

鷺山:お前は僕をなんだと思ってるんだ?

サバ:畜生。

鷺山:畜生はお前だろう。

サバ:本当に心配なら、原稿、届けてあげればよかったのに。

鷺山:そこまでしてやる義理はない。

サバ:やっぱり畜生じゃないか……

鷺山:おや。

サバ:あ、この音、エンジン音!……だけどいつもの音と違うなあ。イカさんかな?

鷺山:そのようだが。

サバ:よかったあ。

編集:こんちわー。鷺山先生、いらっしゃいますかぁ?

サバ:いらっしゃいますよ。

編集:あ、サバちゃんだ。お久しぶり。

サバ:「お久しぶり」じゃないよ。心配したんだから。

編集:あぁ、その節はどうも。でもまだ引き摺ってるんだねぇ。

サバ:引き摺るって、そりゃあ……

鷺山:やあ、よく来たね。おや?今日は随分、なんと言うか、さっぱりしているな。

編集:あ、今日は代車なんすよ。車のエアコン直してもらうことになったんで。言ってませんでしたっけ?

鷺山:きみとはそんな密に連絡を取り合う間柄ではない。ま、よかったな。それじゃあ上がってくれ。

編集:お邪魔しまっす。

鷺山:原稿はそこだ。冷房ばかりじゃ体も冷えるだろうから、今日はホットにしよう。ちょっと待っていなさい。

編集:ああ、今日は助かりますね。じゃ、拝見してまぁす。

サバ:ねえ、イカさんイカさん。

編集:なんだいサバちゃん。

サバ:逃げ水。追い越してみた?

編集:あははは。そんな恐いことできないよぉ。

サバ:なんだ。つまんない。

編集:サバちゃんはおれの事なんだと思ってるの?

サバ:実験動物。

編集:ひどい。……あ。なんだこれ。参ったなぁ。

サバ:どうしたの?

編集:修正箇所が多すぎるって言ったけど、リライトしてくれとは言ってないんだよなぁ。しかもこれ……ああ、やっぱり。指摘したとこ全然直ってないや。これじゃ先週のとまんま同じだよ。

サバ:ええ?うちの先生はそんな適当な仕事しないよ。

編集:そうだよねぇ。そうなんだけどさぁ。でも……いや、参ったなぁ。まさか先週の原稿のコピーって訳じゃないよね?ああ、先生はコピー機なんて持ってないか。しかしなぁ、先週見たのとそっくり同じに見えるんだよなぁ。

サバ:……イカさん、もしかして、さ……あ、エンジン音!この音……えっ!?

編集:どうしたの?

サバ:イカさん、隠れて!

編集:え?どうして?

サバ:いいから、早く!!

編集:え?え?

編集:【玄関から】こんちわー。鷺山先生、いらっしゃいますかぁ?

編集:え!?あれ、おれの声?玄関から?

編集:【玄関から】鷺山先生、ご在宅ですかぁ?上がりますよぉ。

サバ:イカさん!ソファの裏に早く!!

鷺山:おや編集君。何を騒いでいる?

編集:あれ、鷺山先生。いらっしゃるじゃないですかぁ。あぁ、お飲み物を入れてたんですね。ちょうどいいや。……あ、ホットか。ちぇ。

鷺山:そう言ったじゃないか。しかし君、どうした?そんなに汗だくになって。

編集:そりゃこの天気ですからねぇ。あ、でももう平気っす。エアコン直してもらえる事になったんで。

鷺山:【事態を察して】……ああ、そうか。それは、よかった。

編集:ところで駐車場の車、なんすか?おれ路駐になっちゃいましたよ。

鷺山:……近所の家に親戚が遊びに来てるらしくてね。駐めるところがないから貸してくれと言うんでな。まあ、ご近所付き合いは大切だからな。

サバ:イカさん、声を立てちゃだめだよ!

編集:なんでおれが、なんでおれがもう一人居るんだよぉ!

サバ:イカさん!

鷺山:【声を張り上げる】じゃあ!原稿を見てもらおうか!

編集:わっ、びっくりした。なんですか、急に大声出して。

鷺山:いいや、なんでも。

サバ:イカさん、絶対に気付かれちゃダメだよ!

編集:おれが居る……おれが居るおれが居るおれが居る……!

サバ:イカさん!

編集:じゃあ原稿拝見しまぁす。……はぇぇ、こりゃひどい。ほとんど殴り書きじゃないっすか。赤入れすぎてひっちゃかめっちゃかだし……はぁ、こりゃ大変だ。

鷺山:ま、校正はそちらの仕事だ。よろしく頼むよ、編集君。

編集:はぁ。頑張らせて頂きます。

鷺山:それじゃ、今日はこのへんで。

編集:えっ。でもコーヒー……

鷺山:ホットはいらないと顔に出ていたが?これから来客があるのを思い出したんだよ。さ、とっとと帰ってくれ。見送りはいらないな?

編集:はぁ……そんじゃ、失礼しまーす。

鷺山:ああ、そうだ。編集君。逃げ水には気を付けたまえよ。

編集:はぁい。

編集:【ソファの裏で息を切らせる】はぁ……はぁ……はぁ……!

サバ:イカさん!もう大丈夫、もう行ったよ!

鷺山:五十畑君。

編集:……!!

鷺山:……だから言ったのに。

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