1-2 秘密の水曜日
学校に到着したカンナは、音を立てないよう慎重に教室のドアを開け、軽く会釈してから自席へ向かった。
チラリと教室内の掛け時計を見ると、午前十時六分で、ホームルームはすでに終わり、一限目の英語の授業中だった。公園で思った以上にゆっくり過ごしてしまったなとカンナは反省した。
英語の教師はクラス担任の根本が担当している。細く鋭い目が特徴で、黒い長髪を一つにまとめた、さっぱりとした印象の女性だ。
根本は英文を音読しながら、ジロリとカンナを見つめている。カンナは自席に腰を下ろし、バックパックからタブレットを取り出して机上に置くと、何事もなかったかのようにそのまま電子黒板を見つめた。
根本がいくら見つめようとも、カンナは目線を合わせず、電子黒板を見つめたままだった。根本は呆れてため息をつき、電子黒板へ振り返ってそのまま授業を続行した。
英語の時間が終わり、根本がカンナの席までやってきて声をかけた。
「小鳥遊さん、二限目の体育は受けなくていいから、保健室に行きなさい。柴先生が少し話をしたいそうよ」
カンナは驚いた様子で根本を見つめた。てっきり遅刻したことを怒られるのだろうと想定していたからだ。
「分かりました。今から保健室に行ってきます」
「そうしてください」
根本は教卓まで戻り卓上の教材をまとめて持って、颯爽と教室から去っていった。
「カンナ、今日も寝坊かー?」
後ろの席から、松山ちなつがカンナに声をかけた。
ミルクティーベージュのウエーブがかったロングヘアが特徴のクラスメイトで、いつも気だるい表情を浮かべているギャルである。
「あぁ、寝坊した。昨日、寝るのが遅かったんだ」
「ふーん。それにしては機嫌が良いように見えるけど、何かいいことでもあったの?」
カンナはニヤリと笑い、右手の薬指にはめたオレンジ色の指輪をちなつに見せつけた。
「なんだその綺麗なリング!」
「友達に貰ったんだ」
「え? どういうこと? 告白でもされたの?」
「違うよ、プレゼントされたんだ」
「プレゼントに指輪って、大丈夫?」
「あーそんな意味じゃないよ、深い意味なんてないんだ……」
だってもらった相手はカラスだし、とカンナは言いそうになったがグッと堪えた。
「まぁいいや、とにかく良かったじゃん」
「うん、じゃあちょっと保健室に行ってくるよ」
「行ってら〜」
ちなつはブラブラと力なくカンナに手を振り、カンナはそれに応えるように軽く手を上げて教室を出た。
◇◆◇
カンナは、保健室のドアを三回ノックした。
「失礼します」
ドアを静かに開け、丁寧に一礼してから保健室に入った。
保健室には、保健医の
「小鳥遊さん、ここに座って」
リリコは丸椅子を自分の側に近づけて、カンナに座るように促した。カンナは俯いて目を逸らしながら、丸椅子に腰を下ろした。
「今日も遅刻したのよね、焦りもしなかったでしょ?」
「なんでそれを?」
「今のは冗談で言ったのよ、呆れた。本当に焦りもせずに余裕を持って遅刻したのね?」
「……はい」
リリコはため息をつき、卓上のマグカップを掴んで一口飲んだ。
「ミルクコーヒーかミルクティー、どっちにする? どっちも冷たくはなるけれど」
「ミルクコーヒーでお願いします」
「ミルクコーヒーね、分かったわ」
マグカップを卓上に置き、窓の外を眺めた。カンナもリリコと同じように窓の外を眺める。保健室の外は校舎の中庭だ。
日は出ているものの、雨がポツポツと降り出し、紫陽花についた雨粒がところどころ日光に反射して煌めいていた。リリコはカンナを横目で観察しつつ、何かを探るような表情を浮かべていた。カンナに笑顔を向け、話し始める。
「……そういえば先生はどう? 元気にしてる?」
リリコはくるりと半回転し、冷蔵庫からミルクコーヒーの紙パックを取り出した。カンナはリリコの言葉を聞いて窓の外を眺めたまま、切ない表情を浮かべてしばらく沈黙していた。
「先生は、その何というか、最近学校に行きたがらないんだ」
リリコは、ガラス棚からコップを取り出し、紙パックのミルクコーヒーをコップに注ぐと、そのままカンナに手渡した。
「なんで行きたくないのかな? 理由は分かる?」
カンナはミルクコーヒーを一口飲み、コップを卓上に置いた。
「先生は最近、夜遅くまで作業をしてるみたいなんだけど、詳細は分からないんだ。多分新作を書いているんだと思う。担当編集の
リリコは首を傾げた。
「売れっ子は大変ね、なかなか決まらない理由はあるのかな?」
「朝起きた時、自分の周りに小説のプロットのメモ書きが沢山落ちてた。バツマークとか没とか『こんな終わり方は嫌だ』とか書かれてて、きっと悩んでるんだと思う」
「それは学校に行ける余裕がないわね」
カンナは肩をすくめた。
「だから仕方ないのかなって、別に俺が来てるから問題ないし」
「小鳥遊さんはそれでいいの?」
真剣な眼差しでカンナをじっと見つめた。
「良くないとは思ってる。ただ、どうすればいいか分からない。今日は水曜日だから、先生は学校に行くと思ってた」
「良くないとは思ってるのね。ところで水曜日って何かあったかしら?」
「あっ」
カンナは咄嗟に口を手で覆った。つい口が滑ったようだ。
「もしかして私にはバレちゃいけないことだったりする?」
「すみません、その、先生との約束ごとで」
「ダメじゃない、口を滑らせちゃ。ちゃんと秘密にしないと」
「詳しく聞かないんですか?」
リリコは、マグカップを手に取り、一口飲んだ。
「そりゃあ、聞きたいわよ。でも聞かれたらまずいことなら私は聞かない」
にっこり微笑んでマグカップを卓上に置いた。
「ありがとうございます」
「ねぇ、話は変わるけど、右手の薬指のそれどうしたの?」
リリコがカンナの右手を指差す。カンナは嬉しそうにリリコに指輪を見せた。
「友達にもらったんです。オレンジ色が好きなの知ってたみたいで」
「あら、プレゼントなのね。でもね小鳥遊さん、嬉しいのは分かるけど、学校につけてきたらダメでしょ? ここでは許してあげられるけど他の先生が黙ってないわよ」
「あぁ、そうですね、すみません。あとで外します」
「えぇ、その方がいいわ。それにしても綺麗な指輪ね。良かったじゃない、プロポーズかしら?」
カンナは呆れてため息をついた。
「それ、ちなつにも言われたんですよ、友達からのプレゼントだから違います」
「そうかしら?」
リリコはニヤニヤしながらカンナの指輪にそっと触れた。
「指輪を渡すのは独占欲や契約、魔除けのような理由でプレゼントする場合もあるのよ? 友達だからって油断は禁物」
「へぇ、そうなんですね。でもまぁ、俺の友達はそんなのじゃないし」
「どうかしら? 案外分からないものよ」
カンナは指輪を眺めて「そうかなぁ」と呟いた。リリコはクスリと笑い、窓の外を見た。
「小鳥遊さんなら大丈夫ね。きっと、上手くいくと思う」
「だから違いますって」
カンナは苦笑しながらミルクコーヒーを飲んだ。
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