第2話
目を覚ますと、薄暗い部屋の中に様々なものが散乱していた。テーブルには飲みかけのビールの空き缶や化粧品が無造作に置かれ、椅子や床には女物の派手な服が脱ぎ散らかされていた。きつい香水の香りが時折鼻をかすめ顔を顰める。またお母さんかとため息をつきながら体を起こし窓を開けると、澄んだ空気が吹き抜け髪を揺らしていった。紺碧の夜空が曙色へと塗り替えられていくさまをぼんやりと見つめながら、私は気づくと彼に電話をかけていた。
『......もしもし』
数回のコール音のあと、待ち焦がれた人の声が私の耳に響く。静かだけれど包み込むような優しさを持つ彼の声に、胸の中の不快感や不安が解けていくのを感じながらそっと震えた息を吐き出す。
『どうした?また、家でなにかあった?』
「ううん、違うの。ただ、声が聞きたくなって......寝てた?」
『いや、起きてた。今家に誰かいるの?』
「いないよ。たぶん、私が寝てる間に出掛けたんだと思う」
『......家にいるの辛くなったら、いつでも連絡して。行くから」
彼の言葉に嬉しく思うと同時に酷く胸が痛んだ。彼はいつも私にたくさんのものをくれた。愛を言葉をあたたかさをくれた。けれど私は、してもらうばかりで何も出来ていない。それが酷く、やるせなかった。
「うん、ありがとう......ごめんね」
「ん?なにが」
「いつも色々と、つき合せちゃって」
『別に君が気にすることじゃないよ、僕が関わりたいから関わってるんだし。君はもっと、自分を気にしていいんだよ。他人より自分を大切にするくらいが君にはちょうどいいんだから』
「……うん」
『僕は君が好きで、君に幸せでいてほしいと思ってるんだよ』
それだけは、疑わないでと懇願するように小さく囁いた彼の言葉に喉がぐっと詰まった。好きな人の、好きだと言ってくれる人の言葉すら簡単に信じることが出来ないことが苦しくて、辛かった。痛みを紛らわすようにきつく目を閉じる。
小さい頃から私には無条件に愛してくれる人も、信じてくれる人もいなかった。両親ですら私のことを愛してはくれなかった。
私は母の腕の温もりを、優しさを知らない。
私は父の手の大きさを、力強さを知らない。
私は家族の温かさを、安心感を知らない。
私は誰かから愛される喜びを、知らない。
知らなかったの。
だからいつも、初めてもらう愛に不安になる。彼はいつまでそばにいてくれるのだろうか、いつまで私を愛してくれるのだろうかと。
一度その優しさや温もりを知ってしまったから、それが消えた世界に戻ることが恐ろしい。
『美夜?』
私の気持ちなど知らず、心配げに私の名を呼ぶ彼の声になんだか泣きたくなった。 彼は不安になったりしないのだろうか。
「ねえ、遥斗」
『ん?』
──いつまで私のそばにいてくれる?
そう問いかけようとして、やめた。
「私、貴女の優しさや思いに何を返せる?」
この愛がいつか消えてしまうのではないかという不安は消えない。でもせめて、貴方が私を愛してくれる間は貴方の愛に報いたかった。
『......もうもらってるよ』
「え?」
『俺の良いところだけじやなくて嫌なところを知っても離れないでいてくれたこと、そばにいてくれたこと。それが本当に嬉しかったんだよ』
ありがとうと優しく囁く彼の声を聞きながら嗚呼と思った。彼も私と同じだったのかと。
「......私もだよ」
電話の向こうで小さく微笑んでいるだろう彼の姿を想像し、淡く微笑む。
「ありのままの私を受け入れてくれたことが嬉しかったの」
否定され続ける人生の中で、だめな部分も良い部分もひっくるめて受け入れて、肯定してくれる人に出会えたことは確かに、私の救いだった。
「ねえ」
『ん?』
「今日、会いに行ってもいい?」
夜の星の瞬きは失われ、眩い朝日が山の縁を白く染めていく。きっと、もうすぐ夜が明ける。緊張した面持ちで彼の言葉を待っていると不意に柔らかな吐息が耳元に響いた。
『俺が会いに行くよ』
優しく告げられた言葉に自然と笑みが広がる。
『美夜の家の近くにさ、桜が咲いてる公園あるじゃん。そこで待ってて』
「うん」
『この前食べたいって言ってたケーキも買ってくから』
「ふふ、うん」
笑った拍子に一粒の涙が零れ、夢の中の彼の言葉が脳裏をよぎった。
──嫌な部分があってもいい。君が受け入れられないところは僕が受け入れるから。
彼とならいつか、愛すことができるだろうか。自分の嫌な部分も受け入れられない部分も。
『美夜?』
「......ごめん、夢を思い出して」
『夢?』
「うん、とても素敵な夢を見たの」
温かい涙が頬を伝っていくのを感じながら、空を見上げる。
「会ったらその話、聞いてくれる?」
その時、曙から東雲へと鮮やかに移り変わる空に一片の雪が舞い降りた。桜の花弁と共に舞い降りた雪は春の訪れを告げるように、美しく煌めいていた。
雪の果て 綾崎 翡翠 @neko0482inko
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