雪の果て

綾崎 翡翠

第1話 

 雪に覆われた世界に小さな女の子がいました。淡い雪はまるで花弁のようにふわりふわりと舞い降り、雪明りが大地をぼんやりと照らしていました。彼女は一人ぼっちでした。この世界に放り込まれたときからずっと孤独を抱え、涙を流していました。


 ある時、誰もいなかった世界に一人の少女が現れました。艷やかな黒髪をなびかせ、雪風に柔らかな頬をほのかに染めた愛らしい少女です。少女は背を向けはらはらと涙を流す女の子に近づくと、静かに声をかけました。


「ねえ、どうして泣いているの」

「......しってるくせに、なんできくの」


 振り返ることなく放たれた言葉は、拙いながらも鋭い言葉でした。少女は女の子の言葉に切なげに微笑むと、呟くように漏らします。


「......そうね。だって、貴方は私だものね」


 その言葉に振り返った女の子はこの世で一番憎きものを見るように鋭く少女を睨みつけました。


「そうよ、あなたはわたし。いちばんきらいなひと。こんなせかいにとじこめて、つぎはなにをするき?」


 そのむき出しの敵意に少女の心はチクリと痛みました。けれど、決して女の子から目を逸らしませんでした。


「貴方になにかしたいんじゃないわ。私は貴方と向き合いたいの」

「むきあう?いままでさんざんめをそらしてきたのに?」


 女の子は冷笑を浮かべると、少女と向かい合うようにして立ち上がりました。


「ねえ、このふりやまないゆきは、とまらないこのなみだは、いったいなんだとおもう?」


 少女は分かっていました。なぜこの世界は雪で覆われているのか、なぜ彼女は雪の中で泣いているのか。けれど、少女は答えることが出来ませんでした。少女の様子を見た女の子は泣いているような、嘲笑うような、痛々しい笑みを少女に向けました。


「これはこどくよ。あなたがえがおのうらにかくした、かなしみのなみだ。そしてわたしは、あなたがかくしたほんとうのわたし」


 女の子の姿に言葉に、少女は気づけば涙を流していました。女の子は少女に構うことなく、笑ったまま、涙を流し、その口から毒を吐きました。


「わたしは、あなたのみにくいところ、きらいなところ、ぜんぶしっているの」


 私は、嘘つきで、酷く傲慢で、素直じゃなくて、自分をよく見せるために優しさを振りまく。優柔不断で、勇気がなくて、人を、自分ですら心から信じる事ができない。


「そんなじぶんが、わたしはだいっき」

「もうやめよう」


 女の子の言葉を遮った少女は、彼女を力強く抱きしめました。少女は泣いていました。


「もう、自分で自分を傷つけるのはやめよう......」


 女の子は、泣いていました。自分を傷つける言葉を吐く度に、女の子は涙を流していました。彼女は自分の吐いた毒に苦しんでいました。女の子が少女の腕から逃げ出そうとすると、更に強い力で抱きしめました。もう、放さぬように、逃げぬように。


「ねえ、私達は嫌いなところが多いよね。人と比べるたびに、自分の醜いところが浮き彫りになるようで、嫌だね。自分のこと嫌いになりたいわけじゃないのに、嫌なところしか見つけられなくて、それがすごく悲しいよね」


 女の子は、もう逃げ出そうとはしませんでした。ただ、少女を見つめたまま静かに涙を流していました。真っ白な頬を涙で濡らし、この苦しみを吐き出すように泣いていました。少女は、女の子の涙を手で拭うと優しく微笑みました。


「でもね、私達きっと嫌なところばかりではないと思うの」


 軽やかにそう告げると、少女は女の子の手を引き歩き出しました。いつの間にか粉雪は止んでいました。


「どこへ、いくの」


 少しかすれた声で問うと、少女は春のような温かい笑みを浮かべて告げました。


「この世界の果てよ」


 その瞬間、空から一枚の花弁が舞い落ちてきました。雪ではない本物の花の花弁が、新たな世界の訪れを告げるように舞い降りました。女の子はその美しい薄紅色の花弁から目が離せませんでした。ひらりひらりと舞い踊る花弁をそっと掴むと、それには温かさがありました。優しい温かさがありました。


「ねえ、これはなに」


 我知らず震えてしまう声で問うと、少女は知ってるくせにと鈴を転がすように笑いました。


「これは愛だよ」

「あ、い」


 女の子は信じられないという面持ちで、少女を見上げました。だって、女の子はずっと孤独を抱えて過ごしていたのです。愛など、感じることなく過ごしていたのです。


「ねえ、私達孤独や悲しみに溺れてたくさんのことを見落としてしまったのかもしれないね」


 少女は前を向いたままポツリと呟きました。女の子は、何も言えませんでした。


 歩みを進めるたびに世界は変化していきます。分厚い雲が去った空には朝日が昇り、空を暁から曙へと塗り替えていきました。凍てついた空気はいつの間にか暖かな春の匂いを含んだものに変わり、降り積もった雪を溶かしていきました。姿を現した大地からは草木が芽生え、美しい花を咲かせていきます。


 それはとても美しい世界でした。世界には元々雪と女の子しかいませんでした。音が、色がありませんでした。あるのは静寂とどこまでも広がる銀世界でした。でも、この世界には葉が擦れ合う音が、いたずらな風の音が、刻々と姿を変える空がありました。けれど、この美しい世界で女の子だけがあの銀世界に囚われていました。  


 それはきっと、女の子が愛を信じられていないから。


「ねえ、これがあいだというのなら、このあいはだれからのあいなの?」

「本当にわからない?」


 少女は振り返ると静かに問いかけました。女の子はやはり何も言えませんでした。少女は女の子の手を握り直すと、またゆっくりと歩き始めます。


「人の、特に好意とか愛とかって信じるの難しいよね。人を信じるのってそれなりのリスクを負うし、裏切られたらって考えると怖いよね」


 少女は女の子に微笑むと、静かに指を指しました。少女の指した場所はこの世界の果てであり新たな世界の始まり。女の子はそこから目が離せませんでした。


「貴方も分かっているはずよ。気づかないふりをしていただけで、愛はすぐ傍にあることを」


 そこにいたのは、一人の少年でした。彼は陽炎のように揺らめき輪郭がはっきりしないけれど、優しい眼差しを向けてくれていることだけはわかります。その眼差しに、泣き出してしまいたくなるほど温かい空気に女の子は震えた息を吐き出しました。


「......あぁ、かれだったのね」


 女の子は少女の方へと振り返り柔らかな声で呟きました。


「はるを、あいをつれてきたのは」


 少女は女の子を見つめ静かに微笑みます。しばらく無言で春を生み出す少年を見つめていた女の子はポツリと零すように言いました。


「......かれはわたしを、あいしてくれているのね」

「そうよ」


 柔らかな微笑みを浮かべ女の子を振り返った少女は、その顔から笑みを消し悲しげに女の子を見つめました。


「どうして、あいしてくれたのかしら......わたしはずっと、あいせないままなのに」


 その顔に影を落とした女の子は掠れて震える声で呟きました。


「......わたしもほんとうはずっと、じぶんをすきになりたかった。でも、できなかった」


 頬を突き刺すような冷たい涙が再び瞳から零れ落ちます。

 

「うけいれられないの。かわりたいけど、かわりたいっておもうけど、じぶんをかえるのはむずかしい」


 少女は悲痛な面持ちで女の子を見つめました。女の子の抱える痛みは少女の痛みでもありました。だって二人は同じ「私」だから。


「どうしたらいい? じぶんをうけいれられないのも、だれもしんじられないのも、いきることもぜんぶ、つらい」


 女の子は震える体を掻き抱くように抱きしめながら震えた声を漏らしました。膝を抱え嗚咽を押し殺していると、濃密な春の香りが鼻をかすめました。香しい花の香りに女の子が顔を上げると、眼の前に少年が佇んでいました。彼は女の子の前に膝をつくと悲しげに彼女を見つめその頬を流れる涙を拭いました。女の子が目を丸くし彼を見つめていると、横から白く細長い腕が伸び次の瞬間には少女の胸の中で抱きしめられていました。


「辛いよね。受け入れられないのも、変われないのも、そういう思いを抱えて生きていくのも……でもね、全部を受け入れられなくてもいいんだよ」


 予想外の言葉に女の子は息を詰めました。


「……嫌いなままのところがあってもいい。君が受け入れられないところは僕が受け入れるから」


 少女の言葉を引き継いだのは少年でした。夜のような静けさと春のような優しさを秘めた彼の声を聞きながら女の子は少女の胸に顔を埋め、震えてしまいそうになる声で問いかけます。


「……きらいなままで、いいの?」

「いいんだよ」


 抱擁がほどけ女の子がそっと顔を上げると、二人の痛いくらい優しい眼差しが降り注ぎました。


「現実は辛いことばかりで逃げてしまいたくもなるよね。でも、現実を恐れないで。未来から逃げないで。他人を拒絶しないで。あなたを受け入れてくれる人は、愛してくれる人はいるの。だから」


 そこで言葉を区切った少女は、花がほころぶような美しい笑みを浮かべ祈りを唱えました。


 「目を覚まして」


 その瞬間、少年の体が花弁となり崩れ花吹雪となり彼女たちを包み込みました。突然視界を奪われよろけた女の子の手を温かな誰かの手が掴みます。女の子が恐る恐る目を開けるとそこには力強く彼女の手を握る少女の姿がありました。女の子を安心させるように柔らかな笑みを浮かべ花吹雪の中に立つ少女は、春そのもののようでした。


 「......あなたは、だれ?」


 春のような温かさと優しさを纏い、慈悲深い笑みを浮かべる少女と冬のような冷たさと儚さを纏い、凍てつく涙を流す女の子。同じ「私」でありながら真逆の二人。


 少女は女の子の言葉に驚いたように目を見開くと苦笑を漏らし、空から舞い降りた一片の花弁を掴み取りました。


 「私は──」


 春の少女は冬の女の子の小さな手のひらにその花弁を乗せると、雪をも溶かすような優しく柔らかな声で告げました。


 「愛を知った貴方よ」


 女の子の手に乗せられたのは、とても美しい真紅の花弁でした。




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