二章 魔法使い (7)

    ◇◇◇


 牙を見せて荒れ狂う猛獣に追われ、ニゼア氏はやっとの思いで駅に辿たどいた。獣たちはニゼア氏が駅構内に入るまでしつこく迫ってきた。

 汗とつちぼこりと、激しい運動でボロボロだった。かの有名なグリュワーズの名士にはとても見えない。袖口を噛まれ、少々ほつれていることに気が付かない程、ニゼア氏は疲弊している。

「はあ、はあ……! 一体何だここは!? 魔法使いが居るなんて聞いていないぞ! あんな女一人に私の命までくれてはやれん!」

 もうルシルが惜しいとは思わなかった。涙を流して喜ぶかと思えば冷たく拒否され、更に三年も面倒を見てやったというのにこの仕打ち。ニゼア氏は息も絶え絶えに列車に飛び乗った。「性悪な尻軽女め!」と精一杯の悪態を吐き、忌まわしいド田舎から離れていく。こんなところ、二度と来るかという決意を固めて。

 仕事を終えた森の仲間たちは互いに労わり合うように鼻を近づけ合い、そしてフィリスの言った通り街を襲うことなく、大人しく森の奥へと去っていった。


 一方。いつも穏やかなコートデューの街はにぎわい、人々が熱を込めて見たこと聞いたことを語っていた。

「見た!? 先生が魔法を!」

「あの出し惜しむ先生が……いつ振りだろう……」

「やっぱり先生はすごい魔法使いだよ」

「でもおっかなかった」

 しばらく街はこの話題で持ち切りとなった。それほど『先生』が魔法を使うのはまれだったし、あれほど怒りをあらわにしたのを見たのはもっと珍しかったからである。

「難しい人だけど、激しく怒る人じゃないのにね」

「怒ったのってあの子のためかな、ほら一緒にいた」

「アタシ知ってるわよ、彼女」

 人々は森の方を眺めた。いつもと変わらない、静かで普通の森だった。しかしその奥に何があるのだろう。街の関心は森へと集まり、あれこれと語り合う。

 人の口が紡ぎ、豊かな想像力で作られるうわさは街の中を漂った。そして。

「えー! 先生のお家に、新しい家政婦さん……おまけに、おまけに……」

「どうしたのディディ」

「なんでもない……」

 噂は山の向こうへ越えていき。更に遠くへと広まっていった。


 場には既に大勢の人間が集まっていて、人の声がホールに響き合い、騒々しかった。

「あの方が珍しく魔法を使ったそうではありませんか」

 ホールに金髪の青年が姿を見せた。サラリとした髪が天窓からの光に照らされきらめいた。顔にも光が当たり、整った顔立ちがはっきりと表れる。顔見知りの魔法使いが青年に気づき、「イーダ」と名を呼んだ。

「もう大騒ぎだよ。あの辺で何か起こったかと思ったら何もないし」

「ではかいじゅ関係ですか?」

「いや、それがそうでもなさそうで」

「あの方が理由なく魔法を?」

 金髪の青年──イーダはげんそうに眉を寄せた。集まった魔法使いたちから同じ言葉が聞こえた。皆思うことは同じらしい。久方ぶりの珍事に、上層部の者までホールに顔を出している。

「統制部以外も来てるんですね」

「久し振りだからな。しかも意図が不明だし。上だけじゃない。学園を出たばかりの奴らも、まだ修業中の奴らも来てる」

「後ろの子たちはただのうまじゃないですか」

 イーダは何やら楽しそうにコソコソと固まって話し合っている一団をジロリと見た。

 しばらくすると、奥の方から黒いローブをまとった白いひげの老魔法使いが現れた。騒がしかったホールはシンと静かになる。

「あまり騒ぎ立てないよう。余計な詮索も控えることだ。もしも彼への不干渉を破るやからがいたら協会中枢に連絡をするように」

 重く厳しい声が集まった魔法使いたちに注意を促す。各々その声に深く礼をして応えた。老魔法使いが再び奥へと消えると、すぐホールにざわめきが戻ってきた。

「だからさ、実際どんなもんなん? って思うじゃん」

「こんなに騒ぐことか?」

「なあ。いいこと考えた」

 若い魔法使いたちの軽い調子で話す声がイーダの耳に入り、イーダはすれ違った彼らを振り返る。先程気になった一団だった。益々良からぬ気配が読み取れる。イーダはたくらみ顔で笑っている彼らに冷ややかな視線を送った。

「はあ……」

 落ち着こうと、軽く息を吐き出す。こんなことはいつ振りだろうか。イーダはかの人をおもう。

「フィリス師」

 声であふれるホールの中、青年は誰にも聞こえない程の小さな声で最も尊敬する魔法使いの名を呼んだ。


   ◇◇◇


「お時間いただけますか」

 家に帰ると、部屋に戻ろうとする先生を捕まえた。助けてもらっておいて何も話さないでいるのは流石の私も後ろめたい。元旦那様の存在が知られてしまったからには、言い訳をしたいというのもある。何とも勝手な事情だ。

 私に引きめられた先生はスッといだ瞳を私に向けた。

(あ、嫌がってるかも)

 その顔を見て一瞬そう思ったのだが、先生は足の向きを変え普段食事をする椅子に腰を下ろした。

「……」

 目をぱちくりとしていたら、今度は「座らないのか」という視線をいただく。慌てて私も席に着いた。先生の斜め前に陣取る。先生と同じテーブルに着くのは初めてだった。

 こちらから話しかけておきながら本当に付き合ってくれることに感動を覚える。

「この度は、お騒がせをいたしました」

 私はぺこりと頭を下げた。先生の表情は変わらない。多分私が話し続けていいのだろう。

「さっきのは、実は私の元職場の旦那様でして……その、大変お恥ずかしながら私、その奥方にいとまを出されまして。というのも」

 スッと先生の骨張った指がテーブルの上に何かを置き、ツイ、と私の方へ滑らせた。

「落としてました?」

「廊下にあった」

 それはくだんのしつこいストーカーを撃退するための方法が書かれたメモだった。ポケットを探ってみたが確かにない。先生に拾われたと思うと、恥ずかしさで顔がカーッと熱くなる。

「また来るようなら次は少しあぶってやろう」

 真顔で言う先生に一抹の不安を覚える。「冗談ですよね」と確認する勇気はない。多分本気だ。

「旦那様はもう」

「来ないと思います」と言うつもりで開いた口は、ぺそりと何かに封じられる。先生がさっきのメモを私の口に軽く当てて制したのだ。

「……」

 私は口を開く代わりに当てられたメモを受け取った。先生はメモから手を離しながら腰を上げてしまう。

(あ、もう行ってしまわれるのですね)

 事情を話したいというのは結局私の自己満足だ。先生にわざわざ聞かせたことが正しかったかどうかは分からない。

 先生が立ち上がると、こちらに向けられる視線は角度の都合で流し目になった。目元が色っぽく見えてドキリとした。

 そんな私の胸中を知らず、先生は去り際にポンと私の頭に一瞬手を置いた。

「もうあんな風に呼ぶ必要はない」

 低い声でそれだけ呟くと、先生は普段通りのテンションで階段を上がっていった。

「……」

 残された私はフリーズし、しばし無のときを過ごした。

(あんな風にって。もしかして、「旦那様」?)

 慰めてくれたのだろうか。さっきは有能と評したり、辞められると困ると言ったり、今日の先生はサービスが過剰だ。こんなに話したのもここに来て初めてだ。

「先生えええ……」

 込み上がる尊さに胸を押さえ、えつに似たうめごえを上げた。

(雇ってくれてありがとう)

 先生の触れたところがサワサワとくすぐったかった。



   ~試し読みはここまでとなります。続きは書籍版でお楽しみください!~

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【書籍試し読み増量版】永年雇用は可能でしょうか ~無愛想無口な魔法使いと始める再就職ライフ~1 yokuu/MFブックス @mfbooks

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