二章 魔法使い (6)
「何だ!?」
「きゃああ! 何!?」
さっきまで息を呑んでいた人々が騒ぎ始める。一人が叫びながら空を指さした。誰もがつられて空を見た。
(……)
先生の家がある方角に黒い雲がとても不自然にモクモクと集まっていた。雲の隙間を稲妻が走る。今にも落雷しそうだ。
「うわあああ! 熊だ!」
「トラよ!」
続いて、地上にも異変が起こった。街の奥から
「あ、あれは……!?」
ゆらり、と
「せ、先生……」
さっきまで必死に力比べをしていた私たちは、こちらに迫ってくる異様な光景に完全に言葉と力を失った。
雷雲はゴロゴロと不穏な音を発し、頭上を暗く覆った。
「グルルルル」
どちら様の唸り声か分からないが、猛獣たちは牙を向き出し威嚇してくる。今にも襲いかかってきそうだ。
その先頭を静かに歩いてくる先生からはとんでもない圧力を感じる。怒っているのは明らか。顔はこれまで見た中で最も険しく、厳しい。先生は歩みを止めることなく、手をフッと何となく眼前で下ろした。
ドゴオオオオオオン!!!!
体中を揺さぶるような激しい雷の音が鳴り響いた。落ちこそしていないが、先生たちの背後にはっきりと大きな稲妻を見た。
「わあああああ!」
「きゃあああああ!」
人々は大騒ぎである。当たり前だ。逃げるべきだ。普通ならばそうするだろう。しかし、先生の真っ直ぐな目に
「ルシル」
先生は低い声で私の名を呼んだ。驚きと恐怖が突き抜けた頭で、私の脳が返した感想は
(名前、知ってたんだ……)
口を開けて固まっていると、先生はついに私たちの目の前までやってきた。私とニゼア氏は先生が引率してきた猛獣たちに取り囲まれる。フンフンと
「……」
先生は無言で私の手を掴んでいたニゼア氏の腕を引きはがす。そしてニゼア氏の腕を掴んだまま、先生は解放された私とニゼア氏の間に割り込んだ。
先生の背中がとても大きく、そしてとても頼もしく見えた。
「あ……貴様、何を」
雷も、猛獣たちもどう見たって先生の仕業である。流石の元旦那様も頭上に雷雲、背後に熊、足元に狼は怖いらしい。さっきまでの威勢はどこにもない。
「去れ。そして二度とこの地を踏むな」
「な……なにものだ……」
先生は私をちらりと見下ろした。私は先生を見つめ返す。
「彼女の雇い主だ」
先生の言葉を聞き、ニゼア氏の瞳が燃える様に光る。先生はそんなニゼア氏を冷たく見据えた。
「ルシルを使用人
比較的小さな声だったが、ニゼア氏は先生を
(え! 何!?)
では私には何が
「使用人如き、か」
(ん?)
私が「怖い、気持ち悪い」と青くなっていると、先生が何かをポツリと呟いた。見れば先生は呆れたような、興味のないような、心底つまらなそうな顔をしていた。
「お前の価値観など知るものか」
「は」
「お前如きの
(お前如き!)
非常に鬱陶しそうな声色で先生が立ち退きを再度促す。ニゼア氏は顔を赤くした。信じたくないがあれでもグリュワーズの名士。相手にもされない扱いは相当屈辱に違いない。ニゼア氏は何か言おうと口をパクパクとさせた。けれど先生はもう取り合う気はないらしく。
再び頭上で雷鳴が
「了承しなければ、お前を彼らにやろう」
先生がそう言うと猛獣たちが一斉にまた唸り始める。お腹が
先生はパッとニゼア氏の腕を放し、淡々とした口調で足元の仲間に「送ってやれ」と声をかけた。すると、猛獣たちは食いつく素振りを見せながら、走って逃げるニゼア氏を追いかけた。よほど力いっぱい走っているのか、ニゼア氏の姿はあっという間に見えなくなる。
「街の者を襲いはしない」
先生は辺りで震えていた街の人々に声をかけた。腰を抜かして逃げそこねた人々だった。続いて頭上に手をかざし空を払うように切ると、雷を
「……」
先生は何事もない様子で、
(魔法使い……)
先生の紫色の瞳が私を見下ろす。
「帰ろう」
一言、先生は私にそう言うと森の方へと向きを変え、数歩歩いた。
「ルシル」
ついてこない私に先生は振り返り、私の名前を呼ぶ。
「せ、先生」
「何だ」
「動けないので、後から参ります……」
立ったまま腰が抜けた。つまるところ、あまりに驚き過ぎて動けない。
「痛むか?」
先生は私の腕を見て言った。そこは確かにニゼア氏に掴まれて赤くなっていた。しかし既にニゼア氏との
先生の質問に頭を横に振って応えると、先生は悩ましく目を細めた。
「怖がらせたのなら、謝ろう」
私の反応が鈍いためか、今日の先生はよく
(困ってる)
先生の顔を見つめていると、冷え切っていた体の末端がじわじわと温かくなっていくのが分かった。体の感覚が次第に取り戻されていく。数度瞬きをして、息を吸い、強張っていた体をやっと解放する。
「先生」
この何を考えているか分からない先生が、心の揺れを見せない先生が。
(怒って、そして助けてくれた)
これまで見せたことのない魔法まで使って。
私の胸の中で大きな感動と感激が激しい波の様に打ち寄せる。
「先生、ありがとうございました……!」
心の底からの感謝を込めた。深々と頭を下げて意を伝える。
「……」
音声によって返事はなかったものの、先生が若干気を乱したのを肌で感じる。顔を上げると、先生はタイミング良く顔を背けてしまった。
「有能な君に、辞められると私が困るからな」
「……!」
先生は私と目を合わせずに言った。思わぬ評価に今度は私がたじろいでしまった。
(何ですか!? そんな風に思ってくれていたのですか!?)
「帰ろう」
先生はそれだけ言って、一見素っ気なく身を翻して歩いていく。
嬉しくて泣きたいような、初めての感情で胸がいっぱいになる。今度こそ振り返らずに遠ざかって行ってしまう背中を私は走って追いかけた。
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