二章 魔法使い (5)

 街の人は「先生」と呼んではいても、二言目には「厳しい」や「難しい」と言う。確かに難しい。私だって未だに動向を窺いながら働いている。けれど。

 家政婦に一部屋くれたり、お風呂を自由に使わせてくれたり、自由時間を与えてくれたり。失敗をとがめなかったり、ブランケットをかけてくれたり。

 手を差し伸べて起こしてくれたり。

 先生は無駄なことはしない。きっと、先生にとって家政婦だからとわざわざ屋根裏をあてがったり、四六時中労力を求めたりすることは必要ないことなのだろう。

(それを優しさだと思うのは、オメデタ過ぎるでしょうか)

 胸に広がる温かさをどうしよう。

「あはは」

 だらしなく緩む頬を睨む人はもう家の中。先生の手の感触が、じんわりと残っていた。


   ◇◇◇


「やっと着いた! 何て田舎だ!」

 一等車から降りたニゼア氏は悪態を吐いた。イライラが募り、しゃしょうにベッドが硬いだの朝食がマズイだの、思い付く限りの苦情をぶつけたがスッキリしない。

 ふんふんと鼻息荒く駅から出てきた見慣れぬ派手な服装の男をコートデューの街人たちは不思議そうに眺める。

 ニゼア氏にとっては質素で張り合いのないさびれた街をぐるりと見回す。街も人も何のおもしろもない。実際目の当たりにしたド田舎に、ルシルを置いておくことがいよいよ我慢ならなくなった。

「ルシル! どこにいる……!」

 ニゼア氏は悲壮な声を上げ、愛するルシルを探し始めた。


「これでもないですねえ」

「そうかい? でもこれでうちにあるのは全部だよ?」

 雑貨店にて。私は並べられている香油石鹸の匂いを片っ端から嗅いでいた。そのせいでさっきからちょっと鼻がおかしい。

 先生の使っている香りを探し当てようとしたのだが「これだ!」というのがない。店のおばちゃんが「おかしいな」と言う私を「おかしいね」と言いながら見ている。

「今日は別のにしておいたらどう?」

「うーん、仕方ない」

 おばちゃんの言う通りにし、私はかんきつけいの香りのする石鹸を買うことにした。

「毎度~」

 おばちゃんの明るい声に会釈をして店を出る。帰りがけに商工会に挨拶して、と思ったとき、頭上をバサバサと鳥が飛んでいった。

「最近、鳥多いなあ」

 街の人がそう零しているのを何度か耳にした。先日うちの畑にもたくさんやってきたし。渡り鳥が来る季節なのだろうか。鳥に詳しくないのでよく分からない。

 首を捻って歩いていると、今度は背後からタタタタタタと軽快な足音がいくつも聞こえてきた。

「ね、猫……!」

 かなり最近似たような光景を見た。数匹の猫が群れをなして駆けてくる。どうしようかと狼狽うろたえたものの、猫たちは私を避けて飛ぶように駆け抜けていった。

「わあ! 猫だ!」

 私の先を歩いていた街の人が、案の定猫のかけっこに驚いている。

「先生の街の仲間が大暴れしていますが……」

 猫の去っていった方を呆然と眺める。猫たちはすぐに小さな点になって見えなくなった。

「ックシュン! クシュン! ッション!」

 後ろから気の毒なくらいのクシャミが聞こえて私は我に返った。追加のクシャミもまた激しい。もしかして猫アレルギーだろうか。だとしたらあんなに多勢に通り過ぎられて辛かろう。労わりの気持ちで背後を振り返り、そして。

「……」

 血の気が引いた。

「ッルシ! クション! 見つけ! クション! ハクション!」

 ほとんど何と言っているのか聞き取れなかったが、その人は間違いなく私の元雇い主。

(だ、旦那様!!!!!!)


 穏やかなコートデューの街が、いつになく局所的に騒がしい。運悪く広場に居たのが災いして、憩っていた人々が「何事だ」と遠巻きにこちらを見ている。原因は言うまでもなく。

「ルシル! さあ私と共に帰るぞ!」

 元旦那様のニゼア氏が一人で大盛り上がりしているからだ。もう症状が治まったのか、今はうんざりするくらいはっきり言葉が聞こえる。公衆の面前でここまでお構いなくできるのがもう本当に勘弁してという感じだ。

 絶好調な元旦那様を前に、私はポケットにあるはずのメモに書かれた内容を思い出していた。

「悪いことをした! もう戻って大丈夫だ!」

(断固拒否の姿勢を崩さない)

「戻りません。決して。戻りたくありません」

 しっかりとそう告げると、元旦那様は目を見開いた。

「な、何を言っているんだ? そうか、不安なのか。大丈夫だ、あの女とはもう縁を切った」

(か、感情的になってはならない)

 あの女とはまさか夫人のことだろうか。うっかり「え!?」と言いそうになったが根性で堪えた。

「関係ありません」

 冷静に返せただろうか。内心ドキドキでハラハラだが、ここは絶対に負けられない。なんとしても、諦めさせて一人で帰ってもらうのだ。

 私の強い意思を察したのか、ニゼア氏は狼狽えた。

「どうしてそんなことを言う? 君と私は愛し合っていたじゃないか!」

(おおおおお!?)

 いきなりトンデモナイことを言い出すので、思わず叫び声を上げるところだった。何だそれは、初耳もいいところだ。

「……そんな事実はありません」

 冷たく返せば、元旦那様は私に一歩近づいた。顔がこわっていて目の焦点がどこにあるのか分からない。

(こ、怖!)

 私が一歩下がると、向こうが一歩寄ってくる。嫌なループに入ってしまった。しかし気持ちが悪いので距離を詰めたくないのである。

「いつも私に気を回してくれたし!」

(仕事のはんちゅうでしか何もしていないけど)

「笑いかけてくれたし!」

(ひええ愛想笑いじゃないかな)

「ずっと居てくれと言ったら『旦那様次第ですね』と!」

(雇用の話だよ!)

 大変な食い違いすれ違いにゾッとした。これは無理だ。絶対に無理。五〇〇〇〇〇〇〇〇〇歩譲っても無理。いやもう譲らない。

「旦那様」

 そう呼ぶと、目の前の人は嬉しそうに目を光らせた。

「勘違いです。旦那様のことを好きだったことなど一瞬たりともございません」

「……」

 ニゼア氏は両手を前に差し出しかけて固まった。

「は、はは……」

 しかとニゼア氏を見据えていると、氏は急に乾いた笑いを発し始めた。

「ふ、ふははははは」

 異様な雰囲気を感じ取り、私は更に距離を空けようと後ずさった。しかしニゼア氏は存外機敏に動き、私の腕を捕らえた。

(ぎゃああ)

 ぎりぎりと強い力が腕を握る。痛みで顔がゆがんだ。

「お前のために何をしたと思っている? あの女を追い出し、お前用の部屋も用意した。二人で使うベッドもシーツも新しくしたし、あとはお前が来るだけなんだぞ? 使用人だって皆入れ替えたから安心しなさい」

 言っていることがおぞまし過ぎて殆ど耳に残らなかったが、執事のレイヴンが一抜けしたことだけは分かった。羨ましいなどと思っている場合ではない。

「さあルシル!」

 掴んだ私の腕を力任せに引き、ニゼア氏は私を自身の腕に閉じ込めようとする。

「いやああああ! 本当にやめて! 変態!」

 感情的になってはいけないのは重々承知だが、もう限界だ。生理的に、本能的に悲鳴を上げた。見ている人、気味が悪いのは分かるけどドン引いていないで助けて!

 必死で抵抗しているが力比べも限度がある。体格的に私は圧倒的に不利だった。

(押し負ける!)

 ニゼア氏の胸板に顔が近づいたとき。

 ドオオオオオオオオオン……! 辺りにごうおんが鳴り響いた。

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