二章 魔法使い (4)
あれから数週間。私の心配も余所に誰の襲来もないまま時間が過ぎた。いつ来るのか分からない、そもそも本当に来るのかも分からない。
例のメモをいつもどこかのポケットに忍ばせ、準備だけは万端にしているが、どうにも不安で神経を使い、
(大変大変、待ってる待ってる)
お風呂上がりの先生がリビングに戻ってきて、キッチンをちらりと見るとそのままソファに腰を下ろした。完全に飲み物待ち状態だ。私はお風呂前に受注した飲み物を慌ててトレイに載せた。
「お待たせしました」
先生は無言でトレイを受け取る。ひとつ頷くと、階段を上がっていった。ペタペタと、
先生は変わらずきっちりとした生活を送っている。今日も時計を見れば二十時。見事な時間運び。
(安定していて立派だよね)
流石、と言うべきか何と言うべきか。淡々と日々を送る先生の姿に感心する。いつも落ち着いていて、動じることはない。しっかり
(見習いたい……)
私は無意識にため息を零した。不安で浮かない気持ちを、ひとつの意志で支えている。この生活は絶対に維持したい。雇用条件的に最高だし、こんなに仕事が面白いのは初めてなのだ。
何が面白いのかと問われれば、それはもう全てである。今までだったら入職時には先輩が居て、家のこと、主のことを教えてもらってからのスタートだった。でも今回は何もない。
料理も洗濯も掃除も買い物も。全て誰の指示でもなく、私が自分で考えてやる。どうしようかと迷うこともあるけれど、洗濯物籠の貼り紙のような
先生が最も快適に過ごすことができるにはどうしたらいいだろう。追求する毎日がとても楽しい。
だからこそ、私の心を
「ぐううどうして私がこんなにキリキリしないといけないの……」
やりきれない思いが募り、むしゃくしゃする。
「お風呂!」
そんなときはお風呂に限る。私は部屋に戻ってバスセットを持ってくると、お風呂場へと向かった。さっき先生が出たばかりなので、浴室はまだ湯気が残っていた。先生は出るときにお湯を抜いてしまうので分からないが、私はお湯に
「使用人がお湯に浸かれるなんて本当にありがたい。やっぱりここは天国」
ここに来るまで、仕えている屋敷の湯船に浸かれたことなど一度もない。使用人用の簡素な風呂場には浸かれる大きさのバスタブはなかった。
バスタブにお湯を
(先生も香油石鹸使ってるんだよね)
お風呂上がりの先生から良い匂いがする。この石鹸は種類がたくさんあるらしい。私とは違う匂いがするのできっと別の香りのものを使っているのだろう。
次に自分で買うときは別の香りを試してみたい。本当は先生の使っている匂いが好きなので同じのが欲しいのだけれど、聞いて教えてくれるかどうか。そもそも聞いて大丈夫かという問題がある。
「自力で探すしかないか……」
私の方が後にお風呂を
たっぷりゆっくりお湯に浸かり、ホカホカでお風呂から出た。
「熱い……」
(気持ちいい)
数センチ戸を開けたままにして、私はソファに座った。成程、これは快適。昼間に先生がたまにここで休憩している訳だ。先生の真似をして、そのまま横になってみた。
(あ、これはダメになる)
あまりの心地良さに体の力が抜けてゆく。
「……」
気が付けば、私は意識を手放していた。
フィリスは真夜中、ルシルを発見した。ついでにガラス戸が開けっ放しなのも見つけた。
「……」
とりあえず、ガラス戸を閉め、施錠する。フィリスは顔をしかめてルシルを見下ろす。
「何をしているんだ、君は」
寝ているルシルに問いかけた。しかし、返事はない。ルシルは静かな寝息を立てるばかり。
「……辞められては困る」
どうして、
フィリスはソファの隣に立った。ルシルの若干痩せた頬を眺め、苛立ったように眉を寄せた。
◇◇◇
朝日がカーテンの隙間から目に直撃した。
「~~~~!」
あまりの
「ッ! 戸締り!!」
ソファから転がり落ちる様にガラス戸の方へ向かえば、きっちりと閉じられ、鍵がかかっている。
(先生だー……)
がっくりと床に膝を突いて、昨夜の失態に頭を抱える。
「つい、ついあのソファが悪魔的な心地良さで……」
後ろめたい気持ちでソファへと視線を移すと、そこには更に私に追い打ちをかけるものがあった。
床でくしゃくしゃになっているブランケット。
「……」
思わず絶句した。
(せ、先生か? え、嘘、先生が?)
私はその場に崩れ落ちた。先生がかけてくれたのだろう。だって他に誰が居る? いや居ない。呆れただろうか。こんなだらしない奴は不要、とか普通に言いそう。解雇検討の真っ最中だったらどうしよう。寝起きから不安で嫌な汗が噴き出した。
(ここで働き続けるために何とかしなくてはとほざいておいて、この様……!)
私は力なく立ち上がり、部屋の時計を見た。もう畑に水やりに行く時間だった。
農作業用の長靴に履き替え、
「朝ご飯ですよー」
いつもの声かけもテンション低め。頭の中ではどれから謝ったらいいかの会議が開かれている。
「これで最後かもしれないから、たんとあげようね」
「何故だ」
「!?」
心臓が口から飛び出た。
誰も居ないはずの朝の畑。どうして先生がここに。
「……」
朝日に髪を輝かせた先生が何とない感じで畑の際に立っていた。
私は固まり、先生を見た。怒っている様でもなく、呆れている様でもなく、いつもの朝七時に階段を降りてくるのと同じ感じに見える。それがそう見えるだけなのかどうかが非常に重大な問題だ。
耳の奥でドッドッと脈がダッシュする音が響いた。
「……」
「…………」
柄杓を片手に硬直する私と、何を考えているのか分からない目で私を見つめる先生。双方、どちらも動かない。どちらかがアクションを起こすのを待っている。それはまるで動物が間合いを測っているかのようだった。
先生は静かに
(な、何か言わなくちゃ)
しかし喉が張り付いて動かない。
「……」
緊迫した場の空気を破ったのは私でも、先生でもなかった。
バサバサバサ、と複数の鳥が羽音を立てながら畑に飛来した。何事かと振り仰げば、足元にはいつの間にか数匹の猫。
(!?!?)
足を取られた私はバランスを崩して後ろにスッ転んだ。ドシャリと尻もちをつく。猫が「今だ」と言わんばかりにニャーニャーと私に群がってきた。
(し、幸せ……じゃなくて!)
一体何がどうしたんだ。何故突然畑に鳥の群れが集まり、猫がやってきた? 意味が分からない。
色々なことに混乱して目を白黒させていると、目前から深いため息が聞こえた。先生は尻もちをついたままの私の前にしゃがみ込み、私と目線を同じくする。いつもと違う視界に私の心臓が跳ねた。
「行きなさい」
先生が一言告げると、猫たちは皆先生に体をこすりつけて去っていった。鳥たちも続いて飛び去っていく。何だったんだ。
「お、お友達ですか」
つい思ったことをそのまま言ってしまった。皆先生の言葉が分かったかのようだった。
「街の仲間たちだ」
その答えに笑っていいのかどうか。判断がつく程今の私は冷静ではない。どう反応したら良いのか分からず、私が表情を完全に失って呆然としていると、先生は立ち上がりついでにこちらへ手を差し出した。
(……手を取っていいのでしょうか)
「……」
「すみません」
するりと自然に謝罪が零れる。一度口が利ければ勢いがついた。今度は深々と体を半分に折り、「昨夜は申し訳ありませんでした」と謝った。
先生はジッと私の顔を見て一言「ああ」とシンプルな返事をし、くるりと
(え!? 終わり!? 行っちゃうの!?)
相変わらず先生の意図を
「ブランケット、ありがとうございました」
先生はやはり何も言わなかったが、こちらに背中を向けたままスラリと手を挙げて応えてくれた。
(いいよ、ってことでいいんですかね)
言葉が貰えないので、都合良く解釈するしかない。どうやら解雇だけは免れたようだ。
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