二章 魔法使い (2)


   ◇◇◇


『ひと月分』

 朝起きたらテーブルの上に封筒が置かれていた。寝ぼけた頭で封を開ける。

「お給金」

 途端に私の脳は覚醒した。そうだ。もうここに来てひと月。あっという間だったような、長かったような。現金な私は報酬を手にして月日の流れをひしと実感した。

「お給金……!」

 私は給金が出たら是非行きたいところがあった。封筒を胸に抱きしめ、キラキラと輝く朝日を晴れやかな気持ちで迎えた。

 上機嫌を隠しもせず朝からいそいそと動き回る私を先生は不審そうに見ていたが、今日だけは気にならない。先生の昼食が終わると、私は「出かけてきます」と書置きをして意気揚々と家を出た。

 あまりに浮かれていたので、バルコニーから先生が森に消える私を見ていたことは露も知らない。

 ジュワアアアアとさんの如くありがたい音を鉄板が奏でる。熱い鉄の上で跳ねる油。赤身と白身が美しい調和を作り出す。そう、これこそ。

「肉……!」

 しかも、ちょっといいやつ。

「い、いただきまあす!!」

 私は働き始めてこの喜びを知った。大勢の兄弟とおかずを取り合った幼少期。下から二番目の私はいつも負け越し、兄たちがおいしそうな肉をモリモリ食べているのを歯を食いしばって見ていた。

 先生を差し置いて自分だけこんなに良い肉にありつくのは悪い気がしたものの「一緒に行きましょう」と誘う勇気はなかったし、間違っても先生が来るとも思わない。

 私は初めて買い物に出てきたときからこの店に目を付けていた。ガラス窓から覗いたときにかっぷくのいい紳士がぶ厚いステーキをほおっているのを目撃したのである。

(あ、あれだー!)

 そして今、それは私の目の前に鎮座している。

 ミディアムレアでと注文を付けた肉は、ナイフを入れると素晴らしいあんばいで火が入れられているのが確認できた。私は心の中で拍手をした。

(先生すみません! 食べます!)

 肉汁滴る一切れを口に入れると、柔らかさに顔が綻ぶ。ああ、幸せ! このために働いてる!

「おいしい……!」

 肉を堪能した次は、ガーリックライスだ。パンかライスか聞かれたが、私は断然ライス派だ。レストランによっては好みでないライスを使うのでリスキーなのだが、ここは大正解。ありがとう。

 ひとみひと噛みに感謝し、私は念願のステーキ定食を平らげた。

(はあ……。また、来月までさよなら……)

 いくら割に合う給金だからといって、そうそう度々こんな食事はしていられる訳ではない。

 私は両手を合わせて空になった鉄板と皿に別れを告げた。この動作は先生をてみたもの。初めて見たときに「何だか素敵」と思ったので倣ってみた。真の意味はよく知らないけれど、日々の食事をただるだけでなく、都度特別なものとして感じられるような気がして、習慣にするようになった。

「ありがとうございました」

 店から出ると陽の光が美しく家々の屋根を照らしていた。満ち足りたおなかと心がその光景を一層美しく感じさせ、私の幸せ指数は空まで跳ね上がった。

 だから、という訳ではないのだが。

「あー、いた。ルシル?」

 私の名を呼ぶ声に覚えた絶望感が感情に大変な落差を生み、私はしばらく何も言えないまま、突然現れたかつての同僚を呆然と見つめることしかできなかった。


   ◇◇◇


 吉事と不幸が重なったような気分だった。出かけるときはあんなに浮ついていた気持ちが、今は地をう程落ちている。

 森のトンネルを歩きながら、先程レイヴンとした会話を鬱々と思い出す。

「レ、レイヴン……」

「ちょっとぶりだな。話がしたい。時間あるか?」

 レイヴンと私は適当なカフェに入り、隅っこの席に落ち着いた。「静かでいい街だな」なんて言いながら、レイヴンは窓の外を見ている。用があるのではなかったのか。

 運ばれてきたコーヒーに手も付けず、私は非常に嫌々ではあるがしびれを切らして「何でしょうか」と用件を問うた。

 レイヴンはあからさまな私の態度に苦笑した。

「ここまで逃げてきたお前には嫌な話でしかないと思うが」

「でしょうね」

「ニゼア様が連れ戻したいって聞かなくて」

 私は「ひっ」と息をみ、座っている椅子の背にしがみついた。本能的な反応だった。

「絶対無理」

「だろうな」

 レイヴンも疲れたようなため息を吐いて自身の椅子にもたれる。彼は決して言わないが、きっとまだ貧乏くじを引きまくっているのだろうなと思った。

「何でまた」

「本気なんだって」

「何に」

「お前に」

 声にならない悲鳴が口から出て、全身に鳥肌が立った。

「みみみ見て、このさぶいぼ」

「見た。分かった。悪かった」

 旦那様の気の迷いについてはレイヴンが謝ることではない。けれど突然やってきてそんなホラーな話をするなんて。

「私、今もう働かせてもらっているお家がある」

「あー。そうなんだ」

「じゃあまだ良かった」とレイヴンはほおづえを突く。

「俺さ、連れ帰れって言われてんの」

 私は無言でブンブン首を横に振った。冗談ではない。たとえ十万歩譲って戻ったとしても前以上の地獄が待っているのは明白だ。

「分かってる分かってる。お前がうんざりしてたのは皆知ってるよ。なんか、最後の方は気の毒でからかえなかったもん」

「あんなに面白がってたくせに」

「だって他に面白いことないんだもん、あの屋敷」

 それは同意するが、面白さの対象とされた方はたまったものではない。

「とにかく。いいさ今回はこのまま帰る。だってもう働いてんだもんな。仕方ない仕方ない」

 レイヴンはそう言いながら席を立った。幾分か嬉しそうだった。私をさっき呼び止めたときよりも大分顔色がいい。

「でもな、俺お前と会ったって報告はするよ。俺だって自分の身が大事だから」

「悪いな」と言い、レイヴンは眉を下げる。私は釈然としない気持ちで渋々頷いた。彼も仕事だ、そこは雇われる者としてある程度仕方ないと思える。

「そういえば、お前の足取り追うために探偵雇ったりとか、聞き込みとかやった。きもくてごめんな」

 最後にあまり知りたくなかったことを言い残し、レイヴンは駅の方へと向かって歩いていった。

 今回は帰ると言ったレイヴン。今回とは。次回があるのか。あり得るのか。

(うわあどうしよう……)

 私が解雇になったあの件はまだ終わっていなかったのだ。しかも私が思っていたよりもはるかに事は深刻だったらしい。夫人にビンタを食らって泥棒猫が屋敷を追い出されて終了。よくある三文小説のように終幕してほしかった。第二幕なんかいらない。

 ニゼア氏の気の迷いに関しては気持ち悪さが天元突破して「もう許して」という域だ。

「先生に相談し……」

 いや。口に出しかけて、すぐに自身で否定する。こんな面倒事、絶対に先生は好きじゃない。というかどんな面倒事もきっと「余計なこと」に当たるだろう。

 大体、私がこの街に来た理由も話していないのだ。思えば街の誰にも話していない。先生がかないならわざわざ話す必要はないのだろうけれど。

『前の主に懸想をされて奥方に追い出されました』

(い、嫌! 不名誉過ぎて言いたくない!! それに静かに幻滅されそう!)

 私は頑として口を閉ざす方向に決意を固めた。先生は余計なことはしない。そうさ、研究以外は余計なことと思っている人だ。このまま何とか知られずに乗り切るしかない。

 深呼吸をひとつすると、私は家のドアに手をかけた。


   ◇◇◇


「はーい、あれ先生! お珍しいですね! こんにちは」

 唐突に商工会に現れたフィリスをコルテスは笑顔で出迎えた。

「ジュノは息災か」

 祖父を気にかけてもらったことにコルテスは感謝し「元気過ぎる位です」と伝えた。フィリスはその言葉にひとつ頷きを返す。

「今日はお一人ですか?」

 コルテスはフィリスの後ろを覗き込みながら言った。しかしそこには誰も居なかった。

「ルシルさんがたまにみえますよ」

「知っている」

 知っているのか、とコルテスは驚いた。ルシルから「言わずに来ている」と聞いていたからだ。

「何も話していないか」

「ええっと、すみません、何を?」

 相変わらず言葉が少ない『先生』に、コルテスは困った様に笑った。

「先日、外部の人間が街に来ただろう」

「え、そうなんですか」

「……」

 コルテスの反応にうそはない。確実に何も知らない人間の反応だった。フィリスは小さく息を吐くと、窓辺を見た。窓の外で猫が丸くなっている。猫は尻尾を緩慢に動かすと、伸びをしてぴょんとどこかに行ってしまった。

「先生? どういうことですか?」

「……アレに何かあった」

「ルシルさんですか?」

 こくり。フィリスは頷いた。

「彼女、何も言わないんです?」

 こくり。再び魔法使いは頷く。

 コルテスは「それは心配ですね」と深刻な顔になる。

「別に」

「え?」

「心配ということではない」

 コルテスは困惑した。これが心配でなくてなんなのか。だがコルテスにはそこを指摘する勇気はない。

「強いて言えば、有能な家人に辞められると困る」

「あ、ああー。成程?」

 合わせるしかない。コルテスはそう判断した。

「ルシルさん、有能なんですね? ご飯がおいしいとか?」

「……余計なことをしない」

「……」

 何と答えようか、とコルテスの脳内が渦を巻き始める。自分の感性とのかいをひしひしと感じた。

「辞められると、困る」

 フィリスはもう一度そう言うと、帰る素振りを見せた。欲しい情報が得られないと分かった時点で用事は済んでいる。

「何か分かったらお知らせします!」

 背後に聞こえるコルテスの声に、フィリスは少しだけ振り返って頷いた。


 バサバサ、と鳥の羽音が街の上から聞こえる。

「なんか、最近鳥多くないか?」

「そうだなあ。言われてみれば?」

 コートデューの街の上をカラスやはと、その他の鳥たちが行き交った。

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